ねこ、母を訪ねて――
十二時を数分過ぎた所で、列車がホームへ入ってきた。美月は旅行用のショルダーバッグを肩にかけ、耳障りな音を立てて止まったそれに飛び乗る。
彼女は浮かれていた。さっき駅前の喫茶店でパフェを食べたからだ。ボリュームたっぷりでほっぺたが落っこちそうになった。
乗ってから三十秒くらいすると、アナウンスが流れて列車が動き始めた。平日の昼、しかも周りに田園風景が広がるような田舎線では、乗車している客も少なく、手動のドアの窓から二、三人が座っているのが奥の方に見える。
「ふーっ」と美月は重いバッグを肩から下ろし、床で引きずらせながら、開けたドアをくぐる。
ふと、彼女は車体と平行に並んでいる座席の上で、少し太めで短足のねこが窓に前足をかけて外の様子をうかがっているのが見えた。茶色の毛に黒いはん点がついている。
「ねこさんも旅行?」
童話チックなことをつぶやきながら、美月はねこのすぐ横へ腰を下ろした。そのねこは逃げずにチラッと彼女を見た。人間に飼われているねこなのかな?
荷物を座席の上へ乱暴に置くと、美月はその体をなでてみた。毛並みが良く、飼い主に大事にされているのがわかる。
「旅って一人もいいけど、やっぱり誰かと一緒のほうが楽しいかも」
そんな事を言いながら、彼女はさっき自動販売機で買ったジュースをがぶ飲みした。今日も暑い。
「そう? 一人の方が気楽じゃないかい?」
突然、左側からおばさんのような声がした。だが、そちらを見ても誰の姿もない。
「あれ? 今のは気のせい?」
バッグからスナック菓子を出して食べ始めた。
「どこ見てるの? ここだよ」
窓の方を見ていたねこがこちらへ向いた。細くきれいな瞳がにらむ。
「何か言ったらどうだい? じれったくて仕方がない」
ねこが口をパクパクさせてそう言った。えええー!! と美月は座席の隅っこまで後ずさる。
「ね、ねこがしゃべった……?」
口にくわえていたスナック菓子が床へ落ちた。かろうじて、ジュースの入ったペットボトルは右手に握られている。
「汚いねぇ。公共の場はきれいに使わなくちゃいけないんだろう?」
ねこは下に落ちたそれを覗きこむ。
「ご、ごめん……。あ、わかった! もしかして最新式のロボットなんでしょ? いやぁ、うまく出来てるなぁ」
座席を滑るようにして近づくと、ねこの頭をなでた。しかし、この感触は本物のねこだ。もふもふしていて温かい。
ねこはそんな彼女の手を振り払いながら、
「なーに言ってるんだい。あたしはまぎれもない普通のねこさ。それ以上でもそれ以下でもないね」
「で、でもそれじゃ、やっぱりしゃべってるのはおかしいよ。童話とか映画とかじゃないんだから」
その言葉を聞いたねこは、はあっとため息をついた。
「あのさ、人間の勝手でねこはしゃべらないなんて決めないでおくれ。あんたらに、あたしたちの全てが理解できるわけないんだから」
うーん、夢でも見てるのかな。まだホームの待合室で寝てるのかも。
「ねえ、ねこさん。お願いがあるんだけど」
「……なんだい?」
「わたしのほっぺたを引っかいてくれない?」
はあ? とねこは美月の表情をうかがう。こいつ頭おかしくなったの?
「夢ならそのショックで覚めるでしょ。だからお願い!」
ギリッとねこは奥歯をかみしめた。
「まだ疑っているのかい? このガキは!」
お言葉に甘えて、二回ほど少し力をこめて引っかいた。目を覚ますには十分だろう。
「いったーい!」
思わず飛び上がった。美月の悲鳴が車内に響く。
「どうした? 大丈夫か?」
カメラを首にかけたおじさんが、心配そうに近づいてきた。美月は座席に顔をうずめて悶えている。
「……だ、大丈夫です……。転んだだけですから」
必死に言葉を吐く。おじさんは一度こちらを向いて去っていった。
「わかったかい? 夢じゃないってことが」
見つからないように座席の下に隠れていたねこが席へ戻る。そして美月のほっぺたを一回舐めた。
「あんたに傷がついてお嫁にいけなくなっても、あたしは知らないからね」
少し痛みが引いた美月は、顔を上げて気にしないで、と返す。
「わたしがやれって言ったんだもん。あなたに責任はないよ」
まだヒリヒリするほおに顔をしかめながら、ねこの体をなでる。やさしいねこさんだ。
ジュースを飲んで落ち着いた美月は、今一度訊いてみた。
「ねえ、あなた本当に普通のねこなの? ということは、他のねこもしゃべるの?」
ねこは面倒くさそうに、そうだよ、と答える。
「まあ、好き好んで人間と話したがるねこは、そんなにいないね」
「それじゃ、どうしてあなたはこんなにしゃべるの?」
「……ヒマだったからさ」
それだけ言うと、座席の上で丸くなった。これからお昼寝タイムらしい。だが、もちろん美月の興奮はまだ冷めるはずもなく……。
「ねこさん。ねこさんはどうして列車に乗ってるの?」
顔を上げたねこは言った。
「その前に、あんたから話すのが礼儀ってものじゃないのかい?」
「あ、ごめんね。ええとね、わたしは旅行してるの。列車に乗って好きな駅で降りて、行きたい所へ立ち寄ってまた列車に乗るんだ。今、中学校は夏休みだから、時間はいっぱいあるしね。お金は、ばあちゃんの畑仕事を手伝ってかなりたまったから」
ふーんとねこは話を聞いていた。あまり興味はわいていないようだ。美月が、次はねこさんの番だよ、と言う。
「しょうがないね。あたしは、母親とその主人に会いに行くんだよ」
「母親?」
美月がけげんそうな顔をする。
「そう。たしかもう両方とも歳だから、死んでしまう前に一度見ておこうと思い立ったわけさ」
ねこが親に会いたがるのも珍しいな、と美月は思ったが、ねこが口を利くということよりはまだすんなりと信じられた。
美月は腕をくんで考え始めた。ねこが嫌そうに目をそらす。こいつ、変なことを言わなければいいが。
「決めた! 今日はねこさんについていく!」
ずっと持っていたペットボトルをバッグにしまう。えー、と明らかに拒否の声をねこは出した。
「どうしてだい? あたしは一匹で行動したほうが探す効率は高くなるのだけど……」
だって、とねこの頭をなでてご機嫌をとる。
「旅はいろんなことのあったほうが楽しいもん!」
美月は満面の笑みを見せた。少し考えて「好きにしな」とねこは同行を許した。話し相手になってくれたお礼らしい。
目的の駅へ列車が止まると、ねこは座席から飛び下りて先へ行ってしまう。
「待ってよー。荷物重いんだから」
そんな美月を、ねこはうさんくさそうに見る。
「あたしのお荷物だけには、ならないでおくれよ」
駅員に見つからないように、すばやい動きで改札口をでていった。美月も慌てて追いかける。
外は、生ぬるい風が吹いていた。しかし、適度に雲が日差しをさえぎっているので、暑さが若干やわらぐ。
「あんた、あそこから自転車を借りてきな」
残りのジュースを一気飲みしていた美月を見上げた後、駅の事務室の辺りを向いた。
『自転車、貸します』という広告が、十台くらい止められている自転車置き場に貼られている。
「家ってそんなに遠いの?」
美月は歩きながら、足もとにいるねこに話しかける。
「あたしだけだったら何日かけても全然問題なかったんだけど。あんた、列車に乗り遅れたら大変なんだろ?」
「う、うん……。ありがと」
「ふんっ! さっさと行くよ!」
逃げるかのように早足で歩いていく。
荷物を駅に預けた後、ねこをかごに入れて自転車をこぎ始めた美月は、どちらへ進めばいいか尋ねた。
「ええと……、ここは右だね」
思い出すように手で指図した。よく見ると、少し坂道になっている。地図でも記憶してきたのと彼女が訊くと、そうだと荷台に前足をかける。
しばらくは直進だよと言ったねこは、力を込めてペダルをこぐ美月へ向いた。
「ねえ、あんたがなぜ旅をしているのか、まだ訊いてなかったね。どうしてだい?」
え……? と少しの間ねこを見た彼女は、前を見ながら話し始めた。
「わたし、学校であまり友達がいなくて。部活にも入っていないし。正直、クラスメイトと一緒にいても疲れるだけなの。だから旅の中で…………思いがけない出会いをしてみたくて。あてもなく移動しているわけ」
少し恥ずかしくなった美月は、元々赤かった顔がさらに紅潮した。
「ふーん……。つまり恋人探しかい? ずいぶん積極的じゃないか」
からかうように彼女を見上げるねこ。ハンドル操作が狂ってあやうくかごから落っこちそうになる。うれしそうに舌なめずりをする。
「ち、違うよ! ただ、仲良くなれる友達がほしいだけだもん。まあ……、いい人が見つかればそれに越したことはないけど」
「やっぱりねぇ。年頃の女の子が考えていることなんて、みんな同じなんだねぇ」
「べ、別に初めからそれを期待してはいないんだよ? 人生なにが起きるかわからないってこと!」
美月から汗のしずくが、ハンドルに数滴落ちた。
「あたしは里子に出されたんだよ」とねこは語り始めた。美月にしつこく訊かれたからだ。
「生まれてから三か月たって、五匹いた兄弟はすぐ里親が見つかったんだけど、あたしはその一か月後に引き取られたの。
あたしを連れて行った人間は、母親を飼っている主人の幼なじみで、その時からだいぶばあさんだったよ。大切にしてくれた。
でも、一週間前突然死んだんだ。病院に行ったけど助からなかったよ。最期を見れなかったのがとても悔しかった」
「そうか、だから……」と美月は相づちを打つ。
「そうさ。親の死に様を見届けたいと思いついたわけだよ」
ねこはしばらくの間、前を向いて黙り続けた。
ちょっと止まっておくれ、とねこが言った。「家を見つけたの?」とブレーキをかける。
「この辺だと思うんだけどねぇ……」
あたりを見回しているが、特定は出来ていないようだ。
「なにか手掛かりは思い出せない?」
美月は汗を手で拭う。さすがにずっと自転車をこいでいれば暑くなる。
「うーん。母親の主人が、とても頑固なじいさんっていうことしかわからないよ。前にばあさんが話していたのを聞いたから間違いない」
それならかんたんだよ、と少女はねこの頭をなでる。
「訊きこみをすればいいんじゃない?」
スタンドを立てた美月は、え? と戸惑うねこを残し、近くにある民家のインターホンを鳴らした。
中から出てきたのは、五十代くらいのおじさんだった。
「すみません、この辺に頑固なおじいさんって住んでいませんか? ねこを飼っているんですけど」
突然の質問に困っている様子だったが、「ああ!」と一人の名前を挙げた。
「そう。この辺で条件に当てはまるじいさんは、その人だけだよ」
こんなに早く見つかるとは思わなかった。話を聞いてお礼を言うと、彼女はすぐにねこのもとへ戻った。
「見つけたよ! この裏手に住んでるんだって」
そう言いながら再び自転車をこぎだす。
ねこは驚いたように、美月の顔を見つめたのだった……。
「着いたよ! 名前もあってる」
ねこがかごから飛び下りた。そして、辺りのにおいをかぎ始める。
「おかしいねぇ……」首をかしげている。
「何かあったの?」
「この家からまったくねこのにおいがして来ないんだよ。家自体のにおいには覚えがあるけど」
美月はとりあえず、その家を訪ねてみることにした。
彼女がインターホンを鳴らしたと同時に、ねこはその家の中庭へ入っていった。
「あ、ちょっとどこへ行くの――」
「だれじゃ?」
ドアが開けられ、薄い格好をしたおじいさんが目の前にいる少女をうさんくさそうに見た。
うわさ通り、なかなか頑固そうだ。額にしわを寄せている時点で、他人を毛嫌いしているのがよくわかる。
「あ、あの。ここにねこが住んでいると聞いてやって来たんです。わたしもねこが好きなんですよ」
「おお、あんたもねこが好きなのか。どこの誰かは知らんが、ねこ好きに悪いやつはおらん。ちょうどワシもたいくつしていたのでな。どうぞ、会ってあげてくれ」
とたんにおじいさんが笑顔になる。さっきとはまるで正反対の表情だ。
「おじゃましまーす!」
ふう、と一息入れて玄関でくつを脱いだ。外と違って、中は気持ちいいくらい涼しい。
「ささ、こっちで手を合わせてくれ」
「え?」
仏壇の置かれた部屋へ通された。写真が飾られていて、塀の上で丸くなったねこが写っている。
「……亡くなったんですか?」
「そうなんじゃ。一年くらい前に老衰でな。十分生きたよ」
すでに悲しみは吹っ切れているのか、おじいさんは眉ひとつ動かさない。
安らかに眠るよう祈ると、庭からねこの鳴き声が聞こえてきた。それを聞いて真っ先に庭へ向かったのはおじいさんだった。
「あいつは……」
おじいさんは言葉を失った。死んだねこの墓の前で鳴いているのが、かつて飼っていたねこにそっくりだったからだ。
「あれは、わたしのねこです。どうしてもここへ来たかったようなので、一緒に探していたんです」
「そ、そうか。あんたのねこか……。驚いた。昔飼っていたやつに似ておる」
美月がくつ下のまま芝生の庭へ降りようとすると、ねこがやって来て小声で言った。
「まただ。またあたしの知らない所でいなくなった……」
「大丈夫。あなたのお母さんはきっとすぐそばにいるよ」
うなだれている頭をなでてあげた。
あんた、とおじいさんが中へ入るように言った。家で飼っていたねこの話をしてあげよう、と座布団に座る。
「このねこも入れていいですか?」
おじいさんは、もちろんOKだとほほ笑んだ。
彼は、息子が家を離れてからねこを飼い始めたことや、妻が亡くなった時なぐさめてくれたこと、そして彼女の最後はおじいさんのひざの上だったことを、途中言葉を詰まらせながら語った。人生経験がたっぷりしみ込んだ言葉だった。
その話を、美月とねこはしっかりとおじいさんの顔を見て聞いていた。
話が終わるとねこは美月にまた小声で、
「来てよかった。母親がどれだけ愛されていたかがわかったよ」
と言うと、丸くなって目を閉じた。この家の空気を味わっているようだ。
「ただいまー」
玄関のドアが開いて、若者の声がした。ねこが顔を上げる。
「ああ、ワシの孫だよ。大学に通うために、去年からうちに住んでいるんだ」
すぐに、その孫が顔を覗きこんできた。
「あれ、このかわいいねこちゃんたちは誰?」
ね、ねこちゃん“たち”!? 美月はドキンとした。若手俳優のようにイケメンだからだ。
ときめいたのは彼女だけではなかった。なんと、ねこまでもがハートを射抜かれてしまった。
「ごろにゃ〜ん」
ねこが若者の足にすり寄った。そんなねこを、彼はしゃがんでなでてやる。
「この子らとはついさっき会ったばかりでな。うちのねこに会いたいって来たんだよ」
へえ、そうなんだ、とねこを抱えあげた。幸せそうにねこは目を細める。
「そういえばこのねこ、前にじいちゃんが飼ってたねこに似てないか? いいなぁ、飼いたいなぁ」
「でもそのねこはお嬢ちゃんのだろ?」
おじいさんが美月を見ると、実は違うんです、さっき出会ったばかりなんです、とありのままを話した。
「そうか。それならここに置いてもいいわけか」
若者はおじいさんへ視線を送る。その意味をおじいさんは感じ取ったらしい。
「まあ、いいだろ。ちょうど何か飼おうと思っていたところだったしな」
やったー! とねこのあごをなでる若者。ねこの今後は、もう決まったようだ。
最後にねこへお別れを言った美月は、おじゃましましたー、とその家を出た。
もっとねこさんとお話ししたかった。彼女は一回だけ、あのねこがいる家を振り向いて見た。
ねこさんが嬉しそうにしていて良かった。いつかねこが、この家の人に見守られながら旅立つことができればいいなぁ。
……少し早めに家へ帰ろうかな。美月はうれしそうに、そしてねことの別れを惜しみつつ、駅へと自転車のペダルをこいだ。