託された夢
あれから更に二カ月が過ぎた。
私はある日の約束を果たすために買い物に出ている。
ひときわ大きな店を見つけた。
そこは『桑名随一のビッグショップ』と銘打たれた鞄店だった。
中でもひときわキレイな鞄を探した。
その時、不意に
『あのさ、私たち、里奈さんに迷惑かけっぱなしじゃん。だからさ、近いうちにパーティー開いて、里奈さん驚かせちゃおうよ。』
幸華の言葉が頭に浮かんだ。ちょうど六ヶ月ほど前、幸華と計画したことだ。
だが、いろいろあった上に幸華が死んでしまったため、実現できなかった。
だが、今はなにもない。今こそ幸華から託された夢を実現する時だ。
そう思い、また鞄探しを始めた。今度は何か迷いがなくなり、澄み切った冬空に消えていくような心持ちになった。
三十分後、ようやく鞄を買うことができた。
そして、平津総合病院に戻ってきた。ギリギリの外出時間だったから平気なはずだ。
里奈さんは仕事で午後七時までいないという。
この日は病院史上二番目に大きい手術だと聞いていた。
ちなみに一番の大手術は幸華だったらしい。
――だが、皮肉なことにその大手術は見せかけだったのだ。
むしろ、大きな陰謀のせいで大手術になったとしか思えない。
香奈が言ってたように、あいつは人間としては二階堂や二川よりも下である。
人を殺して笑えるのは気違いかゲスだけだと思う。
しかもあいつは気違いでも、ゲスでもある。
だが、元々は普通の人間である。
非常に面倒な奴だ。
もはや愚痴でしかなくなってきた。これはよくない。もっと楽しいことを考えなければ……。
――果たして、楽しいことなどあるのだろうか。
最初からろくでもない人生だった。親は死に、学校ではいじめに遭い、やな先公のクラスに入れられ、しまいには幸華が死んでしまった。
そんな私に幸せを語れるのであろうか?
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翼が心配になった。何故だかはわからない。
いや、わからないふりをしているだけなのかもしれない。
つまり、悲しいことから目を背けているだけなのかもしれない。
私はある答えに行き着いた。
――幸華が死んでしまったことをまだどこかで引きずっている?
信じたくないが、きっとそうなのだろう。
私には何もできない。だけど、放っておけない。
私は翼がいる白の世界に向かって走り出した。
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翼が退院する前日の午後、香奈は翼の病室に入った。
相当な勢いで走ってきたため、息は上がっていた。
彼女は悲しそうに翼を見た。
なぜなら、翼が泣いていたからだ。
彼女は優しい。だが、打ち解けるまでは我が強く、頑なだった。
その頑なな時に、彼女の優しさを見抜いたのが幸華だった。
幸華は本当の彼女の姿を翼に伝えたくて詞を書いたのだ。
その詞にはこんなフレーズがある。
『気づいたときには 扉が出来 その扉は閉じられた』
つまり、本当の彼女の姿は彼女の頑なさという鉄の扉の向こうにあり、早く扉を開けないと、その扉に鍵をかけられてしまう。
そうなると、二度と彼女の本当の姿は見られない、と警告しているのだ。
こんなフレーズもある。
『やめろ そうごまかすのを その傷を』
このフレーズで、幸華は翼に向けている世界をもう一つ展開し、今度は翼自身にも言葉を向けている。
幸華は彼女たちのことをよく知っている。
そして、何でもわかっている。
だからこんな詞をたくさん書けるのだ。
――彼女は泣きじゃくる翼を慰めた。
そのときにはもう虚無の世界などなく、バラ色の世界が広がった。
――もう十分にバラ色に染まりきった時、彼女は翼に聞いた。
「翼、どうしたの?」
すると、世界のバラ色がだんだんに淀んできた。
「悲しくなってきちゃって。」
彼女は固まった。何が?とは余りにも翼に纏わりつく空気が悲しすぎて言えなかったのだ。
「最初からろくでもない人生だったよ。
親は死に、学校ではいじめに遭い、やな先公のクラスに入れられ、教師にはいじめられ、しまいには幸華が死んでしまった!!
そんな私に幸せを語れるのであろうか?と自問自答していたら悲しくなってきちゃって。」
彼女は絶句した。それと同時に、自分の無知を恥じた。
少し間を開けてから彼女は言った。
「自分を卑下しないでよ。私達がついてる。もう悲しい思いなんて、させないわ。」
翼は再び泣き崩れた。
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翼の悲しすぎる過去に圧倒されて言葉につまる。
一体どれくらいの間、悲しすぎる闇に包まれていたのだろうか?
少なくとも三年。それは決して短くない年月だったであろう。
彼女はそれを耐えてきた。だけど、幸華が死んでしまったことにより、ついに防壁が崩れてしまった。
しかも、その幸華が死期を迎える前に殺されていたのだ。
彼女の防壁を壊すには十分過ぎるどころか、オーバーキルである。
なのに、彼女は私を庇ってくれた。
物音が聞こえたら来いと言ったのは私だが、あんな激しい暴行の雑音が聞こえていても来てくれるとは思わなかった。
内心、『来るな。』と思っていた。今、翼にあんな目に遭って欲しくなかった。
だけど彼女は来てしまった。
そのとき、軽く絶望した。そしてすぐにこう思った。
『翼らしい。』と。
彼女は、自分のことを後回しにして、人のことを最初に考えてくれる。
だが彼女の場合、どんな窮地においても人を優先する。
それは、自らを滅する最大の天敵になりうるだろう。
だが、彼女はそれを省みない。
そういう人を俗にこう呼ぶらしい。
『バカ』と――。
といっても、ここでいう『バカ』は、勉強ができないという意味での『バカ』ではない。
この世界では、こんな言葉がある。
『バカ正直』――。
そう、翼が持ち合わせている『バカ』はこのような意味でのものなのである。
だから、心の中できっと届かないであろう呼びかけをする。
「無茶しないで。」と――。
*********△■□◆◇◎●○▽▼●
私の涙が引っ込み、里奈さんの仕事ももうすぐで終わるであろう六時五十五分。
私は例の鞄を持って里奈さんを待っていた。
幸華から託された夢がいま時を超えて繋がる。
時は刻々と里奈さんの仕事が終わる時間になり、鞄に凝縮されてゆく。
――七時になった。だが、里奈さんは来ない。
いつまで待っても来ない。
だんだんに不安になってくる。
時計が直角を差した。私の心はもはや短針のように水平である。
なぜなら、私は諦めていたからだ。
――コツ、コツ、という足音が聞こえた。
そして、ガラッと扉が開いた。
私の止まった時は静かに動き出した。
「里奈さん。これどうぞ。」
――私は里奈さんに例の鞄を差し出した。
「これ、私にくれるの?」
「はい。」
「私はあなたを裏切ったのよ?」
「忘れてください。もう四カ月も前の話じゃないですか。それに、この計画は六ヶ月も前からあったんですよ?」
「私のために…わざわざありがとう。」
「いえいえ、これでも足りないくらいです。
本当にお世話になりました。」
私は深々と頭を下げた。
「じゃあ、お大事に。ってのはまだ早いわね。明日の九時だっけ。」
「八時三十分です。」
「明日で最後なんだ…。寂しくなるわね。」
「いいえ。またお見舞いに来ます。おやすみなさい。」
「おやすみ。」
私はすぐに眠りについたのであった。
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私は涙をやっとのことでこらえていたが、翼ちゃんとの別れを思うと涙が止まらなかった。
そして、翼ちゃんをあんなに傷つけてしまったことを悔やんだ
あんなバカなことをしなければもっと一緒にいられたはずだ。――彼女の優しさと。
流れた涙は止まることを知らなかった。
ふと隣を見ると、泣きはらした表情の優子がいた。
「優子、どうしたの?」
「広美の右腕が、一生使えないって。どうしよう。」
「何で?」
「右大胸筋から肩にかけて、傷口の周辺部の筋肉が壊死しちゃってるらしくって、すでに移植のタイムリミットがすぎてるって。」
「そういう時こそ、あなたが支えてあげなくちゃ。」
「そうよね。ありがとう、里奈。」
私はちょっと照れくさくなった。
早く寝よう。そう思った。
早く寝て、気持ちを落ち着かせよう。じゃないと、泣いてしまいそうだ。
*********△■□◆◇◎●○▽▼●
翌朝、私が退院する時間になった。
病院のエントランスには、里奈さん、香奈、裕也をはじめとした七人がいた。
「それじゃ、みんな元気で!!」
私はみんなに向かって叫んだ。
そして、みんなを振り返ることなく歩き出した。
――近鉄の車内で、幸華の手紙を読んだ。
【つーちゃんへ。
今までありがとう。私とつーちゃんは小三からの親友だったよね。
そして、色んなことに立ち向かったよね。
中学生になっても相変わらず親友で、食事は決まって『まつはし』だった。
たまに学校まで配達してもらってるのが先公にバレて怒られて。
楽しかったよね。あの時は。
だけど、来橋に目をつけられて、私がヘビースモーカーだとかいうデマが飛び交って。
あの時、私を慰めてくれたのが、つーちゃんだった。
そして、来橋に立ち向かってくれたよね。
殴られてるつーちゃんを見たとき、一番つらいのはつーちゃんだと思った。
入院生活の最初の方は、なるべくつーちゃんを遠ざけようと思った。
そのせいで、ひどいことばかり言って、つーちゃんを悲しませてしまったね。
ほんとにごめん。
そんなことをしていながら、こんな事言うのはおこがましいと思うんだけど、私、つーちゃんのこと、何でも知ってるわ。
だから、歌詞にして伝えたんだ。
気に入らなかったら、捨てていいから。
だけど、出来ることなら、世に広めて欲しい。
お願い、つーちゃん。私が託した夢、きちんと繋いで?
お空から待ってます。
present by 幸華】
涙が溢れた。
私は何が何でも発表しようと誓った。
胸の中には笑ってる幸華がいた。
――帰ってから、自作歌詞の投稿サイトを見つけた。
私は無我夢中でキーボードを叩いた。
無機質な音が部屋に鳴り響き、反響する。
だが、その音の一つ一つに幸華が思いを込めて書いたものがある。
そして、命がけで思い描いた夢がある。
それが、集合体になってネットにアップされ、世に繋がる。
――幸華の夢が今、叶った。
彼女が生前にしたかったことの一部が、完成した。
夢は途切れることなく、まだ続く。
私が幸華に出来ることは、幸華の夢に沿って歩むことである。
どうせ、やりたいことなどなかった。
幸華に庇ってもらったお礼として出来ることはこれくらいなのだから。
こうして、私は幸華の遺志を継ぐのだった――




