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嵐の中で

 プラットホームは賑わっていた。東京行きの最終新幹線に接続する特急列車を待っているのだ。家族連れや大学生の集団、背広姿のおじさんなどが、大きなバッグを足元に置いて、特急列車の乗り口の案内板の前に列を成している。お盆のUターンラッシュ。普段の通勤ラッシュ以上の混雑ぶりだ。

 場内アナウンスが列車の編成案内などを告げる。あと五分もしたら特急はやって来る。でも、たぶん最後になっても、あたしは隣で列に並んでいるおとうさんには、声を掛けることはないだろう。家を出てから今まで、あたしは一言も言葉を発していない。言いたいことは山程ある。でも、それ以上におとうさんとは言葉を交わしたくなかった。

「……いつまでも意地を張るんじゃない、晶子」

 東京に単身赴任しているおとうさんは、帰省している四日間、何度となく同じ台詞を言っている。でも、だからって、それに返答なんてしない。わかってる、意地を張ってるのは。それでも、許せないから、意地を張り続けてるんじゃない。おとうさんは、ずっとわかってくれなかった。だから、返答なんてしてあげない。

 おとうさんは、軽く息をついて、また黙ってしまった。悪いのは、みんなおとうさんなのだから。それ以上、何も言えっこないのだ。

 到着ベルが鳴る。真っ赤な特急列車がホームへ滑り込んでくる。車内は立ち客まで出て混雑していた。おとうさんは指定席を取っていると言っていた。ドアが開き、並んでいた客がぞろぞろと乗っていく。

「じゃあ、おとうさんは行くからな。おかあさんを困らせるんじゃないぞ」

 そう言って、おとうさんは列車の中に消えていった。

 発車ベルが鳴る。ドアが閉まり、列車はホームを離れていった。

 ぼおっと列車の消えた方を見つめる。しばらくして、下りの普通列車がホームに入ってきた。どやどやと降りてくる客にまぎれて、あたしは改札を出た。

 おかあさんを困らせたのは自分じゃない。憤りを感じながらも、おとうさんの言った『おかあさん』が、あたしの本当のおかあさんのことではないのはわかっていた。『おかあさん』――由紀さんが戸籍上のおかあさんであっても、あたしは認めない。そんなの、おとうさんが勝手に決めたことじゃない。あたしは絶対に認めない。

 駅舎を出て家路につく。……でも、やめた、しばらく街を歩こう。家に帰ってもつまんない。どうせ待っているのは由紀さんの哀しそうな顔なんだから。

 立ち読みできる本屋へ向かう。その途中、赤信号を待っていると急に強めの風が吹いた。

 ああ、そういえば、台風が近づいているってニュースで言ってたな……。

 空を見上げる。青空に浮かぶ大きな雲は、かなり速いスピードで流れている。南方海上にある台風は日本列島からはまだかなり距離があったけど、明日か明後日にも上陸する恐れがあるとテレビで言っていた。

 やだな……。台風って、好きじゃない。風で家がきしむし、雨が雨戸に当たって、不安になってしまう。停電になったり、川が氾濫したり……。

 なにより、家に閉じ込められてしまうのが嫌だ。あんな家に閉じ込められるのが。

 本を買って帰ろう。少しでもあの人に会わないために。


     ☆     ☆


 な……、なによこれ。

 文庫本を二冊買って家に帰ってみると、あたしの部屋が荒らされている。机の引き出しの中身が散らされて、押し入れが開けっぱなし、ベッドの下の物入れも出しっぱなしになっている。

 ちぐさだ。考えるまでもない、ちぐさのしわざに違いない。

 まったく、何度言えばわかるんだろう。あたしの部屋には絶対に入るなっていつも言っているのに!

 机の一番下の引き出しに入れていた毬がなくなっている。ちぐさの目当てはこの毬だ。あたしが七歳の時におかあさんからもらったもので、ずっと大切に持っている。赤い玉に七色の糸が巻いていて、とってもきれいな毬――おかあさんの形見。交通事故で死んでしまったおかあさんの形見だ。だから、誰にも渡したくない、なのに……!

 ちぐさはよほど気に入ってるんだろう。由紀さんと一緒にやってきた六歳の女の子。隙があれば毬を奪って遊んでる。抱えてるだけならまだしも、土の地面の上でついている。汚れちゃうのなんて気にもしてない。そんな奴に貸してあげられないわよ。貸す気なんて元々ないけど。

 川の公園だ。あの子はいつも、近くを流れてる川の土手の公園で遊んでいる。早く行って取り返さなきゃ。万が一川に落とされでもしたら大変だ。

 階下に下りる。由紀さんの姿が見えない。きっと買い物にでも行ったんだろう。居間とダイニングキッチンに明かりがなく暗い。夕方四時、いつもより暗い。外も暗い。窓の外を見ると、濃い灰色の雲が早く流れながら広がって、今にも雨が降りそう。

 と、玄関の引き戸の開く音がした。嗚咽と鼻をすする音も。ちぐさだ。そう思ったあたしは、玄関へ駆けつけた。

 ちぐさは、玄関にたたずんだまま泣きじゃくっていた。あたしが前に現れると、涙で潤んだ瞳を向ける。その手には、毬はなかった。

「毬はどうしたの、ちぐさ!?」

 こう言うと、また再び涙を溢れさせる。ま、まさか……!

「ちぐさ、毬は!? 落としたの!? ねえ!」

土間に下りてちぐさの目の高さに合わせる。問いただすと、また泣きだした。

「ちぐさ、答えなさいよ!!」

 肩を強く掴んで揺する。ちぐさはようやく声を発した。

「……か、……川に、落としたの……。探したけど……、……なかった……」

 落と、した……、川に!?

 脳裏でぷつって音がしたような気がした。手加減できない。振り上げた右掌はちぐさの頬に直撃した。

 ほとんど無防備に近かったちぐさは横にはね飛び、頭から下駄箱に激しくぶつかった。

 爆弾が爆発したように、ちぐさは泣き叫んだ。

「バカ!! どうしてなくしたのよ!!」

 床に伏せているちぐさを肩を掴んで起こし、もう一度床にたたきつける。

「バカ! バカ! バカ!!」

 罵倒の言葉がいくらでも口からでてくる。言い足りないくらい。こんな子がいなければ、こんな奴が来なければ……!!

「やめて、晶子ちゃん、やめて!」

 何度かちぐさをひっぱたいたところで、いつのまにか帰ってきていた由紀さんに止められた。由紀さんは床に倒れているちぐさを抱きしめて、あたしを見上げる。

 な……、なによ、この構図は。まるであたしが悪いみたいに……!

 ちぐさはまだ悲鳴のような鳴き声を上げている。あたしが、悪いんじゃないのに……。いやだ。急に体の熱が冷めていくような気がした。いやだ、あたし、怒りに任せて、こんな小さな子に手を挙げてたなんて……。

 でも、ちぐさのほうが悪いもの。あたしに手を挙げさせたちぐさが悪いんだもの。

「あ、あんたたちが来なければよかったのよ。泥棒みたいにあたしから大切なものを奪っていって……。あんたたちが悪いんだからね! ちぐさ!!」

 由紀さんの腕の中で守られている小悪魔を呼ぶと、ちぐさは肩を激しく震わせあたしを恐る恐る見た。

「あんた、絶対捜し出しなさいよ、でなきゃ、許さないから」

 なんて目であたしを見るの? さぐちはあたしに怯えている。いままでそんなことなかったのに……? そんな莫迦な。この子らは侵入者だ、優しそうな瞳で馴れ馴れしく言い寄ってきた悪魔だ。怯えた目をしてることが……、どうしてそんなに気になるの。おかしいよ、あたし。

「絶対捜し出しなさいよ!!」

 そうよ、こんな子がどうなってもあたしの知ったことじゃない。おかあさんの形見の毬は、命に代えてでも捜し出さなければ、絶対に許してやるものか。

 踵を返して、あたしは階段を駆け登り、自分の部屋にこもった。ベッドに倒れて、大きなため息をついたら、急に涙があふれてきた。

 おかしいよ、今日のあたし。どうして泣けてくるんだろう。

 手がまだ痺れてる。ちぐさを引っぱたいた感覚。人に手を挙げたのは、初めてだ。しかも、6歳の女の子を……。

 いやだ、もう。なにもかもが。毬をなくしたちぐさも、攻めるように見つめる由紀さんも、見境なく怒ったあたしも、ちぐさを叩いたあたしも……。いやだ、いやだ、いやだ……。

 涙が止まらない。おかあさん、会いたいよ……。

 あたし、どうしたらいいの……。


     ☆     ☆


 気がつくと、部屋の中は真っ暗だった。いつのまにか、寝ちゃったんだ。窓から街灯の明かりが差し込んでいる。枕元を探って時計を取る。午後八時半。

 横になったまま体を反らして窓の外を見る。低い雲が街の明かりを反射して鈍く輝いている。動きが早い。気持ちが悪いくらいどよどよと動いている。

 眼の周りが熱い。腫れてるような気がする。涙のせいだ。やだな、かっこわるい。

 タオルケットを顔にかぶせる。おなか、すいたな……。でも、もう夕食は終わってるだろうし、居間に下りていきたくない。顔を合わせたら、また爆発してしまいそう。

 はふ……。ため息が出る。最近、あたし怒ってばかり。ちぐさが何もしなければ怒ることもないんだけどな。もっと言えば、由紀さんたちがおとうさんと再婚なんてしなければよかったんだ。

 交通事故から一年後、突然再婚話が降って湧いてきた。誰に勧められたわけでもない、おとうさんがこっそり付き合っていたらしい女の人と再婚するという。新しいおかあさんだよ、なんて締まりのない笑顔で言われたって、あたしは受け入れられなかった。

 反対した。だって、おとうさんはおかあさんと結婚してたんでしょ? なのに、おかあさんとは別の女の人と付き合っていたの? それも……、おかあさんが生きていた時からずっとよ。お葬式のときのおとうさんの涙が、白々しいお芝居のように思えた。喪中にちょくちょく出掛けていたのも、帰りが遅かったのも、みんな由紀さんに会っていたからなんて、おかあさんがかわいそう。

 まるで図っていたかのように翌年の命日の翌日、再婚宣言をして、あたしの反対なんか耳も貸さず、入籍してしまった。しばらくして、この家に侵入してきた由紀さんは、正直な感想、優しそうな人ではあったけれど、不倫なんてしてた女なんだから、外見だけでは判断できない。そしてもう一匹。

 いつになったら怒らなくて済むようになれるんだろう。すべては、おとうさんが悪いんだ。そう思って怒りをぶつけようにも、再婚以来東京へ単身赴任してしまっていない。一方でちぐさの悪戯は止む様子さえない。必然、鬱憤はちぐさに向けられてしまうんだけど……。もういやだよね、こんなこと。あんまり怒りつづけてると、ぶさいくになっちゃうよ。

 とはいっても、ちぐさと由紀さんを許せはしない。それだけは、譲れない。

 ――トン、トン……。

 ノックの音……、きっと由紀さんだ。

「晶子ちゃん、起きてる?」

 優しいソプラノの声が聞こえる。返事、しようかな。このまま黙ってたいけど、でも声を発したい。じっと横になったままなのも疲れた。

「……起きてる」

「おなか、すいてるでしょ? ごはん、できてるわよ」

「いらない」

 おなかはすいてるけどね。

 ――何言ってるの、本当はすいてるんでしょ? いつまでも意地を張ってないで降りてらっしゃい。

 おかあさんと喧嘩した時のことを思い出した。あの時もこんな感じでやりとりをした。おかあさんなら、喧嘩のことなんていつまでも引っ張らなくて、いつもと変わりなく話しかけてきたものだ。だから、なんとなく怒る気がそがれてしまって、喧嘩はそこで終わった。

「そう。……ごめんなさい。ちぐさにはよく言って聞かせたわ。あれから私と探してみたんだけど、みつからなくて……。ごめんなさい」

 ……謝られたら、こっちも引っ込みがつかないじゃない。やだな、わがままな女そのものの答え方をしてしまう。

「で? 諦めろって言うの? できるわけないでしょ。あれは、それこそあたしの命よりも大事なおかあさんの形見なのよ。それをあっさりないだなんて、よく言えるわね。捜し出すまで、あたし絶対食べてあげないからね」

「諦めろとは……。明日、もう一度ちぐさと探すわ。だから、どうか、ちぐさを許してやって」

 こう言うと、すぐに階段を降りていく音がした。

 いやだいやだいやだ。どうしてこんな口の聞き方になっちゃうのよ! 由紀さんも由紀さんよ。あたしなんかに頭下げちゃったりして。あたしが悪役じゃない、まるっきり!

 ミシッ、バタンバタバタバタ……。

 突然、家が震えた。心臓が弾む。ドキドキしてる。びっくりした、風が吹いたんだ。

 庭の木が大きく揺れているのが見える。いよいよ嵐がやって来るんだ。静かな夜を突風が駆け抜けている。

 台風が、こんな嫌な気分を吹き飛ばしてくれればいいのにな……。

 いっそ、あの二人を吹き飛ばしてくれれば……。


     ☆     ☆


 朝。起きると、外は低い雨雲が流れている。朝の目覚めには最悪の天気。気分も最悪。

 今日は吹奏楽部のお盆休み明け最初の練習がある。コンクールが終わり、引退する先輩たちからあたしたちへ楽器が引き継がれる儀式があるから、今日は絶対休むことはできない。

 強い風が時々吹く。ひどく湿っていて、生暖かい。気分が悪くなりそうな。

 家を出掛け際に、すがるような視線を向けていたちぐさに、あたしはこう言い放った。

「……絶対見つけなさいよ」

 体を弾かれたように首をすくめ、怯えた目を向けるちぐさ。絡みつくような視線――この台風の風と一緒だわ。気分悪い。

 古い石橋を渡って土手道を上流へ、土手に生えた大きな枯れクスノキの前から土手を降りて、住宅の間の細道をちょっと行くと、中学校の裏手に出る。グラウンドの隅にあるプレハブが吹奏楽部の部室。

 時間はちょっと早いかな。なにせ、朝御飯食べずに出てきたから。由紀さんに声すらかけずに。

 部室のドアは開いていた。

「おはようございまーす。……って、なんだ、真由美しかいないの」

 それほど広くない部室の中にいたのは、幼なじみの真由美だけだった。サックスパートの椅子に座って菓子パンを食べてる。ぐるる、おいしそう。

「おはよ。朝からずいぶん不機嫌だね」

「ん……、そお?」

 顔に出てたんだろうか。

「またけんかしたの? 晶子、飽きないね」

「別に好きでやってるわけじゃないわよ。あたしの気に障ることばかりするあいつらが悪いんだから。……ん、と。ね、お願い。半分ちょうだい?」

「いいけど。朝、食べてないの?」

「うん……。そのまま出てきたから」

「ふうん。今度、そんなにひどいんだ」

 真由美はうちの状況を知っている。朝のあたしの顔を見る度に、けんかしたかどうかわかるくらい。まあ、気分を素直に顔に出してしまうあたしのこともあるけど。

「おかあさんの毬をなくしたのよ、ちぐさの奴が」

「ああ、形見の? で、叱りつけたの」

「絶対見つけ出せってね」

「ちぐさちゃんにそう言ったの?」

「そうよ、一人でね」

「なるほど」

 手に持っていた紙パックの牛乳を吸い潰して、真由美はあたしを睨んだ。

「晶子さ、そろそろやめない? 疲れたでしょ、怒り続けるのも」

 急に何を言うんだろう。

「そりゃ、あたしだって怒りたくないわよ。でもあの子らが……!」

「そんなにひどいこと、してる? なんだかさ、晶子、あがいてるように見える。ただ、再婚に反対してるだけでさ、それ以上の意味、持ってないよ、怒りに」

「だけど、あれはおかあさんの形見だったのよ! それを持ち出してなくしたんだから、怒るのは当たり前じゃない」

「だからって、六歳の子に探させるの? それ、八つ当たりだよ」

「八つ当たりだなんて……」

 否定は、できなかった。あたしは、おとうさんに不満がある。勝手に再婚して厄介者のちぐさがやって来たこと。それに文句を言おうにも、当の本人は単身赴任中。まちがいなく、あたしは八つ当たりをしている。

 でも、だからってちぐさは許されるもんじゃない。あの子は一番やってはいけないことをしたんだから、当然の報いだわ。

「あのさ、あんたが猛烈に怒ってるのはわかる。けどね、八つ当たりでちぐさちゃんを叱りつけるのはよくないよ。もっとさ、おおらかに構えてもいいんじゃない? そりゃ、電撃再婚をしたおとうさんに怒ってるのは知ってるけどさ、それでいつもいつも怒り続けてると、ますますこじれちゃうよ。まあ、別に怒るのがだめだとは言わないけどさ、気に入らないから、とか、嫌いだから、っていう理由で怒り散らすと、そのうち自分も嫌われちゃうよ」

「……」

「いいじゃない、もう。由紀さん、だっけ? 別に変な人じゃないんでしょ? いつまでも意地を張ってないでさ、仲良くしたら?」

 ――『……いつまでも意地を張るんじゃない、晶子』

 おとうさんと同じことを言ってる。意地を張ってるのはわかってるわよ。でも、どうしろって言うの? おかあさんは、おとうさんと一緒にいたのよ! なのに、横から割り込んできた由紀さんをおかあさんと思えって言うの? そんなの、できるわけないじゃないよ。

「……ま、すぐにって訳にはいかないよね。でもさ、考えてよ。ね? はい、あげる、パン半分」

「……ありがとう」

 そんなの、できるわけない。絶対、できるわけない。

 半分にちぎれたパンを頬張りながら、あたしはずっと否定しつづけていた。


     ☆     ☆


 一際強い風がプレハブを激しく振動させたかと思うと、大粒の雨が横殴りに降ってきた。古い部室のトタン屋根や隙間のあいている窓ガラスがドドドと鳴っている。

 儀式はすべて終わり、簡単なジュースパーティーをしていたあたしたちは、突然のわかってはいたけれどに窓の外を見つめた。雨で外の景色がにじんでみえる。真っ白に霞んで街の色が溶けだしているような。

 その雨の中を、顧問の先生が部室のドアを開けた。

「おい、今日はもう帰れ。暴風雨圈にもうすぐ入るぞ」

 不安な声があがる。が、その声も雨のぶつかる音がかき消している。

「家の遠い者は車で送る。他はなるべく川に近づかないように気をつけて帰れ」

 先生はそう言って、一番遠い地区の子を四人連れて出ていった。残ったあたしたちは片付けをしてそれぞれ帰路についた。


     ☆     ☆


 だああ、もう、傘なんて役に立たないじゃない!!

 雨は強い風に乗って横から吹きつけてくる。傘を風向きに合わせても、支えきれない。髪も制服もぐしょぐしょになりながら、土手の道を進んでいく。途中のクスノキがミシッて嫌な音を立てていた。

 この土手の途中に、ちぐさが毬をなくした公園がある。古い公園で、遊具は塗装がはげてるし、周りの鉄柵は所々に穴が開いていてみすぼらしい。噴水も詰まってて水が出ているのを見たことがない。

 ブランコが強い風に揺れている。風向きによってはシーソーまでが持ち上がってる。

 と、そんな中になにか赤いものが地面を張っているのが見えた。

 なんだろ。良く目を凝らして見る、と。

 あれ、ちぐさじゃない。まだ探してるの、この暴風雨の中を?

 何考えてるのよ。この強い風の中で見つけようって言うの? 無茶よ、まったく。

 公園へ向き、ちぐさを連れて帰ろうとして――。いや、だめだ。あたしはあの子に、絶対に捜し出せって言ったんだ。ちぐさはそれを忠実に守っているだけだ。あの子は探さなくちゃいけないんだから、放っておけばいいのよ。

 風は常に強く吹いている。公園の木々はしなったまま元に戻れず、細い枝が耐えきれずに折れはじめている。あの子だって莫迦じゃないんだから、危険だって思ったら帰ってくるわよ、きっと。

 公園を離れる。不安……ではある。でも、大丈夫よ。

 土手の道を歩いて橋まで進む。橋の下を見ると、今朝より水位が上がっていた。茶色く濁った水が大きく波打って下流へ流れている。古い石橋はその水の勢いで少し振動していた。

 帰ろう、早く。濡れた制服のせいで、寒くなってきた。

 橋を渡りきり、家へ走っていく。ふと、後ろを振り返る、けど、公園は風雨で見えなくなっていた。


     ☆     ☆


 帰ってみると、家には誰もいなかった。午後一時、由紀さんはパートの時間だ。まだ帰ってないんだろう。バスタオルをもって部屋に上がり濡れた制服を脱いで体を拭いた。

 着替えて程なくして、玄関の戸を開ける音が聞こえてきた。あの開け方は、由紀さんだろう。気にせず、あたしはベッドに転がって、昨日買ってきた本を開いた。

 十五頁ほどめくったころ、階下で足音がせわしく響いている。なんだか、右往左往しているみたい。何か、探してるんだろうか――。

 ややあって、由紀さんが階段を登ってあたしの部屋の戸を叩いた。

「晶子ちゃん」

「……何?」

「ちぐさを知らない? 家の中にいないの」

 ……なんだ、由紀さんはちぐさを探してたんだ。

「知ってるよ。公園にいた」

 こう言うと、突然ドアが開けられ、由紀さんが部屋に入ってきた。

「ち、ちょっと何よ。勝手に入ってこないでって言って――」

「ちぐさは公園にいるの? どうして連れて帰らなかったの?」

 あたしの文句を遮って由紀さんは詰め寄ってきた。

「毬を探してるようだったから、そのままにしてきただけよ」

「そのままって……。この暴風雨の中に放ってきたの!?」

 由紀さんの声色が変わった。怒っているような感じ。

 何を怒ってるのよ。あたし、何もしてないじゃない。

「別に大丈夫よ。ちぐさだって莫迦じゃないんだから、危ないと思ったら帰ってくるよ」

「あの子はまだ六才よ! こんな強い風の中で大丈夫なわけがないでしょ」

「関係ないわよ。あの子は、あたしの毬を探さなきゃいけないんだから。この風でますます見つからなくなってしまうほうが怖い」

「晶子ちゃん! あなた、ちぐさより毬のほうが大事だと言うの!?」

 カチン。言ってくれたじゃないの。ちぐさと毬とどっちが大事かなんて、火を見るより明らかだ。おかあさんの形見の毬は、何者においても優位にあるのよ。

「毬に決まってる。ちぐさはそれをなくしたんだから、当然償わなくちゃいけないのよ」

「ちぐさが死んでもいいって言うの!?」

 悲鳴のような由紀さんの声。

「……そうよ。最初からあんたたちがいなければよかったんだわ。あたしとおかあさんの間に割って入ってきて、母親のふりなんかして! 死んじゃえばいいのよ、あんたたちなんか」

「晶子!」

 由紀さんの怒鳴り声にはっと振り向くと、平手があたしの頬に迫っていた。

パアンッ――。

 視界に星がちらついた。座っていたベッドに、勢い良く倒れる。左の頬が、熱い。

 あたしは、由紀さんを睨み付けた。

「な、なにすんのよ!!」

「晶子、死んじゃえばいいなんて、どうして言えるの!!」

 由紀さんの方が弾み、目の端から涙滴がにじんでいた。

「私はあなたの母親にはまだ成りきれてないわ。あなたのおかあさんには絶対に追いつけない。でも、私はあなたを大事な娘だと思っているわ。晶子ちゃん、あなたの口から死んじゃえなんて言葉が出てくるのは、とっても悲しい。考えてみて、大事な人が死ねって言ってるのよ。私じゃなくても、あなたのおかあさんは、もっと悲しんでいるに違いないわ」

 おかあさん……。

「私はあなたのおかあさんの代役になろうとは考えてないわ。でも、母親としてあなたの信頼を得ようと努力しているの。ちぐさもそうだわ。あの子はあなたに無視されるのが一番悲しいって言っていた。あなたに構ってもらいたくて、部屋に無断で入ったり、毬を借りていったりしていたの。晶子ちゃん、お願い、わかって。私たちはあなたといがみ合うために再婚したんじゃないわ。新しい家族になるためにやって来たの。あなたが再婚に反対していたのは知っているわ。でも、私たちはあなたと家族になりたいの。晶子ちゃん、お願い。二度と口にしないで、死んじゃえなんて。その一言で、あなたのすべての心が拒絶されてしまうわ。母親と思わなくても構わない。でも、家族だって事を忘れないで」

 ヒュゴウ、ドンッ! ギシギシギシ……。

 家が横に大きく揺れた。突風が窓の外で暴れている。電線が風にたなびいてヒュウヒュウと鳴っている。真っ白い霧みたいな雨粒が真横に突っ走って、景色がうっすらとした見えない。

 ――ちぐさは? どうしたの、まだ家に戻ってない。

「晶子ちゃん!」

 由紀さんの声が、頭の奥の奥まで響いた。

 ちぐさ……、ちぐさを連れて帰らなくちゃ! あの子、まだ探してるんだ!

「由紀さん! ちぐさを、探してくる!」

 駆けだした。由紀さんの制止を振り切って、部屋を出、階段を降り、靴を履いて家を飛び出した。


     ☆     ☆


 おかあさん、ごめんなさい! あたし、あたし、ちぐさが死んでしまえばいいだなんて思ってた。あんなに風が強く吹いていたのに、あんなに雨が降っていたのに、あたし、無視してしまった。あたしの腰くらいの背丈しかない子が、地面を這って、突風の中を探していたのに、あたしはそれを、いい気味だとあざ笑って、はいつくばる姿を見捨ててしまった。

 再婚に反対して、おとうさんに反感を持って、継母に八つ当たりして、連れ子を見捨てて……。でも、それはあたしのあがきでしかなかったんだ。おかあさんがいなくなって泣きじゃくっている子供と一緒……、それはわがままでしかなかった。そのわがままでちぐさを危険な目に……!

 公園へ走る。風のせいで、真っ直ぐ進めない。髪はぐっしょり濡れて風になびいて、頭がそれに引っ張られるような感じ。Tシャツもショートパンツもすっかり雨水を吸ってしまって、冷たく肌に張りついてくる。履いた靴の中に水が入って、浅いプールの中を走っている気分になる。

 電線の鳴る音。雨が激しくぶつかる音。風、雨、風、風! 何が何だかわからない音の嵐で、耳が痛い。その向こうに、ドオーッという低く響く音が。

 川の濁流の音だ。橋の姿が見えてくると、その音の発生源がわかった。もう少しで公園。

 と。

 橋の上に、赤いものが。

 ちぐさだ! 橋の真ん中、橋柱で支えてる境目辺りで、欄干にしがみついてうずくまっている。

 どうしたの? 怖くて先へ進めなくなったの? ちぐさはうずくまったまま動かない。

 橋の上流から、水しぶきが上がっている。一時間前より水位が倍以上になっている。まだ堤防を越えるほどではないけど、橋桁からほんの数十センチまで迫っている。

 橋の袂まで来てみると。

 橋が壊れてる!! 向こう側半分が、水中に消えている!

「ちぐさっ!!」

 ちぐさは断崖のすぐそばで震えている。後ろは猛烈な勢いで流れる濁流。ちぐさならずとも、落ちればひとたまりもない。

「ちぐさ! 待ってなさいよ、いまそこに行くから!」

 叫んだものの、ちぐさに聞こえてない。風と濁流の音がかき消している。

 とにかく、早くあの子のところへ行かなければ。川の流れに沿って吹く強い風に飛ばされないよう、欄干に手を掛けて一歩踏み出す。

 と、わ、やだ、この橋揺れてる。

 微かに左右に揺れている。足元を見ると、橋と土手の接点がずれて左右に揺れていた。

 橋桁に何かが引っ掛かっている。枯れ枝のように見えるけど……、いや、もっと大きい。

 上流を振り向くと、いつも見えていた枯れクスノキがなくなっている。あれが流されて橋に引っ掛かった。向こう半分はそれで壊れたんだわ。古い石橋だから、脆くなっていたのかも。

 怖い。どうしよう、ちぐさのところまで行けるの? 途中で橋が崩れたら、この濁流の中に……。

 いや、あたしがちぐさを助けなくちゃ。いまここでちぐさを見捨てたら、それこそあたしは二度と償うことのできない罪を背負ってしまう。ちぐさを助けなくちゃ。そして、心から謝りたい。

 欄干を支えに、ゆっくりと歩みを進める。ちぐさまで、五メートルくらい。でもいつもすぐに渡りおえてしまう橋が、今日は・かに遠い。気まぐれに吹いてくる突風に体を押しつけられ、大粒の雨が前の視界を遮る。ちぐさまで、あと少し。

 ゴン、ゴン。

 足元から鈍い振動が伝わる。同時に、橋が大きく揺れた。欄干にしがみついて、目を強くつむる。やだ、落ちる!

 すぐに揺れは納まった。なにか大きな岩が当たったんだろうか。と、向こう半分側に引っ掛かってたクスノキが、ゆっくりとこっち半分側に動きはじめている。

 あれが当たったら、こっち側の橋も崩れてしまう。

 急がなくちゃ! 一歩、二歩、ちぐさに近づいて。

「ちぐさ!」

 欄干から手を離し、あたしはちぐさを抱き寄せた。

「ちぐさ、ごめん! ごめんね! あたし、ひどいことをしてた。ごめんね!」

 赤いサマードレスはびしょびしょに濡れて、ちぐさは寒さと恐怖で震えていた。あたしのせいで、あたしのせいで、こんな目に逢ったんだ。

「ごめんね、ごめんね、ごめんね」

 ちぐさがあたしに抱きついてきた。泣いている。温かい液体が冷えた体に気持ちいい。こんなに温か

い涙は、初めて見たと思う。

「お姉ちゃん、毬……」

「いいの、もう。ごめんね、あたしが無茶なことを言ったから……」

「違うの、毬、ほら」

 そう言って、足元を指さす。ちぐさの、突いた膝のあいだに、形見の毬があった。

「見つけたの。公園のジャングルジムの裏の溝にあったの」

「ちぐさ……」

「お姉ちゃん、ごめんなさい」

 そう言って、顔を胸に埋めてくる。この子は、あの風の強く吹く中で、雨が激しく打ちつける中で、あたしのために毬を捜し出してくれたんだ。あたしの無茶な言葉を本当に信じて……。

 再び橋が大きく揺れる。もう危ないわ。戻らないと。

「ちぐさ、さあ、家に帰ろう」

 あたしはちぐさの左手を取った。ちぐさは右手に毬を抱える。この子のために、あたしは絶対岸にたどり着いてみせる。例え橋が崩れてしまっても、この子だけは。

 欄干を伝いながら、一歩一歩確実に進んでいく。何度も鈍い振動が伝わってきたけれど、動じずに、ちぐさの左手をギュッと握りしめて。

 あと一歩。あたしはちぐさを引っ張って前に出し、先に土を踏ませた。そして、あたしも袂の土を踏む。これで、もう安心だ。

 と思った瞬間。

 引っ掛かっていた枯れクスノキが、勢い良く方向を変え、こっち半分の橋に激突し、橋はドドドドという音を響かせて、濁流へ呑まれていった。

 土手の下までやって来ていた由紀さんに抱えられ、あたしとちぐさはようやく家にたどり着いた。

 危険なことはしないで、怪我でもしたらどうするの、と、由紀さんに泣かれたけれど、あたしたちはむしろケロッとして笑いあっていた。

 こんなすがすがしい気分は、久しぶりだ。橋の上は怖かったけれど、助かってしまえば笑いがこみ上げてくる。ちぐさも同じ気分なんだろう。大きな声で笑いつづけていた。


     ☆     ☆

「いいよ、上がって、真由美」

 夏休み最終日。部活も今日だけは休みの日、夏休みの宿題を片づけようと、あたしんちへやって来た。

「晶子、どこまでできた?」

「んー、あと数学だけ。読書感想文は一週間は大丈夫でしょ?」

「まあね。私、あと社会と理科があるんだ。写させてよ」

「数学はできてないの?」

「大体ね」

「じゃ、交換条件。社会と理科は全部できてるから」

 階段を登りながらこんな会話をして、あたしの部屋に入る。中では、ちぐさが絵本を読んでいる。

「ちぐさ、あたしたちこれから勉強するから、よそで読んでくれる?」

 ちぐさは笑顔でうんと答え、大きな絵本を抱えて階段を降りていった。

「へえ、仲良くなったんだ」

 意外そうな声で真由美が言う。

「そうよ。いつまでも意地を張ってばかりじゃいけないって気づいたの。ちぐさは悪くないんだし」

 そう、ちぐさは悪くないんだ。もちろん、由紀さんも、おとうさんも、悪くはない。それは人それぞれの人生だし、おとうさんが誰と結ばれても、あたしはおかあさんのこどもなんだから。そして由紀さんは母親の役割を十分は足してくれている。それで十分。

「結構、晶子、しつこい性格だからなあ。たった二週間で考えを改めるとは思わなかったわ」

「悪かったわね、しつこい性格で。そんなこと言うと見せないよ」

「交換条件だよね。じゃ、私も見せない」

「いいわよ、別に。数学は苦手じゃないもん。社会と理科の二つをあと一日で仕上げるのは大変よねえ」

「……ごめん、見せて」

 ボケに回った真由美とお互いに笑う。夏休みももう終わり。あしたから、学校が始まる。

 秋の乾いた風が、窓から部屋に入ってきた。

                                         <了>



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