第三話
かくの如き不幸なことは彼女にとって母の死に次いで悲痛なことであった。
彼女にとってはあの宿は自分の唯一の商売道具そのものであった。
それ以上に彼女と彼女の母の思い出の地である。
いずれにしても彼女は宿のその悲惨な運命を目にして崩れ落ち、気を失ったのであった。
彼女の人生の悲惨がここから始まったことは言うまでもない。
「キリロヴァさん」
目を覚まして一番に聞こえたのはその声であった。
低く、どこにでもいる凡庸な男の声、声の主は町の自警団の隊長であった。
彼女はどこにいるのだろうと上半身をムクッと起こすと、辺りを見回した。
どうやら、周りの顔ぶりを見るに向かいの家のベッドに寝かせられていたらしい。
向かいの家の住人の一人が自警団の隊長がいる事が何よりの証左であった。
ふと、彼女は宿が面する道が見える窓を見た。
見ると、火事はすっり収まってあの忌まわしい紅とそれに追随する黒い霧はすっかりと消えていた。
代わりに見えたのは、嗚呼、彼女の心の有り様のような、悲劇の残骸であった。
周りには自警団や近所の連中がわんさかといた。
彼女はただそれを見ている。まるで夢心地かのように。
だが、これが現実である。彼女はその現実から逃避するかのようであった。
「キリロヴァさん?」
だが、その心持ちも再び聞こえたその自警団隊長のその声で打ち砕かれた。
彼女はやはり現実にいると言うことを実感するより他なかった。
「キリロヴァさん…この度の火事は誠にご愁傷様です…。」
「…………」
「つきましては、その生活の補助についてもおいおい町役場での評定で決めて参りますので、どうかご安心ください…。」
「……………」
「えー、ご心傷、深くお察しいたします。実はこの度私が貴方様に聞きたいのはですねー、えー。」
「ごちゃごちゃ言ってないで早く言っておやり!」
やけに丁寧な言葉で言う自警団隊長にそんな言葉が飛び出た。
誰がそんな声を発したのかと言えば、自警団隊長の太っちょの妻であった。
「その子に御託はいいから、早く言っておやり、あんたの慰めなんかいらないんだよ!」
「ごちゃごちゃウルセェーな!」
自警団の隊長はあっさりと先ほどまでの気味悪いほどの丁寧な感じから一変して、野卑な言葉遣いとなった。
「オメェーはごちゃごちゃ口出すんじゃねぇ、黙って洗濯物でも飯作りなんでもやってこい!」
「へ!あんたがいる家の中でできるかい!」
「なんだと!」
「あのー」
イゾルデはそんな彼らの争いの中で一人、やや間抜けな声をあげて、彼らの喧嘩を中止させた。
「あっ…キリロヴァさん…すんません。」
「さっき言ってた聞きたいことって…?」
隊長は我に帰ると顔を赤くして猛烈に汗を吹き出しながら言った。
「実はぁですね、貴方様の宿の跡地から一人遺体が見つかったです。」
「え、」
彼女はひどく戦慄した、まさか…まさか…
宿の客が…
「あっ、宿の客ではないんですよ。」
「え?」
そこに隊長の妻がやってきて言った。
「宿の帳簿が焼けてない状態で奇跡的に見つかってね、帳簿に載ってた人と宿から避難、もしくは外出していた人間が全て一致してたのさ。」
「そうなのですか?」
「うん。どうも全員何かに導かれるように出てきたとか言ってるけど…」
そんなことを言っていると、隊長は
「お前はなんで出しゃばってきてるんだ…まぁ、とにかく犠牲者は誰一人出てないわけなんだ。」
「ほっ…良かった…。ん?じゃあその遺体っていうのはどういう…?」
「ああ、それなんだがなぁ、奇妙な状態で見たかったんだ。」
「奇妙?」
「ああ、石の棺に入っていて、ちょうど君たちの宿の床下あたりにあったんだ。」
「石の棺…?」
「ああ、焼けて出てきたんだな、とにかく奇妙さ、丁重に葬られていて、遺体の周りにはいろいろと財宝のようなものがあるしな。」
「ハァ…」
「何か知らないか?あの遺体について。」
「いやぁ…何も…」
「うーん、やはりか…まぁ、あれが埋められた頃には君は多分子供の頃だろうしなぁ…。」
「ハァ…ん?なんで子供の頃って分かったんです?」
「イヤなに、宿泊客の一人に高名な学者様がいてね、彼が鑑定してくれたのさ。なんでも二十年ほど前に死んだ遺体らしい。ちょうどあの大動乱の頃さ。その頃の君は物心のない頃だろうしね。」
「ハァ…ところでその博士ってジョハネス・サンポウ博士とか言うのでは?」
「ああ、そんな名前さ。」
「ふーん、やっぱり。」
「しっかし、いろいろと事件が立て続けに訪れるなぁ…宿が焼けたかと思えば、宿泊客でもなんでもない謎の遺体が見つかる。うーん、訳がわからん。」
「隊長さん…。」
「ん?」
「この度はお騒がせして申し訳ございません…」
彼女はベッドから降りると、跪いて深々と土下座した。
「本当にすいません。火事を起こしてお騒がせした上に自分は気を失って何もしなくて…迷惑をおかけして申し訳ございません。」
そう言うと、隊長の妻は全てを包み込む微笑を浮かべて、
「よしなさいなー」
と言った。
「誰も迷惑なんて思ってないさ、寧ろみんなあんたのことを心配してんのさ。あんたが倒れこんじゃったもんだから。」
「そうさ、その通りだ。」
隊長自身も同調した。
「みんな君のことを心配している。なんなら今日からでも養ってやろうと意気込んでる人もいるしな。まぁ、そんな気を落とすことではないな。」
彼女はその声に励まされた。しかし一方で彼女は宿の客について心配になった。
「でも、でも、宿の客は…」
「あー、あの人たちも街全体でなんとかするさ。ま、あんま気落ちすんな。俺たちは全員で全員を支え合うんだから。」
彼女は涙を浮かべて言った、
「本当に…本当に…ありがとう…」
後の声は続かなかった。ただただそれを夫妻は微笑と共に見るだけだったのだった…。
彼女が、感動に耽っている中、突如巨大なラッパの音が鳴り響いた。
直後、隊長の部下の一人が部屋に駆け込んできた。
「オイ、今の音は?」
隊長は問う。
「ハイ、ハイ、ランツクネヒトが近くまで来たんでさぁ。」
「ランツクネヒト?」
彼はその声を聞くと一目散に部屋を飛び出していった。
ランツクネヒト…傭兵団を指すその言葉は集落や村にとっては悪魔の如き名称であった。
一部を除いて素行の悪いことで有名な彼らは略奪、強姦と言った暴虐で有名だった。
治安の良いここでその名称を聞くことは非常に稀だった。
しかし、時として来ることがある。自警団が存在するのはそれが理由であったのだった。
たちまち不安が町に駆け巡った。
定期的に郊外からはラッパの音が鳴り響き、その度に村の人々は広場をあてもなく混乱の中で右往左往するのだった。
数時間後
結論から言えば、町の人々にとってランツクネヒトの来訪は拍子抜けするほど穏やかであった。
まず、初めに彼らを拍子抜けさせたのは、ランツクネヒトの軍団の礼儀深さであった。
ランツクネヒトの軍団は町の郊外まで来ると、ランツクネヒトの隊長が直々にやって来て、町長と会談をした。
彼らはランツクネヒトの中でも最精鋭の、帝国直隷軍の一部隊であった。
帝国直隷軍という名前からも分かるように、彼らは帝国の中央政府直属の部隊である。
彼らの強靭さと規律の厳格さ、そしてその権威、名声は、今や無政府が蔓延している帝国の中にあって、異常と言えるほど高いものであった。
そんな帝国直隷軍隷下のランツクネヒトの部隊の隊長のフランツ隊長は町長に対して一度敬礼すると、畏ってこう言った。
「ゲルブング帝国帝国直隷軍第三雇兵軍団支隊隊長フランツで申候。斯様な折、突如として押しかけ申候こと、誠に驚愕をお与え致し候たことと存じ上げ候。
何卒、事情を御了察賜り、御寛恕下さりませ。」
こんな調子の非常に格調高い言葉によって、フランツ隊長は町長に対して補給と一時の駐屯を申し入れた。
こんな感じで、礼儀深いものだから、もともとランツクネヒトをタチの悪い連中だと思っていた町長達の彼らに対する好感度は上がった。
町長達は彼らの礼儀深さに感銘を受けたこと、そして彼らの強靭さによる恐れからあっさりとその申し入れを受けた。(最も、最初から受け入れないという選択肢はないのだが)
会談の後、フランツ隊長が一旦軍団の元に戻ると、直ちに町では受け入れの手配や歓待のためにてんやわんやの騒ぎになった。
女であろうと男であろうと、皆が食事の準備をし、歓待のために贈り物なんかがかき集められた。
町中の宿で兵を泊めるために、部屋から宿泊客が追い出され、旅人の連中の不満が渦巻いた。
そんなもんだからイゾルデの宿の火事のことなんか皆忘れてしまったものである。
そうして、ついにランツクネヒトが町に入城してきた。
町を取り囲む城壁にある二つの門のうちの一つから、兵士たちが軍靴を鳴らしながら、入ってきたのである。
住人達は全員その門から町の広場までの道にずらっと並んで、俯いてじっとするのであった。
そんな中を兵士たちは粛々と、しかし厳格な雰囲気で歩を進めるのだった。
そうして、広場に入って整列した彼らは、主に二つの集団に分かれて整列することとなる。
一つはマスケット銃といった銃を装備する銃隊
もう一つは、パイクを装備するパイク隊であった。
総員の数は百名ほどであり、それぞれ半分ずつの人員であった。
整列した彼らは、町の住人達による歓待の儀式を受けた。
儀式では、まず住人達による踊りが為された。
この町特有の独特な輪舞である。
その輪舞はかつてこの地に根強かった、異教の時代の名残とも言われ、そのアクロバティックな動きと、ダイナミズムはまさにその象徴であった。
その後、花束が贈られたり、町の教会の司教の説法などの後、リミッツ教の主神バーゴロンに対する羊の生贄を捧げる儀式が行われた。
司教は言う、
「天にまします我らの神よ、どうぞこの生贄を受け入れ給へ…………云々」
そんな感じで、羊を殺して、その遺体を焼くといった儀式が行われた
その後、今度はランツクネヒトが儀式を行った。
と、いっても非常に単純な儀式である。
彼らは町に対して一切の危害を加えないと、軍旗を使って宣誓するのであった。
こんな感じで儀式は終了するのであった。
儀式の後、ランツクネヒト達は宿の宿泊のために幾つかの班に分かれて散っていったのであった。
彼らが散っていった後、住民達の間では安堵の空気が広がった。
そうして、住民達も歓待の儀式の後片付けのために散っていったのであった。
日はとっくに落ち、あたりはすっかり暗く、夜となっていた。
儀式の後を見計らって、赤毛の犬が広場で寝そべる中、
各々は各々の役割を果たすのであった。
翌朝
その朝は霧が立ち込めていた。
いつもの癖からイゾルデは早起きした。
もうすでに宿はないのに…
無意識的に彼女は現実から逃避しようとしていた
いかに町の人々が慰めようと、彼女のその心持ちはなかなか変わらない。
彼女は目覚めた際にも、宿が焼けたことを夢であるように願って目を開けるぐらいには現実から逃避したがっているのである。
彼女は二度寝をしようとした。
しかし、寝付けない。
瞼を閉じると、そこには暗闇の代わりに宿が焼ける様子、母の死、それらが混然一体となる様が映し出されるのである。
しばらくして、彼女はベッドから立ち上がることにした。
「少し散歩しよう…」
彼女はそうボソッというと、泊めてもらっている自警団の隊長の家の玄関のドアを開けて、外に出るのだった。
外に出た途端、目の前に突如謎の壁が現れた。
否、壁ではないむしろ…肉壁と言った方が近いかもしれない。
見上げると、そこにはこれと言って特徴のない…無理矢理、特徴を言うとしたら目の下にホクロがあるといったことしかない、凡庸な顔立ちの中年の男の顔があった。
「おはよう…そして、ご機嫌よう…。」
ランツクネヒトのフランツ隊長はそう言うのであった。
イゾルデはいきなり隊長と会ったもんだから一瞬間ギョッとした。
それでもすぐに彼女は平常心を取り戻して挨拶したのだった
「お、おはようございます…………」
フランツ隊長はそれに対してウンウンとうなずくと、イゾルデに和やかな顔でこんな風に質問した。
「あー、君はココの家主かな?」
イゾルデはそれに対して首を横に振ると、
「いえ……ココの家主は自警団隊長です………。」
フランツはそれに対してホ~と白い吐息を吐きながら言った、
「すると……君はこの家ではどういう立ち位置なんだね?」
「居候です………」
「居候………そりゃまたどういう経緯で?」
「家………というか宿が焼けたもんで………」
「ン?と言うと後ろのあれは君の‘‘家‘‘だったところかね?」
彼は親指を後ろにクイックイとしながらそう言った
その先には暗闇の中に同化している炭でできた黒い残骸があった。
「は、はい………」
「フーム、それなら話は早い。」
彼はそう言うと、彼女を黒い残骸のもとに手招きしながら歩きだした。
イゾルデもその手招きに応じて歩き出す。
白い吐息を吐きながら興味深そうに隊長は聞く
「あー、君。実は我々がここに来たのは町長に云った通り、駐屯と補給もあるんだが、ちょっとした警備の一環でもあるんだ。」
「はあ」
「あーつまり私が言いたいのはココが焼けた際に出た煙と思しきものが我々が森を行進している際に見えてね………ちょうどそのココに向かっていた際だったから何事かと思ったんだよ。」
「へえ」
「聞きたいんだが………どういう経緯で焼けたんだ?」
イゾルデはそれに対して少し頭を捻った、しかしどうにも分からない。町民たちも彼女を慰めるだけで火事の原因も教えてくれなかったし、彼女もいつの間にか、家が焼けたという事実で頭が混乱した上にランツクネヒトの来訪などがあって、気にも留めていられなかった。
しばらく俊巡したのち、彼女はやっと答えをひねり出した
「それが………わからんのです。」
「分からない………?」
「はい………どうにも原因が………」
「竈の火の不始末とかでは?」
「いえ………そんなはずは………ちゃんと消したことを覚えているので………」
「じゃあ………放火………?」
「さあ………ああでも怪しいやつならいましたよ」
「ほう」
彼は体を前のめりにしてそういった
「焼けた日の前日の深夜………顔を布で覆った人が宿に来たんです。そいつは宿が焼ける際も宿の前にいて…そして布を取ろうとしていました。」
「ほぉ…こりゃなんとも怪しいやつだな…そいつは今どうしてる?」
「さあ…それ以来見てないもんで…。放火だとしたら多分そいつが犯人かと…。」
「ふーむ。」
彼はそう言うと、焼けた残骸のあるところまできて急にしゃがみ込んだ。
そこには自警団隊長が言っていたあの棺があった。
「あなたが家から出てくる前に一度ここに入ったんですが…こりゃあなんですかいね?」
彼はその棺を指差しながらそう言った。
「ああ…実は私たちにもわからんのです…。なんでも焼けた後に出てきたと言うので…どうやら床下にあったようですけどどうにも私が幼い頃に埋められたようで…はい…何にも覚えていないし、わからんのです…。」
「ふーん、わからないことづくしだな…。」
そう言いながら彼は再び立ち上がった。
「開けてみても?」
彼はそう聞いた。
「ハァ、別にいいですけど…。」
「それじゃ、遠慮なく。」
彼はそう言うと若干乱暴にその棺を開けたのだった。
棺の中には既に白骨化した遺体が手を胸に当てた状態で横たわっていた。
その周りには金銀財宝がぎっしりと詰まっているのであった。
「ほぉ…こりゃ凄いっ。」
彼は棺の中の財宝の一つを取り出しながらそう言った。
「あ、あの…勝手に物故者の遺物を取り出してもいいんで…。」
イゾルデがそう言うと彼は微笑を浮かべながらこう言った。
「なぁに、気にするな。」
彼はそう、楽天的に言った。
しばらく彼は舐めるような目つきで棺を見渡した。
イゾルデはその様子にちょっとした嫌悪感と寒気を覚えるのだった。
しばらくしたのち、彼の目線はその遺体の指にあたる部分にあった指輪にとまった。
指輪を見た彼の顔色はドンドンと悪くなり、微笑を浮かべていたその顔もドンドンと般若の如く歪んでいった。
「オイ!」
彼は言った。
「この指輪はなんだ!!!」
彼は激昂しながらそう言った。
「へ?へ?へ?」
イゾルデは戸惑うしかなった。
フランツ隊長はしばらく立ち上がって右往左往した、
そうしてイゾルデに向かうと…
「全員呼び寄せろ、村人だろうが旅人だろうが一人残らずだ。」
そう、ランツクネヒトの隊長は言った。
まさに紅い太陽が昇ろうとしている中であった。