第二話
カウンターに出て、イゾルデは少しギョッとした。
そこには宿泊を求める声を発した当事者と思しき人がいたのだが…その人は顔を布で覆っていた。
イゾルデはその異様さに恐れを抱きつつもさっさと済ませようと思い、対応に当たるのだった。
「できるだけ目立たない部屋に泊めてくれ。」
覆面の客は低い男性の声でそう言うのだった。
イゾルデはその声に少し驚いた。なにせ、その声は、覆面をしているその姿とはあまり似つかわしくない、色気のある声だったからだ。
彼女はふと、覆面の下の顔を想像してみた。
声の印象からきっと美麗な面持ちがその覆面の下には広がっているのだと想像が膨らむのだった。
もっとも彼女は年頃の割にはこの手の話題に弱い方ではあったが、それでもやはり色気づく頃合いであったのでこういった想像は思い浮かぶもんだった。
だが彼女はすぐにその考えを打ち消した。
よせやい…なにも知らないこの覆面男に何を期待してるんだか…
「あのー」
覆面男の呼びかけが彼女の耳に入った。彼女は想像から現実に引き戻されたのだった。
気をとりなおして彼女は対応に当たるのだった。
「あっ…すいません…。えーと、三階の一番突き当りの部屋でどうです?」
「ああ…そこにしてくれ。」
彼は顔をおおう布をいじりながらそう答えたのであった。
「それじゃあここに名前を…」
宿泊名簿を差し出すと、彼は左手を使ってぎこちなく書き出すのであった。
名簿にはこう書かれた。
ヴォルフガング・ストランスキー
彼はそう書くといそぎ足でドンドンと階段を上がっていくのだった。
後にはイゾルデだけが残った。
「あっ…」
彼女はふと、あの客にいつまで泊まるかを聞くのを忘れていたことを思い出した。
眠気というものは恐ろしいものである。眠気というものは人というものを狂わせてミスを誘発させるものであるから。
かくいう作者もそうだし、この女の場合もそうである。
彼女は少し考え込んだ…
しかし…
「寝るか…」
いやはや、眠気はこのように人を怠惰にさせる。彼女は怠慢であるとわかっていつつも結局眠気には勝てなかったのであった。
彼女は頭をポリポリと搔きながら寝室に向かったのであった。
この日を境に彼女の運命の歯車は回り始めたのであった。
まだ日が昇りきらない内に彼女は起床した。
顔を洗ったりした後、目をショボショボとさせながらも、宿泊客への朝食等の用意を始めた。
「そういえば…あの火の玉はどうしたのだろう…」
彼女はかまどの火を焚べている際にふとそう思った。
昨夜は眠い中で火の玉に遭遇したが、あの妙な客の対応をしたのちは忽然と姿を消していた。
(やっぱり幻覚なのかな…)
彼女はそう断定した。
彼女、というか彼女がいる地域の人々の思想として神や魔物に幽霊といったものは、彼らにとっていちおうは存在はするものの、大っぴらに姿を現さないものとして認識されていた。
そしてその希少な目撃談というものが彼らに神秘性を持たせていた。
とはいえ、昔はもっとたくさんの目撃談や話があったものである。
今ではすっかり激減しており、その理由はいろいろとあるものの、話の筋から脱線してしまうので割愛させてもらう。
さて、そんな風にしていると日もすっかり上がって続々と宿泊客も起床してきた。
ある者は朝食を食って宿を出発し、またある者は引き続きここに滞在した。
そんな者共の中には昨日、騒動を起こしたあの没落騎士と眼鏡の若者、そしてジョハネス・サンポウ博士とその従者もいた。
「ご主人様、ご主人様。」
従者はそう言う。
「何だね、用件があるなら早く言いたまえ。拳骨を食らいたいか。」
「全く、せっかちなんだから…」
「何か言ったか?」
「イエ、ナニも。それよりご主人様、これから何か予定でもありますか。」
「う〜む、うーん、おーん、いーん、あー」
「やっぱりいつみても考え方が独特すぎる、つまりないんですね。」
「だまらっしゃい!今考えてるでしょ!」
「うわ、急にキレた。しかも何でお母さんみたいな感じに言ってるんですか。」
彼がそう言うと、彼の顔には拳骨が飛んできた。
「うおっ!」
それを彼は間一髪で避けた。
「ひえ〜、やっぱりご主人様こえ〜。このパワハラっぷりよ!」
「ふん、怖いならすぐにやめることだな!」
そう博士が言うと従者は真剣そのものな目で、
「イエ、そう言うわけにはいきません。ご主人様には大恩がありますので。」
博士はそれを聞くと、
「エ…ナニその真剣な目は、あんなもんを大恩だと思ってるの?君?」
といった。
「そりゃあそうでしょう。」
「うーむ、ヴェンチェリヒ君、もっと自分のことを大切にしなさい。こんなアンポンタン博士についてきても何もならんよ。」
「すごい!さっきまで殴ろうとしていた人と同じ人の言葉とはとても思えない!」
「うるさいわい!」
彼はそう言うと、また拳骨を飛ばして、それをヴェンチェリヒ従者はまた避けた、そんな会話を彼らが繰り返す一方、別の席では眼鏡の若者と没落騎士が論争を繰り広げていた。
若者は言う。
「いや、君の考えは間違っている。いいかいこの国には騎士はもう必要ないんだよ。」
それに対して騎士は
「は?何ちゅうことを言うんだね。そんな馬鹿なことあるかい!」
「いやいや考えてもみてくれよ、今や騎士は戦力としても銃火器には無力だし、パイクの密集したところに突っ込んだらすぐに袋だたきさ。戦力としてだけじゃなく、政治でも君達騎士の出番は無しさ、今や能力のある官僚に貴族が政治を担うにふさわしいものだしね。」
「ふん、よういってくれるわ。だがお前は知らなそうだから教えてやるよ!いいか、ここは治安がいいから別としてこの国の多くの地域ははっきり言って無法地帯だ!そんなところにいる人達を守るのは誰だ!そうさ騎士さ。」
「ホーン、君はそう考えるが傭兵でも同じ役割はできるじゃないか。というか、この国がこうなった原因の一つは君達騎士が乱立するせいで畏れ多くも皇帝陛下の権力が弱まったせいじゃないか。これはどう説明するつもりかな?」
「ふん!金で動く傭兵とおんなじにするな!それに同じことは貴族にも言えるじゃあねえか。いいかい、俺たちは…」
彼らの政治談義をこれ以上書いても読者はつまらないだろうからここで区切るとして、彼らはこんな議論を朝早い頃からずっと続けていた、とはいえ、騎士の方は酔いから覚めて冷静さを取り戻したことからか、彼らは議論を白熱させることはあっても昨日のような殴り合いは起こらないようであった。
そんな風に大勢が会するこの食堂にあの顔に布を巻いた男はいないようであった。
彼女は金を払わずに逃げられたら…と思いつつ食堂を眺めたのだった。
さて、そんな食堂も数時間が経つと皆、食事を済ませたので、人はいなくなって、ガランとした様子になった。
人がいない間に彼女は川に洗濯に出かけた。
何せ宿だから大量の洗濯物がある。彼女はそんな洗濯物の処理を熟練の手つきで手早く行うのであった。
「キリロヴァさ〜ん」
後ろからそう呼ばれて振り返ると、そこには同じく洗濯に来た近所のおばさんがいた。
「こんにちは、ボルグさん」
「こんにちは、毎日大変なご様子ねえ。」
「ええ…毎日大量の客が来るもんで…」
「キリロヴァさんはお手伝いを雇わないの?」
「そうですねえ…いつか雇えればいいですが…」
「それなら私の息子を雇ってよ、あの子全然働かないもんだから!この際厳しくしてやらないと!もちろん低賃金でコキ使ってくれていいわよ。」
「ははは…そうですね…考えてみようかしらねえ…」
「そうこなくっちゃ!」
そんな他愛もない会話していると後ろからその息子がやってきた。
「噂をすれば何とやら…」
息子は息も絶え絶えに走って来た。
「オイ!」
「何よ…そんな慌てて、火事でも起きたんじゃあるまいし…。」
「そのまさかだよ!キリロヴァさん!あんたの宿が焼けてんだよ!」
頭が真っ白になった。
何も考えられなかった。
ただ、頭の中ではその、宿が焼けている、という言葉が反芻された。
「エ?エ?エ?」
見れば息子の後ろからはバケツを持った数人の男がやって来ている。
どうやら事実のようだ。
彼女は無意識に走り出した。川に入るために裸足だったのにもお構いなしに走り出した。
石で足から血が出ようと走った。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、
彼女は自分に言い聞かせるように心の中で唱えながら走った。
髪を振りかざしながら走った。
走った、走った。
ようやく茂みを抜けて、建物群が視界に入っててきた。
見ればモクモクと煙が立っている。
嘘でしょ…嘘でしょ…
彼女は唖然とした。
一瞬、立ち止まった。
最も、彼女の中ではその一瞬は無限にも思えたが
一瞬間の後、彼女は再び走り出した。
自分の宿が面する通りに入った。
絶望が目に入る。
嗚呼!
燃えている!燃えている!
なんてことだ!なんてことだ!
彼女の全財産とも言えるべき、母から受け継いだ宿が燃えているのである。
嗚呼…
宿の前までついて、彼女は嗚咽を喉から絞り出した。
視界は滲んで、何も見えなくなる。
絶望が彼女の中を襲う。
消化にあたる近所の男共や宿の客共は大騒ぎし、炎の煌々とした色合いと、その場の喧騒が場にダイナミックさをもたらしていた。
彼女が近所の女共に慰められる中、彼女が絶望に身を委ねて気を失う一瞬の前、彼女は見た。
それは周りが大騒ぎの中で、一人、何事もないかのように、あの頭に布を巻いた男が今にも布をめくらんとする姿であった。






