第一話
「その血の責任は、我々と子孫にある。」
マタイによる福音書27章25節
時にエーヌ暦1245年
春のまだ薄ら寒い日の夕方のことである。
アルという片田舎の町があった。
片田舎の町とはいえ街道上にあったのである程度の賑わいはあった。
そんな町の一角で女が一人階段に座ってタバコをふかしていた。
慣れた手つきでふかしているように見えるその様子であるその女だが、実は彼女がタバコを口に咥えたのはこれが初めである。
その日、たまたま自分の経営している宿の目の前でタバコを売っている商人を見つけたことから興味本位でタバコを買い、今吸っているのである。
否、興味本位と言うには少し違うかもしれない。むしろそれは必要に迫られたものかもしれない。
彼女は今、心に巨大な空白を感じていた。
それは思い出したくもない母の死のせいであった。
ちょうど一年前、彼女の母はこの日にポックリと逝ってしまったのである。
あれから一年、そのことを思い出す度に彼女はその心に迫る思いに悩まされてきた。
全く慣れることのないその迫る思いから逃れる為、彼女は母の死を忘れようとした。
しかし、今日はちょうど一年忌、いやでも思い出さずにはいられない。
彼女がタバコを買ったのはそんな心の空白から少しでも逃れようとタバコの効能に期待したからかもしれない。
少なくとも、彼女の中ではそんなタバコの効能は期待はずれであったかもしれない。
彼女の心の空白は、ちっとも埋まる気配が無かったもんだから仕様がない。
ただただ彼女は夕日の中で感傷にふける他なかったのであった。
ふと、彼女は父に思いを馳せた。
父は……彼女の中では幽霊のような存在であった。
彼女は父親について全く記憶を持っていなかった。
いやそれは少し違うかもしれない…彼女は幼少期の記憶がそ・も・そ・も・存・在・し・な・い・の・で・あ・る・。
幼少期の記憶が薄いことは誰でもあるかもしれないが、彼女の場合は思い出そうとしても一片のかけらも記憶を思い出せない。彼女の最も小さい時の記憶は9歳の時の記憶しかないのである。
そんなもんだから父は全く顔も記憶になかった。
小さい頃に母には何度か父について聞いたことはあったがいずれも微笑んで受け流すだけであった。
きっと思い出したくもない人なんだろう、今思えばそうとしか考えられなくなった。
そう思うと母のことが気の毒に思えて仕方がなかった。
女手一つでここまで育てた母親には頭が下がる思いしかない。
母親への感傷がますます深まるのであった。
そして…日差しは地平線に隠れる前の最後の煌めきを放ったのであった。
「もうそろそろ宿に戻らないと…」
イゾルデ・キリロヴァそうボソッと言うと、階段を上り、建物の中に入っていったのであった。
「うーん、もっと酒ぉ」
ボロ切れの服を着た一人の薄毛の男が朦朧としながらカウンターでそんなことをボヤいた。
「おいおい、そんなに飲んじまって大丈夫なのかい?」
男の隣にいたもう一人の旅人がそんなことを言った。
「うるせぇ!おらぁ…みろぉ…オレの財産を…」
そう言うと、彼は持っていたボロボロの袋から投げ出すように金貨を二枚、銀貨を四枚、それから銅貨を五枚ほどカウンターに出した。
「ほらぁ…オレはぁこんだけ持ってんだぞぉ。そこらの一文無しのガキどもと一緒にするんじゃねぇぞぉ…おぉい。」
「いやぁ…そんなこと言うが…それでも十分…」
「あぁん?!馬鹿野郎この野郎、オレのぉことみくびってんのかおぉん?ちっきしょう、舐めやがってぇ。クッソゥ…オレはぁこれでも昔はそこらの奴より偉い騎士だったんだぞぅ…お前ら如きが気軽に話せるような身分じゃなかったんだっ。」
「ハッハッハッこりゃまたえらく過去に縋りついていらっしゃる。」
後ろからそんな声が聞こえた。そう言ったのは人より背の低い道化であった。
「あ?」
「おっと、気を悪くされましたかな。しかし貴方のことを見ていると本当のことを言わなければいけない気がしましたからな。ハッハッハッ」
「は?おい道化ぇ?何がいいたい。」
「いんやぁ、誇り高い騎士様がここまで落ちぶれ、挙げ句の果てには過去の栄光に縋りついているところを見ていると…ね?哀れで仕方ありませんよ。」
「ちっきしょう…道化め、黙って聞いていれば…。」
そう言うと彼は持っていたジョッキを道化に向かって投げつけたのであった。
「おおっと。」
道化はジョッキをよけ、投げられたジョッキそのまま食事をしていたメガネの若い男のところにまで飛んでいった。
そしてジョッキの中の酒は食事にぶちまけられたのであった。
「おっとぉ…。」
道化はそう呟いた。
「………………………………」
「おーい?」
「おおおおおおい?!なあああああにやってんだぁ?!?!?!?!」
そう言うとその若者は立ち上がると投げつけた没落騎士につかみかかった。
「きっさまぁ?!?!なぁにやってんだ?!おい!やっとありつけた飯に貴様、なぁにしてくれてんだぁ?」
「うるっせぇ、小僧は引っ込んでろ。」
「なぁにが引っ込んでろだぁ、このクソ騎士めぇ。だぁから最近の騎士は嫌いなんだ。昔の騎士伝説に縋りついて、やたらと偉そうにしやがる。何が騎士道だこの野郎。大学にもこんな奴がいたけどあいつも騎士の身分だった、ちっきしょう騎士は黙ってそのまま消えてしまえ。」
「こんにゃろう、お前も騎士を馬鹿にしやがるのか?」
「あったりめーだ。」
「この野郎!殺してやる!」
そこに、道化が割って入ってきた。
「おっとっとっとっと、ご両人方、落ち着きなさされ。」
「「お前は黙ってろぉ!!!」」
二人は同時にそう叫ぶと拳骨で頭をぶん殴ったのであった。
「あっ痛ったぁ。そこまで怒らんでも。」
「黙れ!!!そもそもお前がこいつに話しかけなかったら、こんなことしなくて良かったんだ。」
「そうだぁ、そのとぉり。」
「だいたい何でこいつに話しかけたんだ。ちっきしょう、こんな飲んだくれのボロボロの高慢な騎士気取りに。」
「そうだぁ、そのとぉり。ん?」
「いやぁ〜、ねぇ、話しかけずにいられなかったもんでぇ。」
「ちっきしょう、生意気な道化め。」
「えへへへへへへ」ゴチン「うぉっ、いってぇ。」
突然、道化の頭に拳骨が叩き込まれた。
見るとそこには立派な髭を蓄えた男が道化の後ろに立っていた。
髭面の男は申し訳なさそうに頭を下げてこう言うのであった。
「申し訳ありません。ウチの道化が飛んだ出過ぎたマネをしてしまいまして。」
「ご、ご主人様。どうしてここに。」
「お前が部屋にいなかったもんだから、どうせここに来ていたもんだと思ってな。まぁたこんなしょうもないことをしよって。」
「う、うーん。」
「ご両人方、本当にどうも申し訳ありません。こいつには厳しく教育いたしますから…。」
「どうせ、この性質は矯正できやせんよ。ハッハッハッ。」
そう言うと、また道化は髭の男に殴られたのであった。
「はぁ、こりゃどうも…。それよりも…貴方はもしやあの高名なジョハネス・サンポウ博士でございませんか?」
メガネの若い男はそう聞いた。
「おっと、気づかれましたか。えぇ、その通りで御座います。」
「こ、これは…!お会いできて光栄です。」
そう言うと、メガネをかけた若者は深くその博士と呼ばれたその髭面の男にお辞儀をしたのであった。
そんな若者の姿を没落騎士は怪訝な顔で見つめて、聞くのであった。
「誰だい、そのジョハネスとかサンポウとか言うのは?」
すると若者は無礼をした子に叱りつける親のようにこう言ったのであった。
「バカ!君はこの方を知らないのかい?いいかい、このお方はジョハネス・サンポウという学問においてはほとんどの分野を網羅していて、おまけに魔術さえも扱える素晴らしく優秀なお方なんだよ。まさに国家が必要としている理想の人物さ、君みたいな人なんかは到底及ばない人だから無礼の無いようにしなくてはいけないんだよ。」
道化はそんな風に熱弁する若者を見て、
「ま、実は一癖も二癖もあるやつなんだがな…。」
と、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言ったのであった。
「おっほっほっほ、こんなにも褒め称えてくれるとはこりゃあ嬉しいですな。どうです、私の研究でも聞きながら食事でもしませんか、もちろん酒も一緒に…私の奢りで…。」
「はい!それはもちろん。」
若者は即答した。
「まーた、ご主人の研究のひけらかし癖が始まったよ、この前もそのせいで研究の成果を横取りされたんじゃあないですか。」
「黙らっしゃい、研究と言うのは人に聞かせて初めて意味があるんだから仕様がないじゃないか。」
「ハア…」
「おっと、そこの騎士さんも…どうです…?聞かせるなら人数は多い方がいいのでね…?」
彼は没落騎士にそう問いかけた。
「へっ、誰が聞くもんか…誰が…ああっ、クソっ。」
彼は吐き捨てるように言うと、腹をおさえながら、髭面の博士の方に向き、こう言った。
「聞けばメシを食わせてくれるんだな?」
「ええ、そりゃあもちろん。」
「それなら早くしてくれ、空きっ腹でしょうがないんだ。」
博士はその言葉を聞いてニヤリと笑ったのち、カウンターの方を向いて他の多くの客と同様に聞き耳を立てていたイゾルデに向かって食事を注文したのだった。
彼女は基本的に宿の酒場の騒動に関しては放任主義であったので今回も放置していたのであるが、ともあれなんとか騒動もおさまって安堵の気持ちでその注文を承るのであった。
それから数時間が経った。
夜もすっかり更けて街もすっかり静寂に包まれていた。
彼女の宿の酒場もすっかり人はいなくなり、残ったのは彼女だけであった。
「もう寝るかぁ…」
そんなことを言いながら彼女は明日の準備を終わらせて、彼女がいつも寝ている小さな寝室に歩を進めたのであった。
ふと、彼女は寒気を感じた。
いや、寒気を感じるのはまだ不思議では無い。まだ初春ということもあってまだ寒さが残っているからだ。
だが不思議なのはついさっきまでむしろ暑いと思っていたその空間が急激に冷えたということであった。
「風も吹いてないのに…」
彼女が一言そう言ったようにその夜は全くの無風であった。
ふと、壁に飾られていた母の肖像画を見ると、その目がキョロキョロとあらゆる方向に向いていた。
しかし、彼女は何も感じなかった。その時は特段不思議なことと思わなかったのである。
「風邪でも引いたのかな…」
稼ぎどきの今、彼女にとってそれは恐るべきことであった。彼女は一刻も早くベッドに入って暖まろうと駆け足で部屋に向かったのであった。
部屋に入り、ベッドに入ろうとしたところ。彼女はドアに気配を感じた。
彼女が恐る恐る振り向くとそこにいたのは────
数分後
「オイオイ、信じてくれよォ。俺はお前の父親なんだよぉ。」
そう言ったのは火の玉である、もっとも目と口がついているが。
「………えっと…その……」
彼女は困惑していた。無理もない、何せ目の前で火の玉が空中に浮かんで喋っているのである。
「ほんとなんだってば、信じてくれ。」
しかもその火の玉は自分のことを父親だと言うのである。
数分前、彼女は振り返ってドアの方を見た。するとそこにはさっきからこのように話している火の玉がいたのである。
火の玉はイゾルデと目が合うと、開口一番、
「会いたかったゾオオオオオ!!!!!我が娘ヨオオオオオオ!!!!!!」
と物凄い剣幕で迫ってきたので、彼女はひどく驚き、身の回りにある品々を投げつけたのである。
火の玉はそれで、怖がらせたことに気付き、このように何とか彼女を自分の父親だと認識させようと頑張っているのである。
もっとも、彼女は全然そんなことを信じられない様子であったが。
「な?な?君とオレの間は親子の縁があるんだよ。わかるかい?」
「いや、その…何で火の玉が父親だと…。」
「そらぁ、お前、オレは死んでるんだよ。」
「え…。」
彼女は少し驚いたものの、すぐにこの火の玉が父親なわけがないと気を取り直したのであった。
「いいかい、オレは幽霊なんだ。幽霊と言ってもよくある怪綺談にあるような人型ではないがね。本当の幽霊とは今お前が見てるようなもんさ。ましてやキリストじゃあるまいし肉体も復活せんよ。」
「キリスト…?」
「あー………」
火の玉は少しバツが悪そうにした。
「イヤ…気にしないでくれこっちの神のことさ。」
「こっちの神ってどう言うことよ?」
「えーと、それは…」
「大体、あなた自分のこと父親だと言うけど何か証拠でもあるの?」
「イヤー、それは…参ったなぁ。」
彼女は少し苛立ちを見せ始めた。
「それに…どうせ私の父親なんて女を捨てたダメ男よ、そんな男に私の父親と言われてもねぇ…」
火の玉はそれを聞くと、全力で否定しにかかった。
「イヤ、そりゃあ無いよ。決してオレは捨てて無いよ。あいつはいい女だし捨てる理由も無いよ。ただ…色々と込み合ったもんで、お前と離れることになっちまったんだよ。」
「込み合ったことって…?」
「あーそれはだな…参ったなぁ、話せることが少ないんだ。」
「どう言うことよ?どうして話せないの?」
「あーそれはだなぁ…えーと…うーん。」
「何かやましいことでもあるんじゃ無いの?生憎だけど信用に足らないわね。」
「いや、これはだなぁ。そう言う規定というか…詳しくは言えないがお前と出会う条件としてなるべく話さないようにと言われたんだ。ほんとだよ嘘じゃ無いよ。」
「ほんとかねぇ。」
「いや、それが本当なんだよ。」
「本当なら証明して見せてよ。」
「えっ証明って…」
「そうねぇ、本当の父親というなら母との馴れ初めでも話して見せてよ。」
「馴れ初め…うーん馴れ初めねぇ、話していいのかなぁうーん。」
「どうしたの話して見せてよ。」
「うーん、微妙…。」
「何が微妙なのよ!本当にもう!大体何で会いにきたのよ!」
「何でってそりゃあないでしょ。娘なんだから…それ以上も以下も無いよ。それに…お前の助けになるために来たんだから…。」
「助け?どういうこと?」
「じきにわかるさ。」
「そんなことしか言わないわね。何とかハッキリ言ったらどうなの!」
「いやーそう言われてもねぇ…」
こんな感じの押し問答を彼らは数分かけて続けた。
その白熱具合といったら、押し問答の最中に母親の肖像の目がキョロキョロと回ったり、机に置いてあったパンが一人でに歩き回ったり、枕と掛け布団が互いに動きあって絡みあったりすると言った怪奇現象にも気づかないほどである。
そんな押し問答を続けていた最中、突如カウンターから宿泊を求めて呼ぶ声が聞こえた。
「こんな時間に客が…?」
イゾルデは奇妙に思いつつも早く済ませようと急ぎ足で向かったのであった。
急ぎ足で向かう最中で火の玉は
「そぉーら、来たぞ来たぞ」
と、声を上げたのであった。