第9話 もう逃げない
食べかけだったハンバーガーを齧りながら、咲良くんがハンバーガーショップで何があったのか、と聞いてきたので、わたしは事の顛末を説明した。話を聞き終えた彼は、開口一番に謝ってくれた。
「すんません……榎本と柏木が迷惑かけたみたいで」
榎本由衣と柏木ひよりは咲良くんと同じクラスの女子生徒で、塾も同じ所に通っているのだそう。
「なんかよう知らんけど、柏木はおれのこと観察するというか、じっと見てくるんよ! 榎本がそれを茶化してきて……ああいう女子のノリはちょっと苦手やわ」
「女の子の中には、友達の恋を応援することこそ友情だ、と思う人もいるからね……今回のことは榎本さんの勘違いだったみたいだけど」
当の本人にも見られていると気づかれるほど付け回していたのなら、友人がそれを惚れているのだと勘違いするのも無理はない気がする。
「あいつ……今度会ったらよう言い聞かせんと」
包み紙を握り潰してゴミ箱へ放り投げた咲良くんは、頭の後ろで腕を組んでこちらを向いた。
「それで、親父からの電話の件やけど」
「ああ、そう言えば何の電話だったの?」
「さっきの店で、警察がダリアさんが花束を買った店を探してるっちゅうこと、話したやろ? 二つの事件の関連性を鑑みて、ダリアさんの事件の再調査が始まったんよ」
「……え」
「そんで、ダリアさんの事件を担当してた警部と会わせてくれるよう、親父が頼んでくれたらしくてな。おねーさんこの後用事ある?」
「特には」
「今から会いたいっちゅう話やねんけど……今ちょうど、この近くの喫煙所におるらしいねん」
咲良くん、それって……と言おうとしたわたしは、後ろから銃で撃たれたような感覚を味わった。
「あれぇ、百合乃さんじゃないですか」
咄嗟に振り向いてしまった。
夕暮れの街、まばらな人混みを掻き分けて、のろのろと歩いてくる男が一人。
見覚えのある顔、戯けた不愉快な声。見たくも聞きたくもなかった顔と声だ。
間違えるわけなどない――あの人だ。
「……警部、さん?」
掠れた声で呟く。それが精一杯だった。
冷や汗が止まらない。ずり落ちそうになった鞄を持つ手が震える。
「おお、めっちゃええタイミングや! あ、やっぱりおねーさんも会ったことあるよな、ダリアさんの事件を担当してた日下部警部や。初めまして、椿咲良です」
ボサボサの髪、だらしなく生えた無精髭。細い煙草を噛んでいる中年の細身の男。くらげのようにゆらゆらと揺れながら、咲良くんの顔を覗き込んでいる。
「椿警部の息子さんでしょ。はじめましてぇ。あの人は強面だけど、きみはあんまり似てないねぇ」
「はあ、どうも」
咲良くん、だめ、こんな人と話してはいけない。だってこの人は――。
「今日はほんまにありがとうございます。ダリアさんの事件について教えてもらいたくて」
鞄からメモを取り出した咲良くんに気を良くしたらしい警部が、彼の肩を掴む。
「俺らもあの事件は気になってましたから、喜んで協力いたしますよぉ。やっぱ事故っていうのは腑に落ちませんよねぇ」
本当は今すぐにでも逃げ出したい。
けど……足が竦んで、動けない。
早くしないと、またわたしは銃で撃たれて今度こそ死んでしまう――。
警部がわたしの方を見た。きっとわたしは顔面蒼白で、死人のような顔をしていたに違いない。そんなわたしを嘲笑うかのように、はたまたは、今思い出したとでも言いたげに。
「あー、百合乃さん、はお久しぶりですよねぇ」
「……ど、うも」
わたしの会釈に、警部は相変わらずの薄ら笑いを返すと、彼の視線はすぐに咲良くんへと向けられた。
「実はねぇ、椿警部から連絡をもらった後、楸さんにダリアさんのことでもう一度話を聞いてきたんですよぉ。ま、大した収穫は得られませんでしたけれどね。『彼女の両親はもうそっとしといてほしいと言っているんだから、事を荒立てるのはもうやめてくれ』と、そう言ってました」
「ひさぎさん? 誰ですかその人」
この時になって思い出した。今の今まで、楸さんのことを咲良くんに伝えるのを忘れていたことを。
日下部警部はわざとらしく目を見開き、その後口元を釣り上げてにたにたと笑った。
「彼はダリアさんの両親の友人、彼女を日本に連れてきた人だよ。きみ、百合乃さんからなぁんにも聞かされてないんだね」
……やめて、何も言わないで、聞きたくない。
ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい。
怪しげに光る目がわたしを捕らえる。
「あのね、本気でダリアさんの事件を解き明かしたいと言うんだったらさ。百合乃さんも教えることを教えてくれないと」
日下部警部は肩を竦めた。咲良くんが首を傾げる。
「……おねーさん?」
「百合乃レナさん。改めてもう一度お聞きしたいですなぁ――あの日、ダリアさんは突き落とされてからあなたに電話をかけている。それから数分間会話をした。
……あなたたちはその時、何の話をしたんですか?」
――沈黙を破ったのは、わたしだ。
駆け出すなら今しかないと思った。
またそうやって、わたしは逃げるんだと、どこか冷静な自分が自分を嘲笑していることにも気づいていながら。
「おねーさん!?」
日下部警部の舌打ちと、咲良くんの驚いた声が遠ざかっていく。警部がわたしを捕まえようと手を伸ばす。それを振り払い、わたしは夕闇の中、人の波を縫うように走り抜けた。
「はあっ……はあっ……!」
『あのねぇ、電話した内容は言いたくないってどういうこと?』
二ヶ月前もそう聞かれた。今でも煙草の匂いを嗅ぐと思い出す。あの日下部警部の呆れと苛立ちが混じった表情と、激しい貧乏揺すりが責め立ててくる。
ダリアが突き落とされた後、朦朧とした意識の中で電話をかけたのは救急車でも警察でもなかった。
それは他ならぬわたしだった。わたしは深夜家の電話を取った。ダリアからの最後の電話を。
その時に彼女と交わした言葉を、わたしは誰にも知られたくなかったのだ。
『虫がいい話だとは思わない? 警察に情報は提供しないくせに、あーんダリアを殺した犯人を見つけてぇん、だぁ……? ふざけないでほしいねぇ』
『わ、わたしはそんなこと、思ってな』
『あー、もういいよ。被害者の両親がね、もうこれ以上事件を公にしたくないと言ってるらしい。だから彼女は不幸な【事故】に遭ったってことで処理されるよ。……あーあ、あなたのせいでねぇ』
――わたしは、ずるい人間だ。
警部に電話のことを言いたくない。咲良くんに、ダリアの日記のことも隠した。それでいて、図々しく事件の解明だけは望んでいる。
ごめん、ごめんね咲良くん。
わたしはずるくて……本当に弱い人間だ。
*
散々泣き腫らして、気がつけば辺りは真っ暗になっていた。なりふり構わず走ってきたから、きっと明日は筋肉痛だろう。でもそんなこと、どうでもよかった。
わたしはベンチに膝を抱えて蹲る。街路灯の明かりさえ眩しかった。完全な暗闇に行きたいと、本気でそう思った。
――静かな場所だ。
香澄くんが……ダリアが、ここを気に入ったのもよくわかる。
顔を上げると、街路灯に引きつけられた蛾が数匹群がっていた。わたしもその一員のように、明かりの方へと歩いていく。
そして手摺に手をかけた、その時。
「……やっぱりここにいた」
「さくら、くん」
畦道から現れた彼は、制服姿のままだった。手には懐中電灯が握られている。彼はなんと声をかければいいのか、迷っているみたいだった。
「……聞かないのね、あの警部さんみたいに」
「……おねーさんは、聞かれたくないんやろ」
ああ、やっぱり咲良くんは優しい人だ。その優しさに甘えて――わたしは、一度は言わないという選択をした。
けれど警部に再会し、こうして一人きりで考えて思い至った。あの人の言うことも正しくはあるのだと。真実を覆い隠すヴェールの裾を持ちながら、その布の下を見たいと願うのは身勝手な行為だった。
本当は今でも話すことが怖い。
「言えるわけないじゃない」
だけど、咲良くんになら。人を気遣えるあなたになら、話してもいいと思えた。
「……恋人に、振られた時の話なんて」
わたしはあの時、ダリアに振られたんだ。
*
眠たい目をこすりながら出た電話の向こうでは、荒い息遣いだけが響いていた。すぐにダリアからだとわかった。けれど、どうしてスマホではなく固定電話にかけてきたのだろうと思いながら、彼女にどうしたのと尋ねた。
しばしの沈黙。そして爆弾が投下された。
『私、もうすぐ死ぬみたい』
言われた意味をすぐには理解できなかった。聞き間違いだとすら思った。
『……は? ダリア、何を言って』
『血が、出てる。頭を打ったみたい』
『血? ダリア、怪我したの!?』
眠気は一瞬で吹き飛んだ。すぐにでも救急車を呼ぼうとするわたしを、ダリアは声を荒げて止めた。……あんな荒々しい声を、わたしはこの時初めて聞いたのだ。
『待って、れなちゃん。話があるの……伝えさせて、最期に』
『ば、馬鹿なこと言わないで! ねえダリア、一旦電話を切って救急車を――』
『別れて、欲しいの』
『…………え?』
『別れよう、って言ったの』
――これは夢なんだと、そう思えたら良かったのに。
受話器を足の上に落とした時の痛みが現実だと知らせてくる。
『ごめんね、れな、ちゃん。……ほんとうに、ごめんね』
『い、意味わかんないよ、ねえ、ダリア!』
『ごめんね、レナちゃん。――でも、これだけは信じて。
私は本当に、貴女を愛していたよ』
*
「その後すぐに電話は切れた。そしてわたしは家を飛び出した」
黙って話を聞いていた咲良くんは、ふっと懐中電灯の明かりを消した。
「……前に聞いたよね、どうしてわたしが容疑者に上がらなかったのかって。わたしの家の前に、二十四時間営業のファミレスがあるんだ。そこの従業員が見てたの……錯乱状態で走り去るわたしの姿を」
押収されたダリアのスマホの画面には血の指紋が残っていた。彼女は突き落とされた後、血に塗れた指で電話をかけ、そしてわたしが自宅でその電話を取った。その電話が切れた直後に自宅付近で目撃されている――つまり、わたしに犯行は不可能だと、警察はそう判断したのだ。
「……ごめんね、一緒に二人が亡くなった真相を突き止めようって言ってたのに。わたし、隠し事ばっかりして」
咲良くんはゆっくりと首を横に振る。そして、波の音にかき消されそうなほど小さな声で呟いた。
「……すんません、おれ、香澄とダリアさんが恋人なんとちゃうか、って何度も言ってしもて」
「気にしないで。言ってなかったわたしが悪いんだから」
わたしは、落ち込んでいる彼の懐中電灯を掴んで握り締めた。深呼吸をして、彼の方を向く。
「ねえ、咲良くん」
ぱっと明かりが灯る。それはわたしを手伝ってくれるものだ。
もう一歩、踏み出す勇気を出すために。
「……わたしの家に、ダリアの日記がある。それを読めば――香澄くんとのことも、何かわかるかもしれない」
何かを得るために何かを捨てなければならないのなら、わたしはダリアの真相を知るために彼女への迷いを捨てる。
もう隠さない。もう逃げない。
「でもパスワードがかかってる。だから、解析を手伝ってほしい」
わたしは手を伸ばす。咲良くんの返事は待たないつもりだったけど、彼はわたしの手を引き寄せて立たせた。
「上等や――やろう」
わたしたちの間で光り続ける懐中電灯が、闇夜の海に一筋の光を生んだ。




