最終話 愛してる
日記を書き終えたダリアはレナの部屋に立ち寄り、安眠している頬を人差し指でつついた。
最後に言葉を交わすかどうかは、存外悩むことはなかった。きっと自分は思わせぶりな態度をとって、不審に思った彼女に勘付かれて問い詰められることは明白だったから。
「レナちゃん。……ばいばい」
ダリアの縋りつくような抱擁を――窓から差し込む月明かりだけが覗いていた。
「あ、あなた、カスミくんと付き合ってるんですか?」
花束を持ち、歩道橋を渡っていた時だった。
暗闇の中から、叫ぶように問いかけられたのは。
誰? と思う間もなく、その声の主――おそらくは年端もいかない少女だと思われる――はダリアの方に、慎重に歩み寄る。
「私、見ました。公園で密会、してました、よね?」
――ああ、そうかと納得する。
この少女も見ていたのだ。自分とカスミの偽りの人形劇を。
「わかってるんですか、か、カスミくんは、アイドル、なんです。れ、恋愛なんかしちゃだめです」
そうだろうか。人が人を真っ当に愛することをどうして妨げようとするのだろう。ダリアにはそれが不思議でならなかった。
芸能界とは、なんてせせこましくて悲しい所なのかと思わずにはいられない。
ダリアは冷え冷えとした虚ろな瞳を少女に向ける。
「……どうしてアイドルが恋をしてはいけないの? どうして好きになった人と、ずっと一緒にいたいって想いは許されないの?」
願わくば――共に生きていたかった。
それが許されないから――こうして自分の気持ちを偽らざるを得ないのに。
目の前の少女は目を見開く。相容れない意見だと思ったのだろう、激しく息を吸い込んで叫んだ。
「……カスミくんは! それでもアイドルをやるって決めたんです! だったら、ファンのために、自分のことくらいは我慢しなきゃ……」
ダリアの眉がぴくりと動いた。聞き捨てならない言葉が彼女の中に巡る血を熱くする。
言ってはいけない。そう思っていても、もはや止められなかった。
この少女は言う。動かなくなった人形を組み直して、もう一度立たせろと。結果的に友を死に追いやり、現実に打ちのめされ、それでも彼が守りたいと思った弟のことを――知りもしないで。
「貴女が、あの子の何を知っているの?」
結果的に、その一言が引き金となった。
激昂した彼女に突き落とされたのだと気づいた時には既に、脳が割れるような痛みがあった。咄嗟に手を伸ばし、そこに付着した血で悟った。
――そうか、もう……だめなんだ。
辺りは静かだった。何の音も聞こえない……もうここは冥界なのだろうかと思うほどに。
あの少女は逃げ出したようだった。けれどそんなこともはやどうでもいい。
ダリアは最後の力を振り絞り、スマートフォンを握り締めた。彼女との大事な思い出が堰を切って溢れ出す。これが、走馬灯なのだろうか。
――ああ、やっぱり。
……会いたい、な。声が、聞きたい。
『ダリア』
忘れたくない。全てが無になってしまうとしても、最後の瞬間まで手放したくない。
そう思った時には、既にダリアは家へと電話をかけていた。彼女のスマートフォンにかけるつもりが、間違えて自宅の電話にかけてしまった。
『……はあい、もしもし……?』
深夜にもかかわらず、電話を出たレナに、ダリアは涙を堪えることなく、ただ流し続けた。
「……レナ、ちゃ」
『あれ、もしかしてダリア? どうしたの、ていうか、まさか外にいるの?』
「私、死ぬみたい」
『……は? ダリア、何を言って』
「血が、出てる。頭を打ったみたい」
『血? ダリア、怪我したの!?』
救急車を呼ぼうとするレナを、ダリアは声を張って止めた。
「待って、れなちゃん。話があるの……伝えさせて、最期に」
『ば、馬鹿なこと言わないで! ねえダリア、一旦電話を切って救急車を――』
その言葉を遮って、ダリアは告げる。
言いたくなかった。だから日記に全部託したつもりだったのに、結局は自分で言わなければならなくなるなんて、神様はなんて意地悪なんだろう。
「別れて、欲しいの」
それは、どんな石よりも重くダリアに伸し掛かった。向こう側のレナを想像するだけで吐きそうになる。
『…………え?』
「別れよう、って言ったの」
――これは夢なんだと、そう思えたら良かったのに。
明日の朝になったら、自分はベッドで目を覚まして、レナに朝ご飯を作る。彼女が学校に行くのを見送って、仕事に行く。いつもとなんら変わりない日常を、彼女と一緒に。
――幸せに、なりたかった。
「ごめんね、れな、ちゃん。……ほんとうに、ごめんね」
『い、意味わかんないよ、ねえ、ダリア!』
「ごめんね、レナちゃん。――でも、これだけは信じて。
私は本当に、貴女を愛していたよ」
最愛の人に別れを告げたダリアは、薄れゆく視界の中で――最後の心残りを思い出した。
「ご、めん。カスミく……約束、守れなかった」
彼はダリアの花束を持って公園に来ていたのだろうか。
それとも……ダリアが来なかったことで、思い留まってくれただろうか。
――本当は、カスミにだって死んでほしくはなかった。巻き込んでおいて何を、とは思う。
真面目で、でも考えすぎてしまう、優しい人。
きっと彼は立ち直れる、それだけの心の強さが彼にはある。
「……虫が、良すぎ」
反吐が出るくらいの言い草だ、と自虐する。
一瞬でも闇に引きずり込んでおいて、なんと都合の良い事を言うのか。しかしそれほどまでに――自分は今更になって後悔しているらしかった。
「……困ったなあ、誰に、どれほど、謝らなきゃいけないんだろう」
中途半端に情をかけたせいで、依存しきってしまった元恋人。
その恋人から自分を守るため、殺されてしまった大切な弟。
新たな土地で出会った、自分が心から守りたいと願った女の子。
――その子を守るために、唆して連れ去ろうとした男の子……。
「ごめん、ごめんね。……ごめん、なさい」
抱えていた花束からカスミソウとツバキが零れ落ちた。それらは赤く染まった地面に揺蕩い、流れていく。
そして、ダリアは。
カスミとツバキの花を手繰り寄せて、口に含む。
愛と贖罪の花びらを食み――彼女は、静かに息絶えた。
了




