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カスミ・ツバキ  作者: 翠野みとこ


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第16話 深淵より覗く黒

 午前六時。鍵を開ける音で目を覚ます。

 どうやら百合乃レナが帰宅したらしかった。男と深夜に家を飛び出したので、まさか盗聴器に気づいたのかと思ったが、こうして帰ってきたということは杞憂だったのか。

 しばらく、女のどうでもいい生活音だけが拾われる。聞きながら、いつものように女を罵倒する。

 何故ダリアはこんな女の親友になったのか。何の才もなく、取り柄の方が逃げていきそうな幸の薄い醜女……到底ダリアには釣り合わない女。

 家事を終えたらしい女の音が近づく。テレビの電源が入る。けれど音声は聞こえてこない。

 ただ、沈みゆくような暗い声が耳を掠めた。


『……ダリア、あなたの日記。読ませてもらったよ』


 ――一瞬で眠気が吹き飛んだ。

 どうやらこいつはあの男の力を借りて、日記を開けることに成功したらしい。

 イタリアにいた時から、自分にさえ見させてくれなかったダリアの日記……この女が初めて見たということは癪に障ったが、それよりも中身が気になった。


『あなたが……どれほどわたしを愛していたのか、痛いほど伝わってきた』


 ――愛している、だと?

 それが親友としての愛だと言い切れないのは、ダリアが死んでからの百合乃レナの落ち込み方が激しいことにあった。


「……ダリアが愛していたのは、あの男ではないのか?」


 二ヶ月前、公園で刺し殺したダリアのAmore(愛しい人)だという男。真正面から刺しにいった自分を、あいつは避けようともしなかった。何度も何度も刺して、刺して刺して。最後に刃を抜き取った時、血飛沫が宙に舞った。

 そして男は、まるで殺されるのを待っていたかのように、笑って。


「……よかった……ありがとう、ございます。殺してくれて」


 ――悍ましい、と直感的に恐怖を覚えた。鮮血と予想された死を前にして、感謝を述べるその男に。

 だからだろうか。とどめを刺すつもりでいたのに、自分は不気味な男を放ってその場から逃げ出した。癪だったのだ、相手の思い通りに動かされているような気がして。

 後はダリアを見つけて、共に死ぬだけだ。警察に通報されようが知ったことではない。

 そう思っていたのに――。

 深夜、男がダリアの家に着いた時。そこには誰もいなかった。そして奇妙なことに、扉が開きっぱなしになっていた。玄関にあった受話器が外れて一定のリズムで鳴り続けている。

 男にはダリアがどこにいったのか、皆目見当がつかなかった。もしかすると、刺し殺した男と心中しようとしてもう部屋を出ていたのか。自分と出会わなかったのは、すれ違いになったのかもしれない。

 そうでなかったとしても、いずれこの部屋から得られる情報があると信じて……彼は部屋の中に盗聴器を仕掛けた。

 男がダリアの家を後にしてから数時間後――朝日が昇りきった頃。

 盗聴器から聞こえてくる百合乃レナの嗚咽で、男は何があったのかを知った。



『あなたの教えてくれた真実。……正直、まだ気持ちの整理がつかないの。でも――もう一度聞けば、わかるかな』


 百合乃レナはそう言ってから数秒後にそれは始まった。

 ダリアの日記。彼女の本当の想い。

 それを聞き終えた彼は――立ち上がって叫び声を上げた。


「ああああ! ちがう、違う違うちがう! そんなわけない! ダリアが、俺以外を愛していただと? ふざけるな、そんなわけない、そんなわけ、ない」


 男は母国語で発狂し続けた。机のもの全てを払い、投げ捨て、踏みつけた。そうしてもなお怒りは収まらない。

 自分はなんて勘違いをしていたのだろう。

 ダリアが本当に愛していたのは――カスミとかいうアイドルでもなく、ましてや自分でもない。ただの……あの女だったと、誰が想像できる?


「ダリア。俺の女神。俺の天使。俺の……生きる意味、死ぬ意味。全て、全て愛している。愛しているんだ。だから愛してくれ、俺を、俺だけを愛してくれよお」


          *


 両親も周りの人間も、誰も自分を理解してくれなかった。理解できないこいつらの方が悪いのに、皆は男が間違っているのだと豪語する。

 そんな彼が学校に行き始めたとて、周囲に馴染めるはずもなく。ただ雲の流れに身を任せるように、男は空気の中の埃として漂いながら生きてきた。

 淋しい? まさか。一人でいられて清々する。

 辛い? とんでもない。むしろ気が楽だ。誰とも話さなくていいんだから。

 それでいいと思っていた。

 ――彼女に、出会うまでは。


「ねえ、貴方。……そう、貴方よ。いつも窓辺で佇んでいる、授業中寝てばっかりのお寝坊さん」

「……誰だ、お前」

「ダリア。私の名前。……ここ、空いているのよね? 一緒にお昼を食べてもいい?」


 彼女の盆にはスパゲッティが二人前あった。その皿を一つ男の前に置くと、微笑んだ。


「ちゃんと食べなきゃ駄目よ、男の子なんだから。このスパゲッティね、私が作ったのよ。弟も大好きなの。良かったら食べて」


 席を移動しようにも、男は壁際だったため彼女に塞がれて身動きがとれないでいた。だから仕方なくスパゲッティを口にしてしまったのだ。

 他人が作ってくれた料理――幼い頃、まだ両親が自分を愛してくれていた時以来の、温かな料理。


「……あら、泣くほど美味しかったの?」

「ちがう、まずい。食べれたもんじゃ、ない」


 男は、歪む視界の中で――赤色のそれを一心不乱に食べ続けた。


          * 


 百合乃レナがまた話を始めた。

 男は気持ちを落ち着かせるための薬を流し込んだ後、もう一度盗聴器に耳を傾けた。


『ダリア。あなたはあの公園で、死のうとしていたんだよね……ねえ、そこに行けば、もう一度あなたに会える、かな』

「会えねぇよ」


 もうダリアはいないんだ。いつまで過去に縋るんだこの馬鹿な女は。

 男はもうとっくに精神の限界を迎えていたし、その自覚があった。

 ――誰がダリアを殺したかなんて、どうでもいい。今はこの、百合乃レナを殺さなければならない。

 そうでもしないと気持ちが収まらなかった。



 冬に近づいているにもかかわらず、暑さの残る日だった。男はポケットにサバイバルナイフを忍ばせて家を出た。そのまま百合乃レナの家に向かい、周囲の人間に怪しまれないように身を潜める。

 そして出てきた百合乃レナを尾行する。彼女は寄り道をせず、真っ直ぐ蜜の宮公園へと向かった。

 平日の公園に人通りはなかった。迷わずにあの場所へと入っていくところを見届けてから、後に続く。

 昼間だろうが関係ない。

 今、ここで殺してやる。

 男は隠れもせず百合乃レナの後ろに立った。


「――久しぶりだな、百合乃レナ」


 彼女は振り向かない。けれど肩をぴくりと動いたのを見逃さなかった。


「どうした、何か言えよ。……これが最後の言葉になるんだからな」

「……どうして、わたしを?」


「俺はダリアを殺した奴を許さない。だが、お前が殺したかどうかに関係なく、お前がダリアに愛されている……それが気に食わない。

 お前もあの男と同じように――殺してやるよ」


 我ながら流暢な日本語だ、と思った。日本へ逃げたダリアのために、必死で勉強した甲斐があったというものだ。

 暫くの沈黙。

 百合乃レナが静かに呟く。


「……あなたが、香澄くんを、殺したんですか」


 背を向けたまま、百合乃レナがそう言った。怒りに打ち震えているのか、その声は蚊が鳴くよりも小さい。

 男はそれを鼻で笑った。この期に及んで心配することがそれか。


「ああ、そうさ! ダリアはあいつを愛していると言った。だから殺したのさ。それは嘘だったみたいだが……そんなことはどうでもいい。

 ダリアが愛してるのは俺だけだ! お前なんかよりもなァ!」


 彼女は永遠の湖だ。そして自分はそこに沈み続ける澱み。それらは決して離れず、ただ共にあるのみ。

 そう、信じていたのに。


「ダリア、ダリアダリアだりあ。何故こんな女を好きになる!?」


 この女はダリアが死んでから二ヶ月もの間、常にダリアに縋って生きていた。それは自分と同じだ。

 なのに何故だ。

 何故自分は捨てられて、この女はダリアに愛されている?


「――お前なんか、死んでしまえ!」


 ナイフを突き出す。百合乃レナの背中を目掛けて、一直線に。

 男は勝利を確信した。次の瞬間女は血に塗れ、倒れるはずだと。あの時のカスミとかいうアイドルのように。

 けれど……宙に舞ったのは百合乃レナの血飛沫ではなかった――それは、男の身体の方だった。


「ああ、醜い。――そんな男は嫌いでございます」


 地面に堕ちた時。

 自分を心底軽蔑するような、そんな声を男は聞いた。

 その顔は――百合乃レナとは別人であった。

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