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カスミ・ツバキ  作者: 翠野みとこ


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14/19

第14話 ディアリオ 【三】

 ☓五年九月二十日

 それから私たちはこの秘密の場所で会うようになった。彼は居候先には帰らず、公園の近くのホテルに泊まり込んでいるらしく、暇さえあればこの場所に来る。私は家に帰る前にここに寄り、彼がいれば時々話をする仲になった。

 カスミくんに対する恋愛感情は、決してなかったと断言できる。

 ならば何故彼に会いに来るのか。あえて言葉にするなら、確かめたかったんだと思う。目を離すと動かなくなってしまいそうな、羽をもがれた蛾がまだ生きているかどうかを。


「今日は泣いていないのね、カスミくん」

「はい、少しずつ、止められるようになってきて……貴女の、おかげです」


 彼はいつも模範的な笑顔を見せる。それはテレビの中にあるものと同じで、彼が私に対して傍にいることを許諾しつつも、越えてはならない一線を守っていることの現れでもあった。


「私は話を聞いてあげてるだけよ」


 そんなことくらいしかしてあげられないし、これ以上何もするつもりもない。


「だけ、なんかじゃないですよ。本当です」

「そう? ならいいんだけど」


 カスミくんが顔を綻ばせる。その頭の上に乗っている落ち葉に気づき、払おうと手を伸ばした。

 ――その時だった。

 ぞくり、と背筋が震える。

 私は反射的に振り返り、生い茂る木々に目をこらす。と同時に、しまったと思った。

 奥まった木の幹、それに爪を食い込ませる白い手。充血した目が、じっと私を見ている。



 ……ああ、とうとう見つかってしまったのだと、そう思った。



「……どうかしましたか、ダリアさん」


 カスミくんの眉がぴくりと動いた。その声に反応したその目――あの人の目――が、黒髪の少年を捕らえた。


「……誰か、そこにいるんですか」


 視線は逸らさずに、私にだけ聞こえる微かな声で尋ねてくる。


「貴方にもわかるのね。そうよ、見ているの。ずっと、あの人は私だけを見てる」


 最初は本当に親切心だった。学校の食堂で一人でいた彼に弟を重ねて、話しかけたのが始まり。誰からも相手にされないのは淋しいことだと思ったから。

 彼は私を救世主であり女神だと言い、私を神格化するようになった。何でも頼ってくれたし、一番に愛してくれると言ってくれた。私もその愛に応えようと努力して、二人で幸せになろうと言い合った。

 けど――あの人は私を愛しすぎてしまった。他の誰も見えなくなるほどに。


「私はね、幸せになるためにこの国に来たの。祖国では幸せじゃなくなっちゃったから。

 ……そして、この国で私はもう一度幸せになった。けれどそれが今、脅かされている……」


 私は幸せになってはいけないのかな。


「あの人は今度こそ、私と一緒に死にたいのね。……ああ、私はね、一度祖国で心中しようとしたのよ」


 彼は「ダリア以外何もいらない。本当に二人きりになれる場所に行きたい」と言った。日々摩耗する彼の精神は、もう限界だったんだと思う。

 私は頷いてしまった。この世界全てが虚しいと言い、激しく憎む彼を哀れに思った。同時に――そんな思想を助長させてしまった私にも責任があり、最後まで面倒を見なくてはならないとも、思ったのだ。


「でも……思い直したの。私たちの幸せのために邪魔になる人を殺すなんて……そんなの幸せじゃないって。だから私はこの国に逃げてきた。でもまさか――ここまで追いかけてくるとは思わなかったわ」


 カスミくんは黙って話を聞いてくれた。それとも、私が話す隙を与えなかったのかもしれない。


「今度こそ彼は、私との愛を阻む者を全て殺して、最後に私を殺すでしょう」


 捕まったが最後、彼は必ず私を道連れにする。そして、そのために障害となる人物を殺す。

 ――イタリアでの、あの時のように。

 私は、私が一緒に幸せになりたいと願った人を、また失ってしまうの?

 ……そんなの、嫌だ。


「私、愛している人がいるの」


 レナちゃん。私の大好きな百合の花。何よりも大切で、枯れることなく咲いていてほしい大切な宝物。

 あの人が既にレナちゃんのことを把握しているのかどうかはわからない。けれど遅かれ早かれ、彼はレナちゃんに牙を剥く。


「あの子だけは――守りたい」


 ――そうであるならば、私に何ができるだろう。

 その時、ふと最悪な考えが浮かんだ。


 ――ああ、私。とっても最低だ。


「ねえ、カスミくん」


 ……自分がこれほどまでに酷い人間になれるとは、思わなかった。


「私に協力してくれないかな」

「……協力?」

「言ったでしょう、あの人は嫉妬深いのよ。私が愛している人を殺したいの。……でもそうはさせない」


 レナちゃんには指一本触れさせない。そのために……あの人を欺く。

 深呼吸をする。今から私は人を貶める。その自覚を持って、彼と対峙する。


「貴方――死んでもいいと思ってるでしょう?」


 私は救世主でもなければ女神でもない。ただの醜い欲望を持った悪魔だ。

 カスミくんは戸惑いを見せた。死という絶望からの救済に光を見出し、けれどそれは突発的なものに過ぎないと気づける聡い人。

 だからこそ、意思が揺らぐ前に畳み掛けなくてはならない。


「自分のせいで、唯一の友達を失った。他の誰でもない、貴方のせいで」

「ダリア、さん?」

「その負い目はいつか貴方を飲み込む。貴方だけじゃなく、メンバーや大切な弟までも」


 距離を詰める。退路を塞ぐように手を重ねて、目を合わせる。


「貴方が告発した事務所が、貴方の大切な人を脅かすかもしれない」


 動揺して揺れる瞳から、決して目を逸らさない。


「あ、あ……」

「辛いよね、罪と恐怖に怯えるのは。――逃げてしまいたいって、そうは思わない?」


 人生の中で最も低い声を出した。地獄の底から響く囁きは確かに彼を揺さぶり、その心を絡め取っていく。


「大丈夫。ただ逃げるんじゃないわ。私たちは大切な人を守るために戦う。ただそれだけのことなのよ」


 風がさざめく。光を取り戻しかけた目、その瞼をもう一度伏せるように。


「……どう、やって?」


 か細い声。けれど確かな返答――それが、彼の運命を決定づけた。


「私の言う通りにすればいいわ」


 先ほどまでの快晴は一転し、空には暗雲が立ち込め始めていた。


 私たちは演目を開始する。

 まずは、あえて大袈裟に泣き喚き、時に肩を寄せ合い、時に相手に項垂れながら、心の奥底から激情を引っ張り出してくる。

 そしているうちに、とうとう雨が泣き声をあげ始めた。それは穏やかに、しかし確実に激しくなっていく。

 ずぶ濡れになったカスミくんの瞳にはまだ戸惑いが色濃く映っていた。死への恐怖と、何故こんなことをする必要があるのか、という至極真っ当な疑問。それを払拭するために、私は努めて天使であるかのような微笑みで彼の手を取った。


「おいで」


 迷い子の手を引く。くるくると、踊り始める。

 こうしていると、昔レナちゃんと誓いを立てた日のことを思い出す。あの時の私は幸せに満ちていて、何の憂いもなかった。けど今は……幸せとはほど遠い。

 私は、カスミくんは演じる。

 いかに目の前の人物が大切で、愛おしくてたまらなくて、なくてはならない存在であるかのように。

 ――ねえ、よく見ていて。

 私が愛しているのはこの人だよ。

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「――カスミくん!」


 とびきり大きな声で呼びかける。目の前にいる少年と、どこかで見ているであろうあの人に向けて。


「……っはい!」


 そして私は嘘を吐く。

 この世で一番の大嘘を。


「カスミくん、貴方を愛してるわ!」


 カスミくんは、泣き叫ぶ私に答えてくれた。


「僕も貴女のことを愛しています! 共に死んでもいいと思うほどに!」


 彼はまさしく、命を削り名演技を披露してくれた。私に惑わされて、翼を失ったアイドルは歌い踊る。

 もうどうしようもない、泥濘んだ地面の上で。



 偽りの愛を纏う私たちを、あの人はどう捉えたのだろう。彼の気配は雨が上がるとともにいつの間にか消えていて、木の幹には爪の跡だけが残されていた。


「逃げたみたいね」


 そうは言いながら、ただ逃げたわけではないという直感があった。おそらく、私たちを殺すための準備をしに行っただけなのだろう。

 ベンチに戻ってきた私は、肩を抱えて俯く彼を見下ろした。


「怒ってる?」

「……何故ですか」

「だって私、貴方を利用したのよ」


 問われた彼は徐に首を振った。さながら腹話術の人形のように、はっきりした声だけが返ってきた。


「いいえ。怒りすら、もう僕には残っていないみたいです」


 静かに顔を上げる。その無表情は、あまりにも死者に相応しいものだった。

 ――決断は早かった。水分を含んだ髪を捲し上げる。迷いを振り払うように。


「カスミくん。私、あの人に殺されるのは真っ平ごめんなの。――だからそうなる前に死のうと思う」


 驚きはしていないようだった。どうやら彼は、あらゆる感情を失いつつあるようだった。私との演技はそれを幾分か加速させてしまったらしい。

 数秒の沈黙の後、彼は呟いた。


「……死ぬ以外の方法は、ないんですか。警察とか」

「無駄よ。この国に来れたってことは、あっちの警察を撒いたってことだもの。一体どうやったのかは知らないけれど」


 もうどうやったって逃げられない。法は私を守ってはくれない。


「……であるならば、僕も死ぬんでしょう。あの人は、きっと僕を貴女の恋人だと勘違いしている。そう、貴女が仕向けた」

「そうね、私のせい。貴方にも死んでもらうことになるわ。でも一人だと淋しいじゃない?」


 まるで、ご飯でも食べに行こうかと誘うように。



「だから、私と一緒に行きましょう」



 私は彼をあちら側の世界へと誘う。

 私は手を差し伸べる。彼はそれを茫洋と見つめながらも、やはり数分押し黙っていた。

 けれど、最終的には私の手を取った。


「明日の夜、ここで。そうね……合図としてお花を持ってくることにしましょうか。それぞれの名前の花を。その方が私たちが恋人だって印象付けしやすいし」


 私はツバキとカスミソウを、彼はダリアをそれぞれ用意し持参する。

 それを抱えて二人でここで死ぬ。そうすれば、あの人が恨むのは【私とカスミくん】だけになる。


「ですが、その後あの人に気づかれる可能性はないんですか。貴女の本当の恋人がレナさんであると」

「私、あの人と十年も一緒にいたのよ? 断言する。あの人は私を殺して、必ず後を追うわ」


 だからレナちゃんには危害は及ばない。彼女を守ることができる。


「怖くなったなら来なくてもいいよ。その時は私一人で死ぬだけだし。――でも」


 飛びっきりの甘ったるさをコーティングした呼びかけで、彼の名を呼ぶ。


「私、待ってるから」


 早く、ダリアを連れて私に会いに来て。

 そう呪いをかけるように――私はボロボロの人形にキスをした。



 どうかな、レナちゃん。……恥ずかしいけれど、これが本当の私だよ。

 臆病で、狡猾で目的のために他人を踏み躙ることを厭わない。

 貴女を守りたい。そんな身勝手な願いで明日、私は一人の無辜な少年を巻き込んで死ぬ。

 後悔はしていないわ。というより、しても遅いと言うべきかしら。彼が怖気づいて約束の場所に来なくても、遅かれ早かれ彼はあの人に殺されるだろうから。


 ――レナちゃん。こんな私に、幻滅した? するよね、そうだよね。

 でもさ、優しいレナちゃんなら……たとえ腐り果てた林檎だとしても、僅かに残った部分を愛してくれるんじゃないかって、そう思ってしまうの。

 私はそんな貴女が大好きだった。


 前に言ったこと、覚えてる?

 いつかその時が来たら、日記を見てもいいよって。

 ……本当は、こんな形で日記をみてもらうつもりじゃなかった。貴女への想いを綴った日記を読まれるなんて、恥ずかしくてたまらないのはレナちゃんもわかるでしょう?

 もし私たちが何年もずっと共にいられたなら、そう誓えたなら――この日記を笑い合いながら見ようって、そう思ってた。もう叶うことはないのが、本当に悔しい。


 ――もうすぐ日が暮れるね。そろそろ家を出ないと。花屋に寄って、それからあの公園に行かなくちゃ。

 ……最後の言葉って、なんて締め括ればいいんだろうね。悩んじゃうな……。

 うん、決めた。ありきたりな言葉だけど、飾らない私の言葉。


 バイバイ、レナちゃん。また会おうね。

 あっちの世界でずっと――私は貴女を待っているから。

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