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カスミ・ツバキ  作者: 翠野みとこ


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第13話 ディアリオ 【二】

 ☓五年九月十一日

 昏い橙色に染まる日差しが肌を焼き付ける。じっとりと滲む汗を拭き取ることもせず、私は街の中を走り抜けていた。

 ……いや、逃げていたというのが正しいのかもしれない。


 私があの人に気づいていると気づかれてはならない……そう思いながら早足で歩くものの、心臓は常に警鐘を鳴らしていた。

 気のせいなんかじゃなかった。確かにあの人は――この国に来ている。

 恐ろしさで身が震える。早く、はやく帰らなきゃ……。

 私は足を止めた。周りの喧騒が消え、鼓動だけが責め立ててくる。

 ――いや、このまま家に帰っちゃだめ。

 あそこにはレナちゃんがいる。

 私がこの世界で一番好きで、大切にしたい花が。

 正直、今のあの人なら何をしでかすかわからない。どうやって国を抜け出したの、どうして私が日本にいることを知っているの……聞きたいことは山のようにある。けど会ってしまったが最後、私はきっと殺される。遠い異国の地まで追いかけてくるようなその執念は、コンクリートから沸き上がる熱気のように肌に纏わりついて気持ちが悪いものだ。身体も心も全て、愛憎の炎で焼き尽くされてしまうだろう。

 そんな人に――レナちゃんという存在を、私が今愛しているの人のことを知られてはいけない。

 私はこの日、レナちゃんと一緒に暮らすようになってから初めて、彼女の夕御飯を作らなかった。

 家には帰らずに、わざと人通りの多い様々な場所を回りながらあの人を撒こうとしたのだが、彼の視線は常に私を捉え続けていたように思う。

 耐えかねた私は行き先もわからない電車に飛び乗り、気づけば蜜の宮公園へと辿り着いていた。

 夜の帳が降りた公園に人の姿はない。濁った紫色に染まるベンチと、街路灯に群がる蛾だけがそこにあった。静けさがかえって恐ろしく、どうしてここに来てしまったのかと後悔した。


「こういうの、飛んで火に入る夏の虫って、言うのかしら」


 自虐を込めてそう呟きながら、辺りを見渡す。

 生温い風が頬を撫でるだけで、何かがいる気配は感じない。

 ……もしあの人がここにいたなら、他に誰もいないこの状況で、私の目の前に現れないはずがない。


「上手く、撒けたならいいんだけど」


 ほっと息をつきかけた時、何かを踏んだ。小さな銀紙のようだった。

 イチゴ味の飴玉。確か、最近コマーシャルでよく見かける商品だ。どこかのアイドルが美味しそうに口へと放り込む姿が脳内に駆け巡った。

 拾い上げようとした時、それが一つではないことに気づく。

 それらはレンガの上にぽつぽつと散らばっていた。捨てられたというよりも、ゴミ箱の中身をひっくり返したような乱雑さに違和感を覚える。

 私はそれらを一つずつ拾い上げていった。拾っても拾っても続く銀紙に導かれ、舗道を抜けて草木を掻き分け、やがて私は公園の隠された場所に辿り着いた。

 そこにいたのは、手摺にもたれかかって蹲る少年だった。


 どうしてその時、彼に話しかけてしまったのか。

 それはおそらく、彼が弟に――カルロに似ていたからだと思う。

 私は彼にあの日の弟を重ねていたのだろう。

 希望の光の前で項垂れながらも、なおもそれを求めて傍を離れられない蛾のような、その姿に。

 私は彼に近寄り、しゃがみ込んだ。


「貴方、こんなところでどうしたの」


 何も答えない。私は拾い集めた飴玉の袋を掌に置く。


「これ、噴水の方にたくさん落ちていたわ。貴方が落としたもの?」


 飴玉、と聞いて彼は顔を上げた。

 幾重にも交差した涙の跡が、悲壮に満ちた顔を更に痛ましく映し出していた。

 その顔を――私は知っていた。今さっき、頭に思い描いていたばかりの人物だったから、すぐに思い出すことが出来た。


「――貴方、アイドルの……」


 イチゴ味の飴玉、そのコマーシャルに出ていた男の子が、目の前のぼろぼろなこの子の姿と重なる。


「……は、い。カスミと言います」


 飴玉の袋を受け取りながら、彼は今にも消えそうな声でそう呟いた。



 彼を立ち上がらせてベンチに座らせた。その間にも彼の頬には涙が伝う。ハンカチで拭ってやっても止まらない。彼自身も止め方がわからないと言わんばかりに、ただ下へと流れ落ちるばかりだった。

 受け取らないだろうとは思ったけど、無理やりハンカチを掌に置いて握らせる。黒髪の少年――カスミくんは、僅かに力の入った指でそれを掴んだ。


「すみま、せん」

「謝る必要はないわ。むしろ……お邪魔だったかしら。ここは貴方だけの秘密の場所だったんじゃない?」


 無言は肯定のようだ。一人きりにしておけない、そう思った私はしばらく隣に座っていることにした。

 何時間そうしていたのかはわからない。私たちはお互い無言のまま、ただ揺れる水面を見つめていた。

 揺蕩う意識を揺り戻したのは、レナちゃんからのLIMEだった。


「ごめんなさい、私はもう帰るね。……貴方も早く帰りなさい」


 私は駆け足で公園を抜け出し、電車には乗らずタクシーで帰宅した。


 ☓五年九月十七日

 私はまた蜜の宮公園を訪れていた。

 ――カスミくんは、またあのベンチに座り、静かに泣いていた。私はまた隣に座り、共に音の無い時間を過ごした。

 そんなことを数日続け、そして今日。

 いつものように座っていた彼が――突如として口を開いた。


「……どうして」


 乾いた声はあまりにも小さく、まるで砂が風に攫われるようなものだった。


「どうして、僕に構うんですか。貴女は、僕のファンなんですか」


 私はすぐさま否定する。


「違うわ。ファンでもないしアンチでもない」

「じゃあ、なんで」

「貴方が弟に似てるから。……それじゃ駄目かしら」


 彼の瞳に、僅かだが光が灯る。


「……弟、ですか」

「ええ。それにこんな様子じゃ放っておけないでしょう。無理に話さなくてもいいけれど、何か話したいことがあるのなら聞くよ」


 しばしの静寂の後、彼はぽつぽつと言葉を漏らし始めた。

 ここを見つけたのは最近であること、一ヶ月くらい前から涙が止まらなくなってしまい、家に帰れなくなったこと。その原因が、己の失敗にあること。


「僕はアイドル……いや、人間失格だ。唯一の友達すら、守れなかった……」


 夕闇に陰るカスミくんの顔は悲壮に満ちていた。


「僕は話があると彼に呼ばれた。彼は『同じ事務所の子の話なんだけど』と言いながら、お、おぞましい話をしました」


 この時カスミくんが語ったものは、詳細に書くことが憚られるほど恐ろしく酷い、芸能界の裏側だった。

 彼はずっと自分のグループの先輩に守られていたから知らなかったのだ。……自分の友人がどんな目に遭っていたのかも知らずに、ただスポットライトの下で歌って踊っていた。


「ど、どうしたらいいと思うと、聞かれました。ぼ、僕はそんな話、あるわけないって思って、でも、本当ならそんなこと、許されてはならないと思いました」


 過呼吸ぎみになった彼を咄嗟に支えながら、言葉の続きを待った。到底口を挟む気にはなれなかった。


「だから――彼の事務所に、そのことを、話しました」


 そして、その翌日に。

 ……カスミくんの友人は、度重なる精神的ストレスにより自ら命を絶ったのだと、彼は語った。


「少し考えればわかることだった! あれは、彼自身の話で、僕が、大事にしてしまったから――彼は死んだんだ!」


 綺麗な顔に爪が食い込む。内側にある心を刈り取るように、鋭く。


「僕は愚かだった。ずっとリオウさんに守られていて、その世界だけが正しいのだと思い込んでいた。世界の縁にある暗闇で、何が行われていたのかも知らずに。

 ……綺麗なところしか知らないアイドルは、泥の中から磨き上げられた宝石じゃない。ただの偽物のプラスチックです。そこに本物の輝きがあるはずもないんです」


 そうは思わない、と口を挟むことは簡単だ。けれど無知は罪であるというように、何も知らない私がそれを言ったとしても、彼の心に波は立てられないだろう。

 カスミくんはなおも話を続け、自分自身について語った。

 椿グループの跡取りであったが、アイドルを続けるために勘当されたこと。年上のメンバー二人を尊敬しつつも、自分の能力が追いつけずに悩んでいること。そして、平和に生きていてほしい、大切な弟がいること。


「……怖いんです。また僕のせいで、先輩やさくらに何かあったらと思うと、そう考えたら身体が、おかしくなって……」


 私が人形のようになってしまったカスミくんを見つけて数日は経つ。その間にも彼は、生放送やライブと忙しい日々を茶の間に届けている。

 けれど見えないところで彼はもう、壊れてしまっているのだろう。


「吐き出して、少しは楽になったかな。でも、そんなにペラペラと話してしまっていいの?」


 香澄くんは袖で涙を拭い、やがて呟いた。


「貴女は僕の人生に関係のない人ですから」


 毅然とした態度で言い切ったカスミくんに少し驚く。崩れていく彼の中で、それは変わらずある信念のようなものなのかもしれない。

 この子はきっと、大切に想う人ほど自分の汚いところを見られたくなくて……逆に言えば、明日会うかもわからないような人には、どう思われようが構わないのだろう。

 彼はハッとして固まった。さっきの言葉が失言だと思ったみたいだった。


「気を悪くしましたか」

「いいえ、全然。だって本当のことでしょう? 私たちは何の関係もない赤の他人だもの」

「すみません」


 この子は謝ってばかりだ。

 そんなところもカルロによく似ていて、思わず泣きそうになった。

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