第12話 ディアリオ 【一】
親愛なるレナちゃんへ
これが貴女に読まれているということは、私はもうこの世にはいないのでしょう。
だから最初に謝っておきたいのです。
……ごめんなさい。
貴女を置いて行ってしまうこと、どうにか避けられないかと色々考えたの。でも駄目だった。
私に迫る魔の手は、まるで海底を這う軟体生物のように、ゆっくりと私たちに近づいている。
私はそれから逃れられないと悟った。
けれども貴女は――レナちゃんは、暗闇に囚われていい人じゃない。
だから私は、貴女から離れなくちゃならない。
貴女は優しい人だから、きっと私がいなくなったら自分を責めてしまうのでしょう。
そして、おそらく怒りをも抱く。
貴女じゃない人の手を取って暗闇に向かった私に対して。
私は知ってもらいたいの。どうして私が彼と行くことになってしまったのか。
この日記を読めば、全てわかるはずです。
私がこの日記に書き綴ったのは、私が日本に来てから今日に至るまでのもの。
私にとって、貴女と過ごした日々は色とりどりの花束そのものだった。
――私の幸せは、貴女と過ごす日々と、これからの未来を想像することだった。
それだけは本当だったんだよ。
*
一ページのヘッダーには九月二十一日と書かれていた。
その次のページが三年前の六月九日ということは、ダリアがあえて最初のページに最新の日記を差し込んだのだろう。
ざっとスクロールして気づく。この日記は全て日本語で書かれていた。そういえばダリア、パソコンの前で辞書とにらめっこしながら、キーボードを叩いていたっけな……と懐かしさを覚えながら次のページに移る。
日記の初めの方は、一言二言の他愛もない彼女の心の内が書かれていた。
日本の学校緊張するとか、お米美味しいとか。わたしと共有したこともあればそうでないことも様々あって、少しずつわたしは知らなかったダリアを知っていく。
初めて三行以上の長文が現れたのは三年前の七月二日だった。
*
☓二年七月二日。
日本の夏は暑い。全身溶けてなくなっちゃいそう。
放課後、クラスメイトの一人が【からおけ】に行こうと言い出した。歌を歌えるところ? みたい。この国に来る前から、ずっと日本語勉強してきたと思ったけど、まだまだ知らない単語たくさんある。実際に来てみてやってみないとわからないことだらけだ。
私はいいよと言った。でも私はその日の掃除当番しないといけないなので、終わるまで待ってほしいと伝えた。日本に来てびっくりしたんだけど、教室の掃除は生徒がするんだって。
そうしたら彼女たちは「大丈夫大丈夫」と言って笑った。
「百合乃さんがやってくれるから」
彼女たちの目線は、教室の後ろで本を読んでいた女の子に集まっていた。
暑すぎる夏なのに、肩まである黒髪は括られていなくて、綺麗にまっすぐ伸びている。彼女は真剣な目で大きくて硬い本を読んでいた。
委員長がすぐさまその子の元へ行き、話しかけた。
顔を上げて本をぱたんと閉じて、その子は笑った。そして頷いた。
帰ってきた委員長が「いいってさ、行こ」と私の手を取る。引きずられていく。遠ざかっていく。
当番でもないのに、私の代わりに掃除をさせられているあの子から。
その子は、百合乃さんは。嫌な顔一つしなかった。
私たちが教室を後にする時、彼女は掃除の道具を取り出したところだった。
☓二年七月十日
今日もまた、百合乃さんは放課後一人で過ごしている。私はその様子を扉のガラスからこっそりと見ていた。その日も委員長たちに遊ぼうと誘われたけど、断った。それよりも、あの黒髪の彼女が今日は何の本を読んでいるかの方が気になった。
百合乃さんが読む本は毎日変わる。最近はずっと小さい本で、表紙の絵が同じ絵柄だから同じシリーズの本なんだと思う。
彼女は登校してから放課後になるまで、一人の時間は大抵本を読んで過ごしている。だからきっと毎日持ってくる本を、一日で読み切ってるんだ。すごいな。
私は、こんな風に彼女を観察していながらも話しかける勇気がなかった。
――この前は、掃除してくれてありがとう。
そう言えたらいいのに、勇気が出ない。
☓二年七月二十一日
今日、百合乃さんとちゃんとお話できた。意を決して、日誌を書いている彼女の元へ行った。
私は真剣な目をする百合乃さんが好きだった。
だから、思わず「きれい」と言ってしまった。すぐにしまったと思ったけど、彼女は字を褒められたんだと思ったみたいで事なきを得る。(使い方あってるかな?)
それと、百合乃さんにゴロ丸をもらった。嬉しい。
☓二年八月十日
今日も補習で学校に来た。夏休みの間、日本語を教えてくれるイタリア人の先生と二人で勉強。
その先生が「何でもいいから本を読みなさい」と言うから図書室に寄った。そうしたら……なんと百合乃さんがいた! 隣に座っていい? って聞いたら「いいよ」って言ってくれた。
「休みなのに、学校来てる?」
図書室はクーラーが効いていて涼しくて、私たち以外には誰もいないからとっても静か。百合乃さんは本を閉じた。今日は小さいけれど分厚い本だった。
それが『日伊辞典』であることに気づいた私は、何故かはわからないけど胸が高鳴った。
「宿題、家でやるより捗るから……ええと、これも、そのためにとってきただけで」
「私とお話したかった?」
「う……」
彼女は気まずそうに視線を彷徨わせながらも、最後には真っ赤な顔をして俯き、こくりと頷いた。
「嬉しい!」
私は彼女に抱き着いた。先生がいたらうるさいって怒られちゃうくらいの大きな声だ。でも今はいないから別にいいよね?
「あのね、私も貴女ともっとお話がしたい。ずっとそう思ってた……掃除当番、代わってくれてありがとうって!」
「掃除当番? ああ……そんなこと覚えてたの?」
「忘れるわけないじゃない!」
百合乃さん――この後、私は彼女のことをレナちゃんと呼ぶようになる――は丘の上に咲く花だ。気高くて美しい百合の花。それが静かに揺れる。穏やかな優しさは、いつだって私を気づかぬうちに包みこんで、癒してくれていたんだよ。
☓五年三月九日
今日は高校の卒業式だった。三年間通った学び舎に別れを告げる日。桜が咲くにはまだ早かったみたいで、窓から見下ろす木々は少し淋しい様相だ。それでも、卒業証書を入れた筒と共に校門をくぐる卒業生たち一人一人が、まるで散っていく花のようだった。
筆舌に尽くしがたい思いが胸の内を駆け巡り、お互いにぶつかり合ってはさざめき消えていく。不思議と泣きはしなかった。こういう時、自分より泣いている人がいると冷静になれると聞いたことがあるけど、まさしくその通りだと思った。
レナちゃんはハンカチ一枚を水没させたのかなってくらい濡らして、嗚咽を噛み殺していた。
「レナちゃん。もう卒業式も終わって後は帰るだけだよ? 泣きすぎだよ〜」
からかうように肘で彼女をつつくも、一向に涙は止まらない。
「……ダリアは、もう帰るの?」
「レナちゃんが帰りたいって言うまで待つよ」
「違うの。……自分の国に」
――彼女が言わんとすることが自ずと理解できた。
「もしかして、泣きすぎてるのはそのせい?」
「わ、わるい?」
「ううん、ぜーんぜん悪くないよ。……あのね、レナちゃん。私が初めて教室にやってきた時の挨拶を覚えてる? 幸せになりに来たって。
……その私の幸せ、ね。レナちゃんと、いることなのかもしれない」
ほら、泣き止んだ。驚きとそれから期待が入り交じった表情。それらがたまらなく愛おしくて――わたしは今までで一番強い抱擁をした。
揺れる百合の花を包み込むように。
*
震える指先で、液晶画面をなぞる。
ぼやけた視界の中、ダリアの書いた【百合乃さん、レナちゃん】を一つ一つ確かめては、込み上げる感情をどうにか押し留めた。
ダリア。あなたとの思い出が今、わたしの中で鮮明に蘇った。あなたと出会ってから、好きになって一緒になるまでの全てを。
それらはわたしの視点とダリアのそれとを照らし合わせて確かなものとなった。もうその軌跡を抱いて生きていけると思うほどに。
――声にならない。
彼女が残したものは、あまりにも実直で眩しかった。
だからこそ、読み進めるうちに、かねてから思っていた疑問が再び浮上してきた。
何故、ダリアはわたしたちの国に来たのだろうかということ。
幸せになりたかったという彼女の願い。それは祖国では叶わないことだったのだろうか。
ダリアが語る家族の姿はまさしく【幸せ】そのものに思えた。なのにどうして。
「そういえば、日記に家族が全然でてこない……?」
彼女は一人、親元を離れて日本にやって来ている。その後に書き始めたものなのだから無いのは当然と言えるが、にしても思い出話や電話したといったことまで無いものだろうか。
思案しながらスクロールするうちに、日記の日付はとうとう今年の九月――ダリアが亡くなった月へと入った。
*
☓五年九月一日
まだまだ暑い日が続きます。
レナちゃんは今日も朝からバイトで、夜も遅くなるみたい。晩御飯は何にしよう。
☓五年九月三日
なんだか最近、誰かに見られている気がする。気のせいかな。
☓五年九月四日
きのせい、だよね。
☓五年九月五日
だってそんなわけない。
ちがうちがうちがう。
あの人がこんなところにいるわけないのに。
☓五年九月十日
レナちゃん。ごめんね。
*
「…………は?」
自分でも驚くくらいの低い声にハッとなり、口を塞ぐ。
理解が追いつかない。短文かつ精査されておらず、書き殴ったような内容に、いよいよ確信へと迫りつつあるのだと直感する。
九月の日記はこれだけだ。
最後の日付は九月十日……一ページに挟み込まれた文章を書いた日の十一日前だ。
落ち着け、まずは整理しなければ。
日記の様子が急変するのは九月三日からだ。この日にダリアは何かに気づいた。
そして次の日、そのまた次の日と続けて、彼女は恐れていたものが来たのだと知った。
『あの人がこんなところにいるわけないのに』
……あの人って、一体誰?
わからない。けれどこの人がダリアを心底震え上がらせた何かなのだということはわかった。冒頭の『私に迫る魔の手』とは、このことなのだろうか?
指で強く押し込みすぎたせいで滑ったマウスが机の下へと弾き出された。それを拾い上げた時――まだ日記には続きがあることに気づく。
『私が彼と……カスミくんと出会ったのはこの日。
彼は――心のない人形のように、ただ涙を流していた』
そこに続く長い文章には、ダリアと、そして香澄くんの絶望と諦観が記されていた。




