第11話 その日を忘れない
車輪が小石たちを踏みつける音は、まるで窓に当たる小雨のようだ。そんな音と共に車が停止すると、すぐ横の自動ドアが開いた。
真っ暗闇の中であろうとも、この家――椿家の庭が広いことは容易にわかった。
その庭園の奥に、明かりのついた玄関がある。わたしは二人の後に付いて行く。
立派な瓦屋根の下、重厚な引き戸の向こうには式台があった。流石椿グループ一族の家だ、和の豪邸のイメージそのままで少し感動を覚える。
「おかん、帰ったで」
咲良くんがそういうとすぐに荒々しいスリッパの音が近づいてきた。
「さーくーらー?」
小柄な女性が、鬼の形相かつどすの効いた声で咲良くんを睨みつけている。
テレビに出てくる大阪のおばちゃんそのものでありつつ、なにより蛍光ピンクのパジャマに目が引かれる。
咲良くんがピンク色を好んでいるのは母親の影響なのだろうか。
「連絡はもっとはよせぇ言うとるやろ、もう。……あ。あんたが百合乃さんやね? ようこそ〜散らかってて堪忍な、お風呂入っとるから先に入りな」
わたしの分のスリッパを出してくれて、背中を押されてそのまま浴室へ。
「す、すみません。急にお邪魔して」
「ええんよ。いつも咲良が迷惑かけてるんやから」
いや、むしろ迷惑をかけてるのはわたしの方なんです……とは言えず、あれよあれよと言う間にお風呂に入り、布団が敷かれたお座敷に通される。
「わ……広い部屋」
二十畳はありそうな和室だ。真ん中は襖で分断できるようになっている。
布団が敷かれていない襖の向こうにある長机、その上にパソコンが置いてあり、咲良くんのUSBメモリが刺さっていた。
「もうちょっとしたら咲良帰ってくるから。……レナちゃんも眠いと思うけど、ここが踏ん張り時やから、頑張るんやで。終わったら寝てええから」
「は、はい」
終わるとはパスワードを解くことだろうか。そういえば、朝までに解けなければ警察預かりになる、と椿警部は言っていたなと思い出す。
「……咲良くん、どこかに行ってるんですか」
「ウメちゃんを迎えに行ってるんよ」
知らない人の名前だ。ちゃん付けだからおそらく女性なのだろうということしかわからない。
「赤城梅子。だから梅ちゃん」
その苗字には聞き覚えがあった。
「もしかして……喫茶店【オクターブ】の」
マスターの赤城さん。スラッとしたショートヘアの女性。そういえば、咲良くんは赤城さんが父親の知り合いだと言っていたっけ。
「そうや。あたしにはようわからんけど、お父さんとあの子にはなんか考えがあるみたいやな」
その時、ちょうど玄関の方から声がした。
「梅ちゃん! 久しぶりやねえ!」
「お久しぶりですモモさん」
咲良くんのお母さん――桃さんというらしい――が赤城さんに抱き着く。対する赤城さんにそれを振り解こうとする意志はないようだ。それどころか、目元が緩んでいて微笑んでいるように見える。
そんな赤城さんはわたしに気づくと咳払いをして桃さんを諌め、背筋を正す。
「百合乃様も、ひとまずはご無事で何よりです」
「あ、ありがとうございます。……あの、赤城さんは椿警部のお知り合いだと聞いたのですが」
「ああ。赤城さんは元刑事なんよ」
「五年ほど前まで兵庫県警にいたんですが、辞めて東京に来たんです。椿先輩はその時の上司で」
赤城さんは遅れて入ってきた椿警部を一瞥する。警部は鍵の戸を閉めると、玄関にたむろっていたわたしたちを居間に行くよう促しながら、赤城さんに話しかけていた。
「すまんな赤城。もう警察辞めたってのに、こんなこと任せちまって」
「いいんです。――他ならぬ椿先輩と桃さん、そして坊ちゃまの頼みなんですから」
咲良くんと椿警部は、何のために赤城さんを呼びつけたのか。咲良くんは「そのうちわかるで」というだけで、答えを教えてはくれなかった。
*
午前三時。先程桃さんに案内された和室で、わたしと咲良くんはパソコンの前に集まっていた。
試みるのは勿論、ダリアの日記のパスワード解除。
わたしの家を出る時、咲良くんはパソコンが得意で、自分の家に工具があると言っていたが、彼は今何も持っていない。
「あん時はああでも言わんと部屋を出んかなと思ったから言っただけや、工具なんて必要あらへんよ。あ、パソコンが得意っちゅうのはほんまやで!」
そう言いながらワードファイルをクリックすると、やはりあの表示が現れる。
『パスワードを入力してください。※数字四桁』
「ふぅん、数字四つか。おねーさんは何を試してみたん?」
「ダリアやわたしの誕生日、記念日……あと、香澄くんの誕生日とかも入れた。でも全部駄目。試しまくってたら、あと五回で完全にロックされるって表示が出て」
日記を見ることができればパスワードにも見当がつくのだろうが、ミステリーで言えば密室トリックのように、日記を開けるための鍵が日記の中にある状態だ。
咲良くんは数秒考え込んだ後、キーボードに指を置いた。
「実は、こういうファイルは忘れてしもた時用に、解析ツールがあるんよ」
「え、そうなの?」
「せや。一生開けられへんかったら困るやろ。だからツールを使えば開けられるけど……ちょっと待ってくれるか? 一回だけ試させてほしいねん」
「試させてほしいって……わかったの? パスワードが!」
彼は自信ありげに頷く。
「パスワードは英字、数字だけでもええし混合でもええ。何文字以上以下の縛りもない自由なものなんよ。んで、ここに出てきとるメッセージ……『数字四桁』ってとこ。これはユーザーが自由に設定できる。だからパスを数字四桁に設定して、それ以外は違いますよ〜ってダリアさんが言うとることになる」
本来なら自由なそれを、あえて数字四桁に限定して考えろと指示したのは、やはりそれだけで表せられるもの――日付なのだろうか。
「……ダリアさんは、いずれわかるって言ってたんやんな?」
咲良くんはこちらを一瞥して、一度深呼吸をしてから話し始めた。
「改めて考えてん。なんで二人がお互いの名の花束を持っとったか。あれは、目印やったんとちゃうかって」
「……どういう、こと?」
「つまり。ダリアさんの転落死や、香澄の刺殺は想定外やったんとちゃうかっちゅうことや。
二人はほんまは、あの公園で一緒に死ぬつもりで、花束はその最後の確認やった。あれを持ってくることこそ、共に死ぬことを了承した証だったとしたら」
――以前のわたしなら、彼の推理を突拍子もないと決めつけ、激怒していただろう。
あのダリアが自殺を選んだ? しかも、わたし以外の誰かと? と……身を震わせていただろう。
でも今は違う。
「勿論今のは仮定の話や。けども信憑性はあるやろ」
犬飼さんが見たという、密会し号泣する二人の姿。花束を買った時の香澄くんの思い詰めた表情。
「――おねーさんは、もしダリアさんが自殺したとわかっていたら、何の日が一番心に重く、伸し掛かってくると思う?」
……想像する。ダリアが自ら死を選び、旅立ったとしたら。わたしはきっと泣いて、毎年その日を思い出すだろう。
「……あ」
……まさか。
そんなことって。
「――ダリアの、死んだ日?」
手汗が滲む。
脳裏に描くのは振り返って微笑み、暗闇の中に消えていく彼女の姿。
「遺体が発見されたんは二十二日の早朝。ほんまは夜のうちに死のうと決めてたんやったら、その一日前」
「九月、二十一日」
咲良くんは右手で軽快に四桁の数字を打ち込んだ。
……0921と。
『パスワードを解除しました』
「開いた……!」
思わず咲良くんの肩を掴み、その手に力が籠もる。
ワードは読み込みに時間がかかっているようで、数秒後に全文が表示された。
開いて最初の一ページに書かれていたのは。
『親愛なるレナちゃんへ』
その一文から始まる、ダリアのメッセージだった。
紐が解かれた玉手箱を前に、わたしたちは少しの間だけ無言だった。
本当は、今すぐにでもダリアの日記が読みたい。
椿警部には警察が日記を確認しても良いとは言ったけれど、まずはわたしだけに読ませてほしい、という思いが抑えきれないでいた。
そんな自分勝手なことを、パスワードを解いてくれた人に向かって言ってもいいのだろうか。
「あの、咲良くん。勝手なこと言ってるのはわかってる。けど――」
「ほな、おねーさんが読み終わったら呼んで」
「……え」
「おねーさんが見たものの中で、何を話して何を語らないのか、それはおねーさんが決めたらええと、おれは思う」
――ああ、きみって人は。どこまで優しい人なんだろう。
本当は兄の真相を知りたくてたまらないんじゃないの? それなのに、まだ、わたしの気持ちを汲もうとしてくれるの?
「……ありがとう、咲良くん。気にしてくれてるんだよね。ダリアのことを話したくないっていうわたしの思いを。
でも大丈夫。約束する。ここに香澄くんのことが書いてあったら全て伝える。わたしは、もう前のわたしじゃない」
自分だけの胸にしまっていた想い。誰にも見せなかったそれのせいで、ダリアの本当の想いを塗り潰したくなんかない。
「……おねーさん、変わったな。なんか、頼もしく見えるわー」
「今までは頼もしくなくてごめんね」
咲良くんはマウスを指で小突いて、わたしの方へと向ける。そしてニカッと笑った。
「冗談やて。ほな読んだらすぐに知らせてな!」
そうして、彼は和室を後にした。
一人残ったわたしは――意を決して、ダリアの日記【Diario】を読み始めた。




