父の口癖
「人間いつだってフィードバック」
父の口癖はこれだった。
――昭和63年、夏。
千代の富士が七月場所で全勝優勝し、年初めに結婚した郭と日本人初の一億円プレイヤーの落合を擁する中日ドラゴンズがセ・リーグで唸るような好プレーを連発、のちに消費税と名の付く大型間接税が議題に上り、日産のシーマが爆発的な売り上げで「オイルショックでたまたま売れた高燃費なだけの日本車」と言うイメージを払拭した、激動の年。
陛下の容体が急変するひと月前の、昭和最後の夏の日のこと。
朝のラジオ体操を終え、アニメの再放送を見ていた僕に、縁側に腰掛けた父が気のない声で「なぁタケシ」と呼びかけた。
そっちを見て、僕ははっきり言ってうんざりしたはずだ。
『魔人英雄伝ワタル』その画面から視線を外した先にあるのが、散らばったスイカの種と潰れたビニールプールが転がる庭を背に、灰皿にブンタの灰を、右手の新聞紙に目を落とす父の姿だったのだから。
風鈴の音でも消し切れない、爽やかさとは程遠い父、見ているだけで蒸した暑さが増すようだ。実際、全身にはたいたシッカロールが体臭を引き立てているらしかった。
それに、僕は疲れていた。イヤに厳しい上級生たちが、ラジオ体操のあと、腕立て伏せとか持久走とか、毎日のように僕らをしごいていたのだ。市民プールに使うと決めたお小遣いも、帰り道にある駄菓子屋の、カラダに悪そうな青色のチューペットに消えていた。
「これよぉ、お前ぇ。こりゃまたすげぇなぁ」
自分から呼んでおいて、あくまで記事に興味があるらしい父。読みかけであるようで要領を得ない。
「おっとう、今ちょっといいトコだからさ」
「人間の体って面白いんだなぁ、見ろよタケシ」
父がそう言って新聞紙をわずかに傾けた。それは三共株式会社の広告記事。初代社長の高峰譲吉が発見したアドレナリンについて、ホルモンのはたらきを図解したものだったはずだ。
もちろん僕の所から誌面の記事なんて見えやしないし、当時十歳の僕には読んでも退屈なだけで意味なんて分からなかっただったろう。
だが、それが父の口癖となった。
「そんでよ、ホルモンってのを出して調整するのに、無菌でもいけねぇんだと」
「うん」
「善い菌と悪い菌、両方がないと調整できないって」
「うん」
僕は既に興味を失い、手すさびに畳の井草を毟っていた。アデリアグラスの中には、溶けた氷で薄まった砂糖入り麦茶が二センチ。結露した汗が畳に丸い染みを作っている。
眼前に寄せた扇風機がバサバサ揺らす誌面を手に記事を解説する父も、僕が本気で聞いているとは思ってない。
田畑を持たない、つまり兼業を持たない野丁場の左官屋に訪れるたまの休みなんて言うのは、秋の空より気まぐれで、予定なんか立てる間も無い。寝て起きて飯を食えば、それから夕ご飯の時間が来てしまうまで暇なのだ。
ただ、その頃は昔の左官には恐れ多くて考えも及びもつかない「計画的な休み」が出始めていた。
左官がもっとも重宝されたのはコンクリートの精度が低い時代、三十年も前のことだ。数年前に高度経済成長が始まってからすぐ、不足した職人の手を借りずとも建物を作れる工法を住宅設備メーカーが競って開発していった。
父は左官栄華を知る最後の世代。酒に酔うと決まって昔の話をしたがった。外部のモルタル塗り、内部のプラスター、土間モルタル、ブロック積み、吹付け、レンガ、防水。自分たちが丸ごとすべてをやっていた頃の話。
とにかく、父との会話は会話のようでいて返事を求めない独り言だった。だからと適当に相槌を返すのが常なのだが……その日は少し違った。
「人間ってそうだよなぁ」
「…なにが?」
聞き返したのはただの気まぐれ。もしかすると、長話に付き合わされた挙句、それらしい事を言おうとしている父に苛立ったのかもしれない。それか恥ずかしいことを言わせてやろう、と言ういたずら心。図らずも生まれつき五教科が得意だった僕は学の無い父を心のどこかでバカにしていた。
「人間は、自分一人じゃ自分がわからないだろ?」
それ見たことか、どこでも聞くような言葉に少し呆れる。話がピーマン、中身が空っぽ。気取っていて青臭い、ジュリるって感じだ。
「だから調整するんだ、周りからの刺激を受けてな、環境に合わせてな。善い奴、悪い奴。楽しい事、苦しい事。フィードバックするんだ、自分に」
僕の意識は翌日に控える町内こども会の日帰りキャンプに向いていて、もうロクに聞いてもいなかった。
だが父は、しばしの間、自分の言ったことを噛みしめるように満足げな顔で「うん、うん」と頷いていた。
――それから父は事あるごとにそれを口にした。
本当に、事あるごとに。
同僚が会社の金を持って逃げた時、多くなった「たまの休み」に遊園地でパインアイスを買ってくれた時、叔父が阪神淡路大震災で亡くなった時、僕が就職氷河期に道を阻まれた時、母さんが坐骨神経痛で足腰を悪くした時……思えば悪い事ばかりじゃないか。楽しい記憶で聞いた覚えがほとんどない。
まったく、引きつるように笑って、僕はそこで運転手の声を聴いた。
「……お降りの方、いませんか?」
気づけば自宅近くのバス停で停車していた。仕事からの帰り道、体重を気にして普段は歩いている駅からの帰路を、珍しくバスに乗って帰っていたのだ。ハッとして顔を上げると、誰も立ち上がる気配のない車内を怪訝そうに覗く運転手と、ミラー越しに目が合った。
「あぁすみません。降ります」
頭を下げつつ、運転席に届かないくらいの音量でボソリとお礼を言って、外へ出た。今時、運転手に「ありがとー!」と大声で叫んでバスを降りる人間など居ない。
それもこれも、僕のすべてはフィードバックで調整されて出来ている。重苦しいマスクを外して、大きく息を吸う。
このコロナ禍の影響もフィードバックのその一つ。束の間だった在宅ワーク期間も、思い返せばいいリフレッシュになった。
九月も半ばのいま、夏用シャツで薄着をしているのだってそうだ。あの頃は、昭和の頃は、盆を過ぎればすぐに寒くなったものだが、今は違う。これも温暖化と言う刺激を受けた調整。
刺激を受けて調整、それさえ出来れば、どこにでも順応して、誰とでも話せて、どんな時代にも置いていかれることはない。
だから、そうだ。これも、
「フィードバックだ」
二週間前、父は死んだ。
母さんが亡くなってから早十年、いい加減一人暮らしは辛かろうとウチに来ないかと説得している間に、肺炎に。
治療はつつがなく進んだが、術後の内服薬の副作用にあった眠気が、もともと少し予兆のあったアルツハイマー型認知症を加速させた。
眠りがちになり、筋力が衰え、寝たきりになり、脳が弱り。
施設に入ってしまってはコロナ禍とあって面会も出来ず、週に一度、看護師さんにビデオ通話で顔を見せてもらうのが関の山。
大きな声で名前を呼ぶと、開いたままの口が少し動くのだけが生きている証。ただの反射かもしれない。でも、生きていた。
四週間前、父の突然の高熱に、頑なに面会を拒んでいた病院が、いきなりその門戸を開いた。それが示す意味を噛みしめながらベットの脇で二つの夜を超え、看護師さんにも「山を越えた」と一時帰宅を促された、七日後――職場に電話が入った。
予兆は無かったと言う。熱も便も何もなく、息が静まり、脈が落ち、そして父は、死んだ。
闘病に悩んだ母と違い、苦しみが無かったのなら……そう思うのは生者の傲慢だろうか。
儀式と言うのはよくできたもので、母の時と同じく、葬儀が終わればなんとなく「あぁもう、この世のどこにも父は居ないのだ」と心に実感がストンと腰をつけた。
葬儀が終わって二週間も経ったいま、日常を繰り返すうちに、もはや悲しみは風化を始めていた。だが、父が僕にくれた刺激は、思い出は、全て僕を作る糧となっている。
酔っ払ってウィンドファンを叩き壊し、母に見つからないよう深夜1人でいそいそ修理していたのを手伝って駄賃をもらったこと。
バスケ部の周りの子がカッコイイ練習着を着ている中、ダサいユニフォーム一着を洗い替えで着ている事でケンカになったこと。
叔父の遺産でもある父の実家を売り払って商業高校の学資にしてくれたこと。
足を悪くした母を労わって、したこともない家事を始めたこと。
この離別の悲しみも、調整する材料の一つとして僕の中に生きている。
……少し笑ってしまう。話がタマネギ、中身があるようでいて剝いても剝いても皮ばかり、実がない。どこでも聞くようなこんな話を、昔は嫌っていたはずなのに。だがそれでよかった。
「人間、いつだってフィードバック」
僕はそう独り言ち、妻と子の待つ家へと一路、駄菓子屋の無い、放し飼いの犬の居ない、けれどよく知る自分の道を、胸を張って進んでいった。