006 殻を破る
本音を言うと、今日も昨日と同じように過ごしたかった。
そう思うぐらい昨日の出来事は私の価値観を変えるに十分だった。
これでまだ世の恋人がすることの大半をこなしていないと言うのだから、教会が恋愛を禁止するのも納得できてしまうと言うもの。
でも、さすがに連日あんなことだけをしているわけにもいかない。
どうせそれ以外のことをしてもフレイアさんとは一緒なのだから、実際のところ大差は無いのかもしれない。
「さあ目を閉じて、今日も心を解き放ちましょう」
彼女はベッドに腰掛け、私はその膝の上に座って、背後から片手でお腹をきゅっと抱き寄せられる。
もう片方の手は、私を外の悪意から守るように、目の上にそっと添えられていた。
背中で感じる温もりと柔らかさが心地よい。
彼女の腕の中にいるだけで、この世の全てから守られているような気がする。
「ピオニアスはもう問題ないわよね」
「はい、ピオニアスは嫌いです。今まで私にしてきた行為も、言動も、外見も何もかも許せないと思います」
「……まだそれぐらい?」
「へ?」
「死んでほしいとか、殺したいとは思わない?」
「そ、それはさすがに……」
いくらフレイアさんの言葉でも、躊躇う。
たぶんだけど、聖女関係なしに、それはやってはいけないことだと思うから。
でもフレイアさんとしては、そこまで私が考えるようになったほうがいいと思ってるのかな……。
「別に実際にそうなってほしいと思うわけじゃないの。頭の中で嫌いな人がひどい目に合うところを想像するのは、別に珍しいことじゃないわ」
「そうなんですか?」
「想像だけだから。そうやってストレスを解消している人は多いし、逆に言えば、大半の人がモラルに縛られているだけで、誰かを殺したいと思っている」
フレイアさんに言われると……そんな気がしてくる。
いや、実際に言ってみればいいだけだ。
だってそれが私の本心で、心が解き放たれているのなら、骸炎が成長するはずだから。
「フレイアさんがそこまで言うのなら……試してみます」
「無理はしないでいいわよ、あくまで一般論だから。クラリスは優しい子だから、できなくても問題はないの」
「はい……私はピオニアスを……こ、ころ……」
倫理観が邪魔をする。
いくら前の自分から脱却したいと言っても、さすがにこれは――
「うぅ、死んでもっ……」
どうしても、喉から声が出てくれない。
すると、目を押さえていたフレイアさんの手が私の頭をなでた。
「ごめんなさい、無茶をさせたわ。あまり汚い言葉を使うのもよくないものね。今のは私が悪かった」
「そんなことないですっ!」
「私も教える側としてはプロじゃないから。申しわけないけど、失敗しないわけじゃないのよ。だからさっきのは忘れて」
「……わかりました」
人は完璧じゃない。
それはフレイアさんであってもそうだ。
けど、その間違いを認めるのって簡単じゃなくて――すぐに謝って訂正してくれるのって、すごいことだと思う。
だから信じられる。
気持ちを切り替えよう、そんなフレイアさんに報いるためにも、もっと強くならないと。
「次はルビアにしましょう。彼女にも不満なところはあったはずよ」
再び、フレイアさんの手が視界を遮る。
体温が、脳に染みていくようだ。
「彼女は……ずっとリュードさんのことを気にしていました。魔獣を倒すための旅なのに、戦いの中でもリュードさんを優先して危機に陥ることがあったんです」
「それでクラリスも危ない目に合ったことあるの?」
「あります。そのときは、防御魔術でどうにか防ぎましたが……」
「他にはどんなことがあった?」
「……私のことを、睨んでいることがありました。それと、彼女がやったのかはわかりませんが、たまに私の物が無くなったり」
「クラリスがそう言うってことは、確信できるぐらいの証拠があったんでしょう?」
「そう、です。ルビアさん以外にできるはずはなくて……でも、そう言いたくてもピオニアスは彼女の味方で、リュードさんも興味がなさそうで……」
「きっと彼女はね、リュードを貴女に取られるんじゃないかって警戒していたのよ」
「そんな理由で……」
「世の中にはクラリスみたいな優しい子を嫌う人間が存在するわ。きっと彼女からは、無知に見せかけてリュードに迫る女に見えていたんでしょう。クラリスは何も悪くないのに」
私は知らない。
でもフレイアさんが言うってことは、本当にいるんだと思う。
「追い出した理由もそうよ。リュードを口説き落とすには、貴女が邪魔だったの」
「じゃあ……あのとき、ルビアさんがピオニアスと同じような表情をしていたのは……」
「知ってたのかもしれないわね、ピオニアスの計画を」
「私を……殺そうとしていた……」
「類は友を呼ぶと言うわ。一人いるとね、その手の人間は集まってきてしまうの」
「許せない……」
「ええ、絶対に許してはいけないわ。ルビアのことも嫌いよね」
「嫌いです。大嫌い」
言えた。
ピオニアスのときより躊躇なく、言い切れた。
私を殺そうとした人間なんて嫌われて当然だ。
そう、本当は私、あの旅のときからずっとあの人のことが嫌いだった。
馬鹿にするようなことばかり言って、冷たい目で睨んで。
私は何もしていないのに。
リュードさんになんて興味もないのに。
「解き放ちましょう。もっと大きな声で言うのよ、ルビアへの怒りを発散するの」
すでに一度やったことだから、二度目は簡単だった。
簡単なのに、同じぐらい骸炎は大きくなった。
素敵。
心がすっきりするのに、さらに強くなれるなんて。
フレイアさんの言うことを聞いてよかった。
もっともっと、彼女に従わないと――
◇◇◇
午前中のカウンセリングだけで、私の頭はずいぶんとすっきりした。
骸炎もますます成長している。
自分が強くなっているという実感は、同時に正しい道を歩んでいるという確信にも繋がる。
私はこれでいいんだ。
二人で用意したお昼ご飯を美味しくいただきながら、私はそんなふうに考えていた。
そして午後。
私に椅子に座って待っているよう伝えたフレイアさんは、引き出しから何かを探している。
それを見つけ出した彼女は、楽しそうにそれを私の前のテーブルに置いた。
黒――あるいは紫の宝石が埋め込まれた、金細工のアクセサリみたいだ。
「ピアス、ですか? 大人っぽくて素敵ですね」
「昔からね、恋人ができたら付けようと思って用意してたのよ」
昔から用意してたんだ……かわいい。
「私と貴女で片方ずつ」
「私もですかっ? でもピアスなんて付けたことは……」
「だから空けるのよ」
ピアスの横には、きらりと光る針がある。
あれで、突き刺すってこと……?
耳のあたりがぞわぞわする。
「……痛いですよね」
「多少は痛いわねえ。やっぱり怖い?」
こくん、とうなずく私。
だけど――
「フレイアさんとおそろいにはしたいです。それに回復魔術を使えば、痛みは最小限に留められるかもしれません」
回復魔術を自分に使う分には、教会に見つかっても処罰はされないはず。
まあ、こんな密室で使ったって見つかりようもないんだけど。
「何より、考えようによってはその痛みだって大切な思い出ですよね。フレイアさんと同じものを付けるための痛みなんですから」
「その言い方……もしかしてクラリスって痛いのも嫌いじゃないのかしら」
「そういう意味じゃないですっ!」
「冗談よぉ。まあ、私は自分で自分のを空けたこともあるから、多少は慣れてるわ。できるだけ痛くないようにしてみせる」
フレイアさんがそう言うなら、きっとそこまで痛くはないんだろう。
彼女は台所に行って、針を火で軽く炙った。
そして私の前にやってくると、左の耳たぶをつまんで、鋭い先端を近づけていく。
大丈夫、痛くないと自分に言い聞かせるけれど、やっぱり怖いものは怖いので、私は思わずぎゅっと強く目をつぶった。
体にも力が入ってしまう。
「行くわよ、魔術の準備はいい?」
「はい、いつでもどうぞっ」
準備が出来ているかと言えばノーだけど、たぶん永遠にイエスになることはない。
プツッ、と先端が皮膚を破った。
そのまま一気に貫通する。
「づっ……」
確かに、痛み自体は大したことないけど――針が自分の体を貫いているという事実に、体がこわばる。
私は目をつぶったまま耳のあたりに手をかざすと、魔術を発動させ傷を塞いだ。
針はそのままだから、穴が空いた状態で固定されたことになる。
フレイアさんが針を引き抜くと、痛みはなく、あるのはくすぐったさだけだ。
「よく我慢したわね」
子供をあやすように彼女は私を褒めてくれた。
いざ終わってみると、大したことはなかったのかな、と思う。
だけど耳に触れると、確かにそこには穴が空いていて、少し悪いことをしている気分になった。
だって教会では、装飾品は認められていないから。
そしてフレイアさんは自らの手で、私にピアスを付けてくれた。
感じるわずかな重みに、私の体が彼女のものになっていく感覚を覚える。
彼女も元々付けていたものを外して、右耳におそろいのピアスを装着する。
フレイアさんはそれに指で触れて軽く揺らすと、嬉しそうに微笑んだ。
「これで、誰の目から見ても私たちは恋人同士よ」
そっか、これで外を歩いたら、特別な関係だってことはわかってしまうんだ。
私はフレイアさんのものだって宣言しながら、歩きまわるようなものなんだ。
「こんな地味な私が恋人だなんて、つり合ってないと思われるかもしれませんね」
「そんなこと思うやつはいないわよ。クラリス、あなたは自分がどれだけ魅力的かを理解してないわ」
「だって、隣にいるのは誰よりも綺麗なフレイアさんなんですよ? 私みたいなちんちくりんでは……」
「本当に教会の教育って厄介だわ。そんな体つきをしてるくせに、自虐的になるなんて」
「フレイアさんはスタイルだっていいじゃないですか。私はただ丸いだけで……」
胸囲はあっても、お腹はフレイアさんみたいに引き締まってるわけじゃないし。
手足もちょっと太くて、冒険者と旅してるくせにって言われてたし。
ああ、でもそれはピオニアスやルビアの悪口だから信用できないけど、でもっ、やっぱり……。
「私、わかっちゃったかも。クラリスって自分の魅力に無自覚だから、自覚なしに誘惑してくるのね」
前もフレイアさん、そんなこと言ってたっけ。
すると彼女は、いつもみたいに私の体を真正面からぎゅっと抱きしめた。
ふわっとどこか懐かしいいい匂いがして、柔らかな感触が全身を包み込む。
ほら、こんな体と比べられたんじゃ、私なんて天と地ほどの差があるよ。
「決めたわ、クラリスが自分の体に自信を持つまで、今日から毎日、体の隅から隅まで褒めまくってやるんだから」
「まくるんですか!?」
「これも訓練のうちよ。毎晩たっぷり褒め称えてあげる」
「あぅ……も、もしかしてそれって……昨日みたいなことするってことですか?」
「昨日は手加減したって言ったでしょう。それ以上よ」
昨日もすごかったのに、それが毎晩だなんて。
自信を持つより前に、私の頭が破裂しちゃいそう。
「それはそれとして、クラリスにもう一個提案」
フレイアさんは私をハグから解放する。
体温が消えて、少し寂しい。
「服を買いに行かない?」
「私のですか?」
「もちろんよ。今は教会のローブを洗って使ってるじゃない? それだと目立つのよね」
「そっか……もう私、教会の人間じゃないんですもんね」
「関係者に見つかってトラブルになる可能性もゼロじゃないわ。だから私好みにクラリスをコーディネートしようと思って」
「フレイアさん好みに……」
私は改めて、彼女の服装をじろじろと観察した。
胸元は開いているし、おへそも見えているし、パンツは短くて太もも全開だ。
見ているだけで動悸がする。
「そういうのは夜になってからよ、クラリス」
「べ、別にそんなつもりではっ!」
「ふふ、体を見て興奮してくれること自体は嬉しいのよ。貴女が私のものであるように、私も貴女のものなんだから、時間さえ合えば好きにしていいの」
「それは……その……もう少し慣れてからで、お願いします」
「楽しみにしてるわ」
指先で頬から顎までの輪郭をつぅっと撫でられる。
フレイアさんは、私のもの――お互いに求め合うことが、恋人ってことなんだね。
私からも、もっと求めていかないと。
今は……全力で頑張っても、キスのおねだりが限界だけど。
「とにかく出かけましょうか。いつも使ってるお店があるのよ、きっとクラリスにも似合うわ」
フレイアさんが使ってるお店かぁ。
ってことは――やっぱりそういうことだよね。
うーん、本当に私になんて似合うのかな。
◇◇◇
フレイアさんの選んだ服をさっそく着せられ、私は店を出た。
風が胸元や背中を撫でていく。
周囲の視線が、私に集中している気がする……。
「ふっ、ふふふ、フレイアさんっ! さすがにこれはっ」
「堂々となさい。大事なのは慣れよ、慣れ」
「無理ですよぉっ」
私は羞恥に耐えきれず、フレイアさんにしがみつくようにして身を隠した。
「そっちのほうが余計に目立つわよ」
「だってだって、こんなに胸も見えてて、背中もお尻が見えそうなぐらいでっ! 赤い下着も見えてますし!」
「いつでも見れて眼福だわ」
「そういう理由だったんですか!?」
「当たり前じゃない。クラリスだって私の体、見てるでしょう? ちなみにその下着は見せてもいいやつよ」
「それはそうですけどぉ……フレイアさんは私と出会う前からその格好だったじゃないですかぁ」
「もちろん好みはあるわ。けど今は、クラリスに見せるためにこういう格好をしてるのよ。だから貴女もそう思えばいいのよ」
「フレイアさんに見せるため……」
それはまんざらでもないけど……で、でもやっぱり他の人に見られちゃうわけで……。
「ちんちくりんな私がこんなものを見せてもお粗末なだけですしぃ」
「だからそれが間違いなのよ。何よりその服だと私が助かるわ」
「何で助かるんですか?」
「隙間から手を入れやすいじゃない」
「っ……!?」
ま、まさかそんな理由があったなんてっ!
確かにスカートのスリットも太ももの付け根あたりまで伸びてて大胆だなって思ってたけど、そっか、フレイアさんってばここから手を差し込むつもりだったんだ!
「フレイアさん……やらしーです……」
「あらそうよ、知らなかった?」
「開き直ってるぅぅ!」
「染めるって言った以上、貴女にも慣れてもらうわよ。怖がることはないわ、すぐに楽しめるようになるから」
フレイアさん、また悪い顔してる。
そういうとこも受け入れて、好きになったんだけど……。
……そうだよね、私がそう選んだんだもんね。
新しい自分になるために。
だったら、勇気を出して、もっとフレイアさん好みの私にならなくちゃ。
「お、踏ん切りが付いたみたいね」
「付いてませんっ! ただ……フレイアさんが喜んでほしいから……ひやっ!?」
フレイヤさんは急に私を抱き寄せた。
ここっ、こここっ、外なんですけど!
見られてますよぉっ、露出多めの女の子同士が抱き合ってるところ見られてますーっ!
「愛してるわ、クラリス。貴女には絶対に私に付いてきてよかったって思わせてみせるから」
「……そこは心配してません」
仕方ないので、私も抱き返す。
周囲の注目を集めてたけど、知らない人の視線なんかより――フレイアさんの気持ちのほうが大事だから。
「さてと、じゃあ夕食の買い物でもして帰りましょうか」
彼女は私の体を解放すると、流れるように手を握り指を絡める。
急に夕食の準備だなんて所帯じみたこと言うんだから、ギャップが卑怯だよね。
私の心臓は急な坂を上り下りしたみたいに落ち着かなくて、翻弄されっぱなしだ。
でも不思議なことに、抱き合ったおかげか、服装に関する恥じらいは少し気にならなくなっていて。
ああ、こんな風に慣らされていくんだろうなぁ、と嬉しいやら悲しいやらであった。
◇◇◇
「きゃあぁぁああっ! 誰かっ、誰か助けてえぇええ!」
買い物の帰り道、スラムにある家に戻る途中、私はふと足を止めた。
路地の奥から女性の叫び声が聞こえてきたからだ。
そちらを覗き込もうとすると、フレイアさんがぐっと手を引っ張る。
「今のって……」
「止まると目をつけられるわ、ひとまず移動しましょう」
どうやら彼女は事情を知っているようで、言われるがままに少し離れる。
そして路地の入り口が見える物陰に移動した。
「目を付けられるってどういうことですか?」
「路地の近く、王国軍の兵士が二人立ってるでしょう」
「いますね。どうして様子を見に行かないんでしょうか」
「見張りよ。誰も近づかないようにね」
「……奥で兵士が取り調べでもしている、ということでしょうか」
「違うわ。起きてることは、さっきクラリスが想像してた通りよ」
――つまり、女性が何らかの危害を加えられていると。
そうなると、ますます私は疑問を抱く。
「どうしてあの兵士たちは助けに行かないんです?」
「見張りだからよ」
「レイラルクの治安を守るのが役目じゃないんですかっ!?」
「彼らの考える治安と民の考える治安は違うってことでしょう」
「じゃあ、見張りって……叫び声を聞いて助けに入らないようにって……」
「割とよくあることよ、この街じゃね」
そう言いながらも、フレイアさんは不快そうだった。
彼女ならあの見張りぐらいは簡単に殺せるはず。
けどスラムのごろつきとは事情が違う、どんなに強くても権力で押しつぶしてくる相手には無力だ。
私はせめて、誰が加害者なのかだけでも目に焼き付けようと思った。
フレイアさんは何も言わずに私に付き合ってくれる。
それから10分後――路地から誰かが出てきた。
「ピオニアス……!」
私は思わず声をあげる。
彼は満足気に髪をかきあげると、見張っていた兵士に金を握らせた。
「いやあ、おかげでなかなか楽しめたよ。死体の処理は任せたから」
死体……今、死体って言った?
「そう、あいつがピオニアスなのね。言ったとおりだったでしょう? あの手の貴族は、人の命をおもちゃにしたがるって」
「そんな……私だけじゃなくて……」
「普段からそうなのよ、あいつは。毒牙にかかったのは、きっと何の罪もない、ただすれ違っただけの女の子だったんでしょうね」
「どうして、そんなことできるんですか?」
「クズだからよ。理由なんて、“自分の欲望を満たしたいから”以外に無いわ」
「なんて……なんて醜いんでしょうか……」
失望する。
フレイアさんのおかげで、ちゃんと嫌いになれた。
だけど、まだどこかで人の善性を信じている部分があったのだ。
それすらも完全に消えた。
あんなやつ、ただの人の形をしただけの化け物だ――
「死んでしまえばいいのに」
無意識に、そんな言葉がこぼれ出た。
言ってすぐに、私ははっとして手で口を塞ぐ。
するとフレイアさんが背中から私をぬるりと抱きしめ、耳元で囁いた。
「……ちゃあんと言えたじゃない」
言えた。
そう、言えたんだ。
言えてしまった。
そして同時に――胸に宿った骸炎が、大きく燃え上がるのを感じる。
「骸炎も成長したでしょう? 心が解き放たれた証よ」
つまり、その“殺意”は、元から私の心の中にあったものだった。
歪んだでのはなく、汚れたのでもなく、扉が開いただけ。
「言ってみてどうだった? どんな気分になった?」
尋ねられ、私は首を横に振った。
わからない。
体の奥底から湧き上がるこの寒気にも似た感覚は、一体――
「すっきりしたでしょう。気持ちいいでしょう」
そう、なのかな。
「それはいい感情なのよ、恐れることはないわ。受け入れて、飲み込めば、貴女はもっと強くなれる。ピオニアスに馬鹿にされることだって無くなるし、彼の蛮行だって止められるわ」
そうだ、私にはフレイアさんと、骸炎という道標がある。
フレイアさんが正しいと言うのなら、そして骸炎が成長するのなら、それは正解ということだ。
「さあ、もう一度言ってみて」
従わないと。
正しい道を進むために。
「ピオニアスなんて、死んでしまえばいいのに」
人の命を軽視する。
この世には死んでいい命があるのだと理解する。
途端に――フレイアさんの存在を、近くに感じるようになった。
たぶん、私の頭のどこかで、出会いの時に死んだ男の人のことが引っかかってたんだと思う。
あの行為が完全に正しいと理解できた今、もはや私と彼女を隔てる壁はない。
背中から抱きしめてくれる彼女に、体を委ねる。
「今度は頭の中で想像してみるの。貴女の炎なら十分に人ぐらい殺せるはずよ」
イメージする。
手のひらから溢れた炎で、ピオニアスを殺すところを。
「ピオニアスなんて死んでしまえ」
黒い炎が、男を焼き尽くす。
まとわりつく高熱に、彼はのたうち回りながら苦しむ。
まるで私が殺した魔獣のように。
体の中から、ゾクゾクとした冷気がこみ上げる。
フレイアさんに教わった、これは“いい感情”だと。
だから受け入れて、“もっともっと”と望んでみよう。
「ピオニアスなんて殺してやる」
そう言うと、ゾクゾクはさらに大きくなった。
いけないことをしている気にもなる。
だけどそれは、教会に侵された私の間違ったモラルがもたらすもの。
むしろそれに反するからこそ、正しいのだ。
「殺してやる、あんなやつ殺してやる。私の炎に焼かれて死ぬべきです」
「言えば言うほどに、どす黒いものが吐き出されていくはずよ」
「はい……心が軽いです。無茶な言い訳で、都合よく解釈しないだけで、こんなに楽になれるんですね」
「クラリスもコツがわかってきたみたいね」
フレイアさんの体が離れる。
振り返ると、笑顔の彼女がそこにいた。
見つめ合う私も自然と微笑む。
その表情が、ちょうど真横にあったガラスに写った。
ああ、私――こんなにフレイアさんみたいに笑えるんだ。
影を帯びた、大人びた表情。
服装も相まって、まるで妹みたい。
着実に彼女の一部は私の中に入り込んでいる。
宣言通り、染められている。
また、ゾクゾクする。
これもいい感情。
もっとゾクゾクしたい、今までとは違う私に生まれ変わりたい。
「家に戻って続きをしましょう、今なら効率よく成長できるはずよ。貴女の成長は、ああいう理不尽な暴力を跳ね返す手段にもなるんだから」
こくんとうなずく。
嬉しい。
ちょうど、私も同じことを考えていたから。
◇◇◇
私は背中にフレイアさんの体温を感じながら、手のひらで視界を塞がれる。
聞こえてる愛しい人の導きに従い、何度も何度も頭の中でピオニアスを殺した。
彼は数え切れないほどの回数、私の炎に焼かれて死に続けた。
慣れてくると、楽しさすら感じるようになってくる。
いいんだ、だってあいつは死んでいい――ううん、死ぬべき人間なんだから。
「骸炎で焼くだけでは足りないでしょう? 今度は私のナイフを貸してあげるわ」
「これで、刺し殺す……」
「まずは手足を焼いて逃げられないようにしましょう」
「はい、焼きます……」
「どんな反応してる?」
「痛い痛いって言いながら転げ回っています」
「いい気味でしょう」
「ふふ、因果応報ですね」
「もう笑えるようになったのね、さすがだわ。もっと苦しめてやりましょう。さあナイフを握って、何度も、何度も彼の体に突き刺すのよ」
ぐぇっ、げぇっ、と口と体から血を垂れ流し、苦しむピオニアス。
想像の世界での出来事だから、罪悪感を覚える必要もない。
骸炎も燃え盛っている。
私は正しいことをしている。
「死ねっ、死ね、ピオニアス! 死んじゃえぇっ!」
「いい感じね。その調子で他の連中も殺してしまいましょう」
「他……」
「ルビアよ。彼女はピオニアスと結託してクラリスを殺そうとした同類なんだから」
「同類、なら」
「そう、彼女も同じようなことをしているわ。自分の欲を満たすためだけに他者を殺す。そんなやつ、放っておけないわよね」
「はい」
「生きてていいわけないわよね」
「はい」
「ならどうする?」
「殺します」
「いい子ねクラリス。さあ想像しましょう、苦痛に歪む彼女の顔を」
処刑対象はピオニアスからルビアに変わる。
彼女の不愉快な声も、それが断末魔だと思うとかわいくすら思えてきた。
「ルビアも死んでしまえ、焼き殺してやる。苦しんで苦しんで死ねっ!」
繰り返される想像。
慣れていく私。
思えば、最初はあんなに恥ずかしかったこの服装も、いつの間にか周囲の視線を感じなくなっている。
だって確かに恥ずかしくはあったけど、最初から、フレイアさんに染められる幸せのほうが少し上回っていたから。
じゃなきゃ、着せられる前に断ってるよ。
そして少しでも慣れると、幸せが完全に凌駕して、包み込んで――そして私の一部として馴染んでいく。
今もそう。
脳内で憎いあいつらを殺すたびに、その殺意は私の一部として馴染んで、今まで抑圧されていた感情を解き放っていく。
心に翼が生えたように楽になっていく。
「ルビアが済んだなら、今度はリュードね」
「リュードさん……」
「さんなんて付けなくていいって言ってるでしょう。彼はパーティのリーダーだった、そうよね?」
「はい、間違いありません」
「つまり彼は貴女をパーティから追い出すことを了承していたってことよ」
「確かに……全員が同意したと言っていました。ですが、彼は馬車を呼んだことに……」
「知らなかったとしても、リーダーが無知だなんてそれだけ罪じゃない。ねえ思い出してみて、これまでピオニアスやルビアに受けた嫌がらせを。それって誰にも気づかれないようなものだった? 他の人も気づいていたんじゃないの?」
そうだ……私物が無くなったとき、誰も盗まれたと疑わなかった。
みんな、私が失くしたと思って冷たい目を向けていた。
ピオニアスからの不快な視線だって、同じ男ならわかっていたはず。
数々の嫌がらせも――普段から仲間の様子を観察している彼なら、わかっていたんじゃないだろうか。
「わかった上で見捨てたのよ。卑怯よね、自分だけ気づかないふりをして、落ち着いた大人みたいな振る舞いをしていたんだから」
「私は……見捨てられていた……」
「貴女がパーティで聖女として成長できなかったのも、戦いや旅以外の部分に気を回す必要があったからよ。その大きな原因は、リーダーである彼にあるわ。リュードが悪いの」
「リュードが、悪い」
「そうよ、ルビアやピオニアスからの嫌がらせをよーく思い出すの。そしてその近くにはリュードがいた。見て見ぬ振りをして、すべての責任をクラリスに押し付けた」
「どうして……二人に注意してくれなかったんですか……私は……」
「クラリスはあんなに苦しんでいたのにね。かわいそうなクラリス。追い詰められて、それでもリュードやスイが味方だと思うしか無かった。それは、貴女の味方が他にいなかったから」
「今は……違います」
「ええ、今は違うわ。私がいる。どんなときでも貴女の味方でいる私がいるの。だから、勇気を出して情なんて切り捨てましょう」
「捨てる……私は、リュードが……」
「リュードが嫌いだったのよね」
思い出してみれば、そうだった気がする。
心のなかで、『どうして助けてくれないの』って叫んでいた。
目で訴えたこともあった。
だけど、彼はどちらかというピオニアスやルビアの味方で、最初から私なんてお荷物だと思って――
「リュードが、嫌い」
「また一つ、心を解き放つことができたわね」
「はい、私はリュードが嫌いです」
「リュードが憎い?」
「リュードが憎いです」
「彼はピオニアスやルビアと同罪よ」
「ああ……ピオニアスやルビアと同じぐらい憎いっ」
「だったらどうするの?」
「死ねばいい……殺します……」
「要領がいい子ね、クラリスは。やはり貴女は私に付いてきて正解だったわ。さあ、たくさん殺しましょう。私も力を貸すから」
「はいっ、リュードを殺します。たくさん殺してっ、いっぱい苦しむ顔を見て、心を解き放ちますっ」
一度こうなれば、あとは慣れたものだ。
焼き殺す。
刺し殺す。
開いて殺す。
落として殺す。
今度は中から焼いてみよう。
今度は一部だけ焼いて苦しみの果てに死んでもらおう。
そんなことを、フレイアさんの言うとおりに繰り返す。
気持ちいい。
頭の中で人を殺すのって、とても気持ちいい――
「完璧だわクラリス。ピオニアスも、ルビアも、リュードも、もう彼らに対する遠慮なんて何も残っていないでしょう?」
「はい……また会って嫌な気持ちになったとしても、頭の中で殺しちゃえばいいだけですもんね」
「ふふふ、私の言ったとおりだったでしょう。それ自体は、よくあるストレス解消の方法なのよ。しかも骸炎まで育てられるなんて一石二鳥よね」
「こんな簡単なことなのに、フレイアさんに出会わなければ絶対にわかりませんでした」
「自分たちの支配に都合が悪いからって、楽なことほど教会は教えないものよ」
「教会も嫌いです。あの人達も死ねばいいと思います」
「私も同感ね。それじゃあ最後に――スイに関しても、心を解き放っていきましょうか」
ぴくりと私の体が反応する。
「彼女は自分をかばってくれたから……そう思いたいんでしょう?」
「何でも見透かされてしまうんですね」
「彼女とクラリスの関係は聞いてるわ、別にピオニアスたちみたいに殺せって言ってるわけじゃないのよ。ただね、クラリスには今まで味方がいなかったから、必要以上にスイのことを庇っている部分があると思うの」
「……」
「心当たりがあるのね」
フレイアさんには何も隠せない。
白状して、私はすべてを話すことにした。
「さっき、フレイアさんから言われた……リュードが見て見ぬ振りをしていたという話です。スイちゃんも、最初の頃は心配してくれていたんですが、後のほうになると……」
「そのスイって子は、根っこから教会に染まっているのよ。回復魔術が劣っていることを、神への信仰心が足りないとか、努力が足りないって、クラリスのせいにしていたに違いないわ」
「でも……教会にいたころはお互いに励まし合って……」
「頑張れば必ずいいことがある、努力は裏切らない、みたいなことでしょう?」
「ど、どうしてそれを……」
まだ詳しく話したことなんてないはずなのに。
フレイアさんが言っているのは、ほぼスイちゃんが言った言葉そのままだった。
「クラリスは聖女としての才能が少し足りていなかった。教会から旅立つのが遅れたことから、そこは……否定できないわよね」
「そう、です……」
「才能はどうしようもないことだわ。だからといって、クラリスを虐げていいことにはならない。最終的に送り出されたとはいえ、最初に選んだのは教会なんだもの。だけどね、スイは違ったんじゃないかしら」
「違う?」
「彼女には騎士としてそれなりの才能があったってことよ。どうなの?」
「……それは、あったみたいです。だからこそ、私みたいな落ちこぼれと同じパーティに配属されたのかも。尻拭いのために」
「だとすれば、彼女はクラリスほどひどい境遇になかったのよ」
「でも、スイちゃんも辛かったって」
「聖女と騎士では訓練所も違うはずよ、その詳しい違いはわからないでしょう?」
「確かに……それは……」
「もちろん普通の訓練も辛い。だけどクラリスは、それ以上に理不尽な仕打ちを受けてきたわ。でもスイは違うの。彼女は普通の訓練を受けて――教官に虐げられることもなく――だからこそ、“努力は裏切らない”って言えていたの」
私たちは同じものを見ていると思っていた。
ボロボロになって、いっそ死んだほうが楽なんじゃないかと思うような訓練を受けて、それで――お互いに、支え合っていると思っていた。
けどフレイアさんの言うとおりだ。
私たちの苦しみって、本当は違ったのかもしれない。
私のほうがずっと苦しくて、スイちゃんのほうが楽で……だから、彼女は前向きでいられたのかも。
「旅に出てからもそうよ。クラリスは努力不足で付いてこれなくなった。虐げられるのも努力不足。追い出されるのも――」
「スイちゃんも、私を追い出すことに賛成していたそうです……」
「まずそこがおかしいのよ。本当に大切な幼馴染なら、反対すべきだわ。私だったらクラリスを連れて二人でパーティを抜け出してる!」
「フレイアさん……」
ぎゅっとフレイアさんの腕に力が入った。
きっと彼女ならそうしてくれる。
今の私ならそう確信できる。
「でもスイはそうしなかった。彼女が止めていればクラリスが死にそうになることもなかったのよ!? ピオニアスやルビアがクラリスをいじめていることを知っていたのなら、馬車のことだって怪しむべきだわ!」
それは――まったくもって、フレイアさんの言うとおりだ。
あんな場所まで馬車を呼び出して送り返すなんて、明らかに違和感がある。
おかしい。
私だってそう思ってた。
けど、それを誰も止めようとしなくて――
「きっとスイはこう思っていたんでしょう。馬車に乗った先で何が起きても、それはクラリスが成長するための試練だって」
「そんなの……そんないいものじゃありませんっ!」
「その通りだわ。過酷な訓練が待っているとわかった上で、教会に送り返そうとしたことだってそう。彼女は自分が恵まれている立場にいるという自覚もなく、善意でクラリスを追い詰めてきたの!」
「身勝手です……」
「私も心からそう思うわ。どうしてこんなかわいいクラリスにひどいことできるのかしら。クラリスは、相手を悪く思うような感情に蓋をしてしまうわ。その優しさを利用していたと言ってもいい!」
声を荒らげるフレイアさん。
たまに彼女は感情的になるけれど、そういうときは必ず、私の境遇に胸を痛めてくれている。
なんて優しい人なんだろう。
私なんかぜんぜん及ばない。
本当に……この人と一緒になって、よかった。
「スイの呪縛を解き放ちましょう、クラリス。私が味方よ、ずっと一緒にいるから、幼馴染だからって遠慮する必要はないの」
「……わかりました、フレイアさん」
「声に出して言うの、彼女に感じていた不満を。心の奥底に留めていた本当の気持ちを!」
言おう。
だってフレイアさんがここまで必死になってくれているんだから。
私が頑張らなくてどうするんだ。
まだ少し抵抗はある。
けどそれは不要なものだって、今日までさんざん教えられてきたから。
「スイちゃんは――自分の考えばかりを私に押し付けてっ、全然私の気持ちをわかってくれなくてっ! 優しくしてくれることもあったけど、そういう身勝手なところが嫌いっ! 大嫌いっ!」
ああ――また私の心は軽くなる。
スイちゃんのことだと特に。
本当に、私が背負っていた枷がどんどん消えていって、解放の喜びが全身を包み込む。
「よく言えたわね……偉いわクラリス。関わってきた時間が長いほど、そういうのって難しいものよ」
「フレイアさんがいてくれたからです。私の人生の中で、フレイアさんほど親身になって私に寄り添ってくれた人はいませんから。支えがあると、勇気が出せるんです!」
「貴女の人生にそこまで影響を及ぼせたなんて光栄ね。これからもずっと私に寄りかかってくれると嬉しいわ。クラリスの重みほど愛おしいものは無いから」
「はいっ! 私も……その、一生一緒にいたいぐらいの気持ちでいますから」
言ってから、『さすがに早すぎるよねぇ』と後悔する。
だって出会ってまだ数日だよ?
恋人になった翌日なのに、こんなプロポーズみたいな言葉なんて。
きっと笑われる。
けど――そういうとき、フレイアさんって意外と笑ったりしなくて。
ほら、今日だってそう。
いつの間にか私の体はぐるりと回って、ベッドの上に押し倒されていて。
気づけば、目の前に赤い瞳があった。
「本当に……ああ、もう本当にかわいすぎるのよ、クラリスはっ! どうしてそうまでして私を誘うの?」
フレイアさんの舌がぬるりと自らの唇を潤す。
彼女は理性で己を制御しながらも、捕食者の本能を抑えきれない様子だった。
「フレイアさん……」
「怖い?」
「その怖さに……期待してる自分がいます。だから、いい、ですよ」
何をされるのかは知らない。
だけど今の私は、何をされてもいいと思える。
「一つ、確認してもいいかしら」
「何でもどうぞ」
「聖女になる条件って――であることも含まれているの?」
耳元で囁かれた単語に、ぽっと私の体が火照る。
わざわざ聞かれるってことは……そういう、ことなんだ。
私は恥ずかしさに唇を噛む。
そして深呼吸をしてから、ゆっくりと頷いた。
「急に魔術が使えなくなった子が、真っ先に疑われる程度には……大事、みたいです」
「だったら聖女は今日までね。明日からは、私と同じ“骸炎使い”を名乗りなさい。いい?」
再び私はうなずくと、少し強引に唇が奪われた。
にゅるりと舌が滑り込んでくる。
体から力を抜いて、すべてを受け入れる。
その日――私は聖女を捨てた。
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名前:クラリス・アスティヴァム
種族:人間
性別:女
年齢:19
職業:骸炎使い
好きなもの:フレイアさん、フレイアさんとのスキンシップ
嫌いなもの:悪人、男の人
・ステータス
体力:54
魔力:582
器用:41
魅力:83
性向:50
・スキル
骸炎Lv.40
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