002 心に潜る
フレイアさんが案内したのは、木造の小さなアパートメントの一室だった。
壁に穴が空いていない時点で、スラムの中だと上等な棲み家だと思う。
中も掃除が行き届いていて、綺麗に片付いている。
家具は最低限しかなく、調度品の類もほとんど見当たらないため、“質素”という言葉がぴったりな部屋だ。
私が興味深く観察していると、フレイアさんは苦笑いを浮かべる。
「あまりじろじろ見られると恥ずかしいわ」
「あ、ごめんなさいっ」
「ふふ、謝るようなことではないんだけどね。ひとまずお茶を出すから、座って待ってて」
「気を遣わなくても……」
「貴女みたいな可愛い子にお茶も振る舞わなかったら、レディ失格よ」
フレイアさんはよくわからない理屈で、台所でお茶の準備を始めてしまった。
私は椅子にちょこんと座り、彼女を待つ。
目の前にティーカップが置かれる。
爽やかなハーブティの香りが、荒んだ心にじわりと染みて、軽く胸がきゅっとなった。
「大変だったわね。怪我はない?」
向かいの椅子に座った彼女が、相変わらず優しい声でそう尋ねる。
その声は、お茶以上に私の心にするりと入り込んで、フレイアさんに対する一切の疑念を奪い去っていった。
「平気です……ありがとうございました!」
頭を下げると、「んふふ」と楽しそうに彼女は笑った。
「間に合ってよかったわ。それより貴女、教会の聖女様でしょう? どうしてこんな場所にいたの」
「それは……私の未熟さが招いたことです」
言ってすぐに、たぶんフレイアさんが聞きたいのはそういうことではないだろう、と思った。
せっかく助けてくれた人にこんな言い方をするべきじゃないとは思うけど――フレイアさんは、きっと本当のことを言うと怒ってくれそうな気がしたから。
そんな甘えは許してはいけない。
「んー……初対面の私が言っても仕方ないでしょうけど、話したほうが楽になることもあるわよ」
「……ごめんなさい。本当に全部、私が悪いんです」
そう、結局は全て、私の実力不足が原因だから。
他の人に話すようなことじゃない。
本来は、助けを求めるようなことでも。
けれどつい、私の顔はうつむいてしまって――すると頭の上に、ぽんと温かな感触が乗せられる。
私はまた撫でられていた。
冷静に考えると恥ずかしい……けど、心地いい。
「悪い人に騙されて連れてこられたっていうのはわかったわ」
「そうじゃないんです! 本当の本当に――」
「スラムに女の子を放置する人間がまともなわけないでしょう。隠したって無駄よ、犯人を見つけたら私がぶん殴ってあげるわ」
……私はなんて浅いんだろう。
付け焼き刃の思いつきなんて、簡単に看過されてしまう。
「まあ、無理に聞くのはやめるわ。とりあえず今日は休みなさい。嫌なことがあった日は、食べて飲んで休む。それに限るわ」
「お金がありません」
「取るわけないでしょう。夕食は――教会暮らしってことは肉は食べないのよね」
「食事までいただくわけには!」
「私がごちそうしたいの」
「でしたら、せめて何か手伝えることを……どんな雑用でも構いません!」
フレイアさんは私に顔を近づけると、じぃっと瞳を見つめた。
「な、なんでしょう、か……」
真剣な眼差しは、まるで私の心の中を覗いているようだ。
それにしても――至近距離で見ると、改めてすごくキレイな人だ。
私の姿を写す紅色の瞳は、まるで宝石のよう。
すると、そんなフレイアさんが両手で私の頬をむにゅっと押しつぶした。
「にゃ、にゃんれひゅか?」
「あなたみたいに明らかに困ってる子が、自分で自分を責めてる姿って見ててとっても辛いのよ」
「ごめんにゃひゃい……」
「私のために休みなさい。ちゃんと食事も摂るの。お金のことなんて一切考える必要はないわ、いい?」
「……でも」
「“でも”は禁止」
「あぅ……」
「返事は?」
「ひゃい」
「よし、いい子ね」
彼女はふっと優しく微笑むと、またしてもぽんぽんと私の頭を軽く撫でて立ち上がった。
「買い物してくるわ。外は危ないから絶対に出ないように。窓から顔を出すのも控えた方がいいわね。あと、来客にも絶対出ないこと」
「本当に危険な場所なんですね」
「力があれば悪くない住心地よ。ただし、力が無い人間はすぐに死んじゃうけど」
そう言い残して、フレイアさんは外に出ていった。
一人残された私は、しばし扉をじっと見つめていたけど――「はぁ」と大きくため息をついて、テーブルに突っ伏す。
「どうして……私なんかにここまで優しくしてくれるんでしょうか……」
つい甘えてしまったけれど、あまりに謎多き女性だ。
スラムに住んでいることもそう。
疑う――というよりは、申しわけない気持ちで胸がいっぱいになる。
「何か、お返ししないと……」
きっとそれを口に出したら、また優しく怒られちゃうんだろうな。
それでも、彼女に報いたいと――そう思わずにはいられなかった。
◇◇◇
夕食はパンと、フレイアさんの作ったスープだった。
お世辞抜きでとても美味しいスープで、何度も何度も賞賛していると、彼女は顔を赤くして少し照れていた。
新鮮な表情に私の頬も緩む。
服装や仕草はとても色っぽいお姉さんだけど、いざ話してみると、とてもフレンドリーで接しやすい。
元々人見知りの傾向がある私でも、いつの間にかリラックスして話せる――そんな素敵な人だった。
食後はシャワーまで借りさせてもらった。
体を洗って部屋に戻ると、ネグリジェが用意してある。
フレイアさんは「サイズが合わないかもしれないけど」と申し訳無さそうに言った。
私は修道服のままで寝てよかったのに。
けれど、彼女の施しを断るのは失礼だ、と考えを変えて、ピンクのネグリジェを身にまとう。
生地が薄くて少し恥ずかしい。
一方でフレイアさんも赤色の、似たようなデザインのものを着ていたけど、恥じらいなんて無く堂々としていて――見惚れちゃうぐらいスタイルがいいからなのかな、なんてことを考える。
「こんなことなら、来客用の簡易ベッドぐらい用意しておくんだったわ」
同じベッドに二人、横になりながらフレイアさんが言う。
「知り合ったばかりの女とくっついて寝るなんて嫌よね」
「そんなことありませんっ! フレイアさんは……素敵な方ですから」
……私、なんだか少しズレたことを言っちゃった気がする。
けれど言ってから気づいても後の祭り。
フレイアさんにくすくすと笑われてしまった。
「クラリスちゃんみたいに可愛い女の子にそう言ってもらえると嬉しいわ」
「かっ、かわいいなんてそんなっ!」
「本気でそう思ってるわよ。だから余計に優しくしてしまうのよね」
そう言って、彼女は私の背中に腕を回し、抱き寄せられる。
なんだか指先の動きが艶めかしい。
私はくすぐったさを感じて、心臓がとくんと高鳴った。
「狭い……ですよね。わ、私、雑魚寝でよかったんですが。旅で慣れていますし」
「私が床で寝るのも考えたんだけどね、そんな思いをするぐらいなら、勇気を出して一緒に寝たほうがいいんじゃないかと思って」
「勇気……ですか?」
「初対面なのにここまで馴れ馴れしくしていいのかしらって、私だって考えてるわよ?」
「あ……そ、それは問題ありませんっ! むしろ、私の方がっ、こんなに優しくしてもらえていいのかな、って……」
「ふふふ、つまりお互いに考えすぎだったってことね。安心したわ」
フレイアさんは安心ついでと言わんばかりに、背中に回した手で後頭部を軽く撫でる。
確かに彼女はスキンシップが多い。
けど私も、それはまったく嫌だとは思わなかった。
むしろ――こうして人と触れ合うほど親しくした経験がさほど無いから、嬉しいぐらいで。
でも、まだ私のほうの疑問が解決していない。
助けられた身で聞いていいのかな……と少し不安になりながら、私はフレイアさんの顔を見て改めて問いかけた。
「あ、あの……それで、私に優しくしてくれるのは、どうして、なんでしょう」
「そんなのクラリスちゃんが可愛いから、以外に理由なんて無いわよ」
「へっ?」
「スラムにいるとね、どうしても心が荒んでいくのよ。そんなところに天使みたいな女の子が現れた」
「て、天使っ!?」
「そうよ、私には本当にそう見えてる。だからね、心のオアシスにしたいと思ったの」
「オアシス……ですか?」
想定外すぎて、オウム返ししかできなくなる私。
ど、どういう意味なんだろう。
ううん、言っている意味はわかる。
なんとなく、スラムっぽくない人間が現れたから、優しくしたくなった、ってことだよね。
だけど何でだろう。
フレイアさんの言い回しっていうか、声……なのかな、そういうのを聞いてると顔が熱くなって、心臓がバクバク鳴ってしまう。
「ねえクラリスちゃん、よかったら明日からもこの家に住まない?」
「ふぇっ!? い、いえ、さすがにそこまでは……」
「教会に戻るの?」
「はい……」
「一度は旅に出た聖女候補が教会に戻る。それって、普通にあることなのかしら」
「あまり、普通ではないと思います」
「教会は歓迎してくれる?」
「それは……その……私の未熟さが招いた結果ですから、それを正すためには、た、多少の厳しさぐらいは……」
「かわいそうに」
「へ……?」
フレイアさんはとても悲しそうな顔をして、私の頬に手を当てた。
「貴女の声には恐れが混ざっている、主からの折檻に怯える奴隷の声と同じよ。本当は帰りたくない、そう思っているんじゃないの?」
「それは……その……」
「スラムなんかに住みたくないって思ってるかもしれないけど、こう見えても私、それなりにお金はあるのよ。女一人ぐらいは守れるわ。今までよりずっと幸せな暮らしを保障してあげる」
「ち、違うんです……」
「どう違うの?」
「私は……聖女にならないと、いけないんです」
「神に報いるために?」
「違いますっ! これ以上、魔族に奪われる命を増やさないために、です」
そう、私にだって動機はある。
目標も。
だから、あんなにも辛くて苦しい訓練を乗り越えてこられたの。
もちろんスイちゃんの存在もあったけど、他人に寄りかかるだけで耐えられるものじゃない。
「魔族……魔獣を生み出し、人間に仇なす邪悪な存在、だったわね」
魔獣はいたるところに生息し、人々の生活を脅かす。
けれど彼らだって、元は普通の動物だったり、植物だったり、それ以外の物体だったものだ。
それらに邪悪な力を与え、怪物に変えた存在――それが魔族。
異世界からやってきたと言われる青い肌のその種族は、圧倒的な力をふるい、多くの人間を苦しめてきた。
私の家族も、その一部だ。
「両親と兄が殺されました。魔族は私の目の前で、笑いながらみんなの命を奪っていったんです。私だけ見逃されて屈辱でした。あのとき、私に誰かを守る力があればって……ずっとそう思ってきました。そしてようやく、その機会が巡ってきたんです!」
「それが聖女の才能ってことね」
「失われたものはもう戻りません。けれど聖女の力があれば、これから失われるかもしれない命を減らすことはできます。無力な、あのときの私と決別することができる……」
「そんな志があったなんて。知らずに口を挟んでしまってごめんなさい」
「そんなっ……私が弱いのは事実ですから」
かっこつけたことを言ってしまった。
本当は――まだ迷い続けているぐらい、教会に帰るのを恐れているくせに。
けれど私は聖女候補。
正しきを成すためにその道を選んだのなら、やはり教えを違えることは許されない。
だってそれは、今までの私の人生を否定することにもなるから。
……そこまで考えて、私はふと気づく。
結局のところ、それはくだらない“プライド”に過ぎないのではないか、と。
今まで頑張ってきたことが無駄だったと認めたくないから、傷を広げているだけなんじゃないか。
ああ、いけない。
そんなことを考え出すと、際限なく後ろ向きな考えが心の奥底から溢れ出してくる。
借り物の正論で、蓋をしないと。
「眠りの邪魔になるような話をしてしまったわね、体を休めないといけないのに」
「いえっ、フレイアさんが私のことを考えてくれているのは、本当に、嬉しいです」
「そう言ってくれると救われるわ……」
そう言うと、フレイアさんは私の頭を胸にきゅっと抱きかかえた。
大きな胸に、私の顔が埋もれる。
お、おっきい……そしてすごくやわらかい。
なんて、つい空気にそぐわない感想を抱いてしまうほど、それは衝撃的な感触だった。
甘い香りもする。
どきどきしているはずなのに、不思議と意識はまどろんで――私は急速に眠りに落ちて行く。
「なら、せめて今夜ぐらいは私に甘えてね」
言われるまでもなく、私は抜け出せそうになかった。
諦めた私は、むしろ自らフレイアさんの背中に腕を回して、抱きついたまま意識を手放す。
他人の香りなんて、普通は落ち着かないはずなのに。
どうしてこんなに胸がぽかぽかするんだろう。
でも――この香り。
確か、私、どこかで――
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名前:クラリス・アスティヴァム
種族:人間
性別:女
年齢:19
職業:聖女見習い
好きなもの:人助け
嫌いなもの:悪人、男の人
・ステータス
体力:46
魔力:81
器用:16
魅力:44
性向:100
・スキル
杖術Lv.3
回復魔術Lv.8
防御魔術Lv.8
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