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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

山の中腹で(ネット小説大賞版)

作者: 萩原稀有


そして、発砲音が鳴り響いた。


空気そのものが破裂したかのような、重く、とても乾いた音が、山の林に響き渡る。しかしそれもすぐに飲み込まれ、やがてまた静寂が横たわる。


銃口の先で、灰色の軍服の男が一人、(くずお)れた。


隅々が焼け焦げ、炭化して崩れた軍服の上では、まだ鮮やかな赤色の滲みが嫌に目立っていた。露出した右脚は、まるで重機にでも()し潰されたかのようで、原形を留めぬまでに破壊されていた。それは最早、傷付き、機能を失った肉袋に過ぎなかった。


その男の頭蓋から血が溢れ、枯れた地面に流れては染み込んでいく。


もう二度と、その男が動くことはない。



銃口が持ち上がった。


黒ずんだ鈍色の銃口は、それは同時に銃身であった。ただの金属の筒でしかない、しかし鉄パイプなどとはわけの違う重厚(おも)さを持つそれは、長年使い込まれたことが、そして大切に磨かれてきたことが一目で分かる。死屍累々の中で、それは鈍くて重い光沢を、いつもと変わらず放ち続けていた。


その銃身に沿うように伸びるのは、無駄な装飾も発砲者への配慮もない、滑らかで直線的な茶色の木製の銃床。その小銃は、引金や遊底槓桿(ハンドル)、照準器こそ金属製だが、それ以外の部分、つまり銃床は木製だった。これも銃身と同じく、人の手の脂が染み込んだ(まだら)が、それの年季の入りようを伺わせる。それと、一滴の絵の具を落としたように銃床に広がる、赤黒い血痕も。


小銃の槓桿に、白く小さい手が触れた。


銃という、純粋な暴力の道具には余りにも不釣り合いなその手が、慣れた手つきで槓桿を回し、力を込めて後ろに引く。(くす)んだ金色の空薬莢が宙を舞って地面に落ち、同じく地面に散らばる無数のそれらに紛れた。



それは、幼い少女だった。


歳は、まだ十二を超えたかどうかだろうか。女性としての成長など欠片も見られない、華奢で薄い体つき。その少女の儚げな印象は、少女が着る純白のワンピースによって、余計に強調されている。


しかし、両足に履いているのは、見紛うこともない軍靴。肩を超えて美しく流れる黒髪も、今は武骨な灰色のヘルメットで全ては見えない。両手で抱える大きな軍用小銃は、その少女に力を、唯の純粋な力を与えていた。


消え入るほど儚い幼さと、何も寄せ付けない純然たる力。


相反する二つを身に纏う少女は、折り重なった屍の中で、そこだけ現実から切り離されてしまったかのような異質さを放っている。


そして何よりも目につくのは、その二つの黒い瞳に浮かぶ、薄らとした涙と、欠片も揺れない光だった。



少女はそのまま遊底を戻さず、開いた薬室に右手の人差し指と中指を入れて、その下、未だ弾倉に入っている弾薬を押した。その反発力から、大まかな残弾数に見当をつける。指を抜いた少女は、金色の薬莢と、その中から銅色の頭だけを出して佇む弾頭を一瞥して、力強く槓桿を押し戻し、元の位置まで回転させた。


ガシャン、という、金属が擦れ、ぶつかり合う音が、死人だけの塹壕に虚しく響く。




そして、少女は歩き出した。












 

「私も戦えます! 分かるでしょう!?」



 土埃と硝煙の煙で視界が霞み、汗と泥と血の匂いが立ち込めた、蒸し暑い塹壕。遠くから鳴り響く帝国の重機関銃の重たい連射音と、自走砲や戦車が咆える轟音、そしてその合間を縫って反撃する王国軍の小銃の乾いた発砲音が響き渡る戦場に、てんで場違いな高くて可愛らしい声が混ざった。しかし、少女の声はあくまでも悲痛で、そしてとても真剣だった。



「殿下、どうか後ろに控えていて下さい。殿下の御身にまさかのことがあれば、私たちではどうとも出来ません」



 それに答えたのは、三十を越えたばかりという風貌の、すらりと良い体つきをした軍人だった。土に塗れた灰色の軍服を端から端まで着崩さずに身に纏い、右肩には肩紐をつけた小銃をひっかけている。軍人は所々ぬかるんだ塹壕に身を屈め、少女と目線を合わせて話していた。



「今は兵が足りないと申していたではありませんか! 私だって、依託射撃でなら小銃を撃てます! それぐらいの訓練は……」


「殿下、兵が足りないというのは、数人、数十人単位の話ではないのです。この国にいる全ての若者をかき集めても、やはり足りないでしょう。一人増えたところで、何も変わりません」



 少女の必死の申し出も、軍人の意思を揺り動かすには至らない。軍人はあくまでも冷静で、そして頑固だった。死と隣り合わせの戦場で、身を屈めて少女と話すその優しさを覆せるほど、少女の言葉は強く無かった。


 遠くで、くぐもった爆発音がした。爆風が塹壕の中に雪崩込み、少女の身体がぐらつく。軍人はそれを受け止めて、もう一度その場に立たせた。悲鳴は聞こえない。死者は何も語らず、負傷者は唸るばかりで、そして無傷の者に死者など気にする余裕はない。



「今の爆発音が聞こえたでしょう。帝国の新兵器だそうです。原理は不明ですが、何か特殊な砲で発射する榴弾で、広範囲に渡る人間を、膨大な熱量で焼き、爆風で圧死させています。今頃、我ら王国の研究部がその仕組みを分析しているでしょうが、未だ戦場に於いては具体的な対策が無いようです。塹壕の中に無神論者はいないとは、よく言ったものです」


「こちらの砲撃部隊はどうしたのですか! 砲撃地点が割り出せれば、その新兵器とやらの攻撃を止められ…」


「殿下」



 突然、軍人が少女の言葉を遮った。キッ、と軍人を睨んだ少女は、軍人の鋭い視線に、思わずたじろぐ。軍人の目は、微塵の揺れもなく、唯真っ直ぐに少女を見ていた。



「この陣地は、今や圧倒的な劣勢です。量でも質でも、帝国軍との軍事力の差は天と地ほどもあります。敵の歩兵は多くが機関銃を使い、自走砲の支援を受けながら、小銃弾を跳ね返す戦車で進撃してきます。対する我々にあるのは、火力で劣る旧式の鎖閂式小銃(ボルトアクションライフル)と小型迫撃砲、それとほんの僅かの砲撃部隊だけです。砲撃部隊の殆どは帝国の列車砲三門に、掩蔽壕やそこで待機していた戦車部隊諸共、一方的に破壊されました。一帯陣地の兵士も砲撃部隊の支援が無ければ壊滅するのは時間の問題です。誰から見ても、この戦争の勝敗は明らかでしょう」


「そっ…そんなこと、あってたまりますか!」


「えぇ。私もそう思います」



 軍人はそこで、少し困ったように微笑んだかに見えた。しかしそれは少女の気のせいだったのか、話を続け出した彼の表情からはもう読み取れない。



「ご存じの通り、我らが国王陛下——殿下の御父上が、同盟国である西の合衆国や共和国、北の連合皇国などに支援を打診しておりました。私が先日聞いた電信では、合衆国と連合皇国は支援を快諾し、既に連合軍を編成しているそうです。あと一週間もあれば、援軍が王国に到着するでしょう」


「ならば、今ここで兵を損耗しなくてもいいではないですか! 出来るだけ交戦を避け、戦線を下げて兵を温存すれば……」


「その判断は、誰が下すのですか?」


「…あっ……」



 少女は虚を突かれたように目を見開き、それからポロリと声を漏らした。


 軍人は今度こそ、間違いなく目を細めて微笑んだ。少し苦々しくではあったが。



「平和なことに、軍の上層部は要らぬ権力争いに明け暮れ、本当の戦乱の時に於いてまるで烏合の衆であります。どの将官も、この戦乱の指揮を執ることは出来ないでしょう。王国軍元帥である国王陛下は、今は王国などの諸国と交渉するのに手一杯で、自ら指揮は執れません」



 そこで軍人は、一息置いた。すぐ近くの兵士の小銃の銃声が、思い出したようにはっきり耳に入る。しかし賢しい少女には、この一拍はともかくにしても、その次の一言は恐らく不要だっただろう。



「ですが」


「…私なら、王国軍の指揮が、執れる…?」


「はい。ほんの一ヶ月前ではありますが、殿下は間違いなく王国軍準元帥に任命されております。十三歳と言う異例の若さで御着任なされたのは、偏に殿下のその手腕に他なりません」



 軍人は、少女の透き通った黒い瞳を見つめる。少女は軍人の、ほんの少し茶色がかった黒目から、目を逸らすことが出来なかった。身に覚えがあったからだ。忘れもしない二ヶ月半前、暴走した連合皇国の大規模武装集団がこの王国に攻め込んできた。その時、無能を呈した将軍に代わって迎撃部隊の指揮を執り、数倍もの敵を王国軍の損害無く返り討ちにしたのこそ、他ならぬ少女自身であった。


 近くで鳴り響いていたはずの銃声が、気付けば遠くに聞こえる。慌ただしく横を通り過ぎる兵士の足音も、何故か意識の表層までは登ってこなかった。



「たった数日でも、我ら王国は帝国に攻め落とされる可能性があるのです。それを連合軍の支援が来るまで持ちこたえさせられるのは、殿下、貴女様しかおりません。

 ですから、殿下。どうか、御身を一番にお考え下さい」



 軍人は、そこまで言って、そこから立ち上がった。対照に少女は、その場に呆然と立ち尽くしたまま、動きそうにない。


 戦線の惨状。帝国の新兵器。王国軍の窮地。連合軍という希望。そして、自らが持つ権限(ちから)


 王女として長くを王国と帝国の境の別荘で過ごしてきた少女は、あまりに多くを知りすぎて、まだ実感が追い付かずにいるのだった。


 だから、目の前の軍人が何をしようとしているのかにも気づかなかっった。



「な、何をするのですか!」


「お許しください、殿下。貴女様の御身をお守りするには、これしかないのです」



 軍人は少女を、まるで自分のバッグを抱えるかのように易々と抱え、そのまま塹壕を歩き出したのだ。少女は彼の腕の中で暴れるが、鍛え上げられ、鋼のように引き締まったその両腕の中では、俎板の鯉よろしく、無駄な抵抗でしかなかった。


 小銃を構え、塹壕から顔だけを出して発砲する兵士の後ろを、軍人は変わらぬ足取りで進んでいく。硝煙と土、それと男臭い汗の匂いが充満している塹壕の中は、少女にとって不快極まりないものであるはずだが、少女はそれに顔を顰めることもない。それよりも、頭上1mもない空間を、空気を切り裂いて飛び交う銃弾の音が、少女の恐怖と不安を煽り立てていた。


 目の前で、一人の兵士が撃たれた。


 兵士は体勢を崩し、塹壕内に組まれた足場から塹壕の底に落下する。右手に持つ小銃の銃口からは煙が漂い、それがほんの一瞬前に発砲されたことを伝えていた。彼の弾丸が相打ちで敵兵の身体を砕いたのか、それとも虚空の彼方に消えたのかは、恐らく神であっても知るまい。


 兵士の顔は無残に崩れ、左目が完全に抉り飛ばされていた。誰が言うまでもなく即死だろう。血に塗れた顔からは表情が窺えず、ただ塹壕の底の澱んだ泥に、溢れ出る鮮やか赤を加えるだけだ。それは、人が一人死に絶えたことを、否が応でも世界に知らしめていた。


 そしてその兵士の上を、軍人は悩みもせずに跨ぎ越える。それを見た少女は、その気丈な精神で以て、裏返りそうな胃をどうにか抑えつけた。


 そのまま軍人は歩を早め、緊迫した塹壕を進んでいく。







 

「交通路は敵の列車砲に砲撃されたのではないですか?」


「その通りで御座います、殿下。それにそもそも、交通路で下がる先の掩蔽壕がもう存在しません」


「ならば、何故交通路に向かうのです?」


「そこに『王族の繭』があるからで御座います」


「王族の…何と?」


「着いたら分かるかと存じます」



 軍人はそれ以上語らず、入り組んだ塹壕を小走りで駆け抜ける。銃弾は常に頭の上を飛び交い、時折より前線の塹壕に加えられた砲撃の音が聞こえてくる。この塹壕にまで砲撃が飛んでこないのは、運良く、未だ自走砲の射程ではここに届かず、列車砲では距離が近すぎるからだった。だが、直に敵の自走砲の射程に入るだろう。第一線が落ちるのは、時間の問題だった。


 三叉に分かれた交通路との交差点で、軍人はやっと足を止めた。その交差点では、一人の兵士が、何故か戦線に参加せずに、その場で仁王立ちになっていた。筋骨隆々で、厳つい身体つきをし、右手には明らかに狙撃用ではない散弾銃を持っている。



「私はリリア第一王女第一近衛小隊隊長、グレム・アルクス中尉。『王族の繭』の使用許可を求めたい」


「階級章を見せろ」



 軍人は左袖を出し、そこに刻まれた階級章を見せる。二本の並行な銀色線に、交差した小さな二本の剣が、王国軍の中尉を示す階級章だ。だが、彼の階級章は違う。二本の剣の代わりに縫い付けられているのは、端が広がった十字盾。この十字盾こそ、王族の身辺を守る精鋭たる近衛兵達が、誇りを以て身に付ける章だった。



「その少女が王女殿下である証拠は?」


「失礼ですが殿下、右の首元を」



 少女は恐る恐る首に手を当てて綺麗な黒髪を持ち上げ、首元を見せる。彼女の首元には、複雑精緻な紋様が黒く刻まれていた。厳つい兵士は右手を当てて覗き込み、十秒ほど眺めていたが、やがてその右手をゆっくりと離す。その動作には、何処か畏怖のようなものが混じっていた。



「間違いなく王女殿下だ。『王族の繭』の使用を許可する。ご無礼をお許しください、王女殿下」



 最後の一言は、少女に向けられた言葉だった。


 そして兵士は、傍のシャベルを使って、交差点の隅の土を掘り返し始める。



「どういうことですの?」


「『王族の繭』とは、まさに今の王女殿下のように、戦線から王族が動くことが出来なくなってしまった時に使用する、小型の防空壕(シェルター)のコードネームで御座います。怖気付いた兵士が逃げ込まないように、その存在を知っているのは各近衛小隊の隊長と、各陣地に配置された連隊の連隊長、それとそこを守る兵士の少数のみです」


「それを私に使えと?」


「中には一週間は耐えられる食糧と、換気装置や酸素ボンベ、それと幾つかの娯楽用品が設置されています。シェルターの強度は、自走砲の直撃を受けても無傷で済むほどです。気付かれることさえなければ、必ず戦線を生きて離脱出来るでしょう」


「…私は、使いません」


「殿下。お気持ちは分かりますが…」


「地表で果敢に兵士達が戦う中、私はぬくぬくとこの中で過ごせと言うのですか!」



 大声で、少女は叫んだ。それは悲鳴だった。自らの行いが、今軍人にやれと言われていることが、余りにも非情なことだと思った。少女の叫びは痛切で、その目に宿っているのは怒りだった。



「それこそが、殿下の成すべきことで御座います」



 しかしその目を前にしても、軍人が怯むことはない。彼の目は未だ、600mの狙撃を成功してのける狙撃手の銃口ほども揺れてはいなかった。


 無論、少女の怒りは治まらない。糾弾するような厳しい口調で、少女の口から刺々しい言葉が飛び出す。



「罪無き兵士が無意味に死ぬのを、地下で眺めていることが?」


「無礼を承知で申し上げますが、兵士は戦争に備えた人間です。(いず)れ戦火の元で死ぬことこそ、我ら軍人の使命であり、誇りであります。それに、殿下が生き残り、崩壊寸前の王国軍を自ら指揮執って下されば、私達の殉死も無意味ではなくなります」



 少女の烈火の如き追及も、彼は軍人らしからぬ慇懃な言葉で以て難なく躱す。その言葉で動揺したのは、軍人ではなく少女だった。



「まさか…中尉、まさかここでっ…!?」



 聡くあることを、機敏であることを常とされていた少女が、軍人の言葉の真意を見抜くことなど、とても容易いことだった。


 汗ばんだ軍人の男臭い匂いを、不意に少女は嗅ぎ込んだ。遠くに聞こえていた銃声が、耳元で鳴り響いた錯覚がする。



「敵の目的は、この陣地を崩壊させ、側面からの攻撃を先んじて封じることでしょう。進軍自体は鉄道線に沿うように、山の南を回って行うはずです。出来るだけこの陣地に敵を張り付かせ、進軍を遅らせなければ、殿下が王国軍の総司令部につく前に、首都に列車砲の射程が届いてしまいます」



 軍人は、少女の問いに答えてはいない。あくまで敵の進軍の分析と、執るべき戦略の意見を述べただけだ。だが、少女にとっては、それで充分だった。


 何かを堪えるように俯いて、少女は言葉を絞り出す。その両目に宿っていた怒りは、先ほどとはその色を変えていた。



「…許しません。そんなこと、許しませんよ、()()()!」


「殿下の命令に背くこと、どうかお許しください、()()()()



 軍人は恭しく、その場で頭を下げる。その目に宿る光は、しかしそれでも微塵も変わってはいなかった。そこでやっと、少女はその軍人の目の光の正体に気付く。


 信念。彼の目に宿っていたのは、未来永劫変わらぬ堅い信念だった。


 少女が息を吞んだ音は、銃声飛び交う戦場でありながら、やけにはっきりと鼓膜を揺らす。


 少女は少し、世界に光を見た気がした。泥に塗れ、染み込んだ血と煙る硝煙の匂いが立ち込める塹壕の中であっても、少女は確かに、何かの答えを掴んでいた。


 小さな顔が、ゆっくりと持ち上がる。年相応に幼いその顔は、この状況に相応しい恐怖を湛え、そして年齢など関係ない覚悟と決意を芽生えさせていた。



「…いいえ、許しませんよ、グレム。この後で、相応の罰を受けてもらいます」


「そのお言葉、確かにお守りすると誓いましょう」



 ようやく軍人が見せた笑顔は、何処か悪戯っ子の風貌を備えていた。その笑顔に合わせて、少女も微かに笑う。その笑顔は、戦場に咲いた一輪の花を思わせた。


 変わらず土を掘り進めていた兵士が、しばらくしてその手を止める。数mほど掘り進められた穴を覗けば、丸く分厚い鉄扉が、厳重な金庫か頑丈な独房を思わせる存在感を押し殺して、静かにその奥にあった。


 軍人は、肩にかけていた小銃を降ろし、少女に手渡した。軽く渡されたように見えるその小銃も、少女にとっては両手で抱えるのも精一杯の鉄の塊だ。どうにか小銃を抱え込んだ少女は、一度屈み込んでそれを両膝の上に乗せ、左手を排莢口に添えながら、右手で槓桿を回し、力を込めて後ろに引く。排莢された弾薬には、まだ銅色の弾頭がついたままだった。少女はそれを排莢口から薬室に押し込み、解放したままの遊底を槓桿を押し出して閉鎖する。槓桿を回して薬室を閉鎖したら、遊底後部の安全装置を捻って、安全位置に固定した。



「先ほどの言葉は嘘ではないようですね、殿下」


「重量が軽く、反動も小さい近衛兵専用の小銃だから可能なことです。それよりも、私に渡して良いのですか、グレム? まさか砲撃部隊に加わるつもりではないでしょう?」


「その小銃は、通常部隊用の軍用小銃に射程と威力で劣ります。この塹壕戦で使うには向かないでしょう。殿下が持っている方が、余程役に立ちます」



 そう言って軍人は、もう一度その場で屈み、少女に目線を合わせる。兵士は穴の中でシェルターの重い扉を開き、少女が中に入るのを待っていた。



「殿下、良くお聞きください。帝国が攻撃を開始した時、私は軍の上層部に殿下の逃走経路を確保するよう連絡を入れました。そして、つい先程その答えが届きました。連合皇国が、殿下の救出のために王国軍が国土を横断することを許可したそうです。救出部隊は今にもこの陣地の北に到着するでしょう。この戦闘は恐らくあと数時間で決着します。夜まで帝国がここの破壊活動に勤しむことはないはずです。夕方、日が暮れる直前に、シェルターを出て下山し、この山に沿って北に向かってください。そこに救出部隊を展開させました。徒歩でも精々二時間です。そこまで辿り着けば、殿下は救出され、次の朝には、王城で温かいスープを召し上がれるでしょう」



 軍人の指示を聞き漏らすまいと、少女は真剣に耳を傾ける。もう少女が、軍人の言葉に反対することはない。それには今の状況を理解しただけではない、何か他の理由があるようにも見えた。


 全てを聞き終えた少女が頷き、その口をほんの少し開いたその瞬間、地面が割れたかのような轟音が轟き、赤熱した衝撃波が容赦なく彼らを襲った。軍人は咄嗟に少女を庇い、半ば押し倒すようにして地に伏せる。ぱらぱらと土の塊が降ってきたが、幸運にも、内側から裂かれた鉄の破片が彼らの身体を襲うことはなかった。



「第一線が落ちていたようですね。敵の自走砲の射程内に入ったようです。ここもいつ砲撃されるか分かりません。殿下、急いでください」



 感動的な別れを告げる余裕はなかった。強張った顔で少女は頷き、土の穴の中に入っていく。折角のワンピースは土で汚れたが、そんなこともお構いなく少女はシェルターの扉をくぐった。すぐさま強面の兵士が重い扉を閉め、外側から扉を施錠する。



 薄暗いシェルターの中で、少女は孤独だった。シェルターは鈍い静けさに包まれていて、空気を取り入れる空調設備の音がやけに煩い。先程まで聞こえていたはずの銃声は、風呂場から聞く向かいの家の犬の遠吠えほども聞こえなかった。人と機械の熱気に晒されていた塹壕とは違い、シェルターの中は少し肌寒い。少女は古びた茶色の上着が掛かっているのを見つけ、ほんの少し躊躇してから、恐る恐る手に取った。それは言うまでもなく、少女の身体には大きすぎた。


 確かに食糧は多く、娯楽になりそうなものもある。食事は少女が想像していた味気のない食品とは違い、質素な食事程度の良いものだった。漬物や干物、乾物など、日持ちのいいものが多い。少女だけなら一週間どころか、一ヶ月は生き延びられるだろう。


 だが、少女はそのどれにも手を付けなかった。白いワンピースに付いた土だけ払ってから、ぶかぶかの上着を羽織って、シェルターの固い地面に座り込む。軍人から受け取った小銃を両膝に抱えて、ただただ時間が過ぎるのを待った。






 

 夕刻。


 気怠げな夕陽が最後の力で、荒れた地面を嘗め上げている。荒野に生えるのは枯れた色の背の低い草だけで、戦場となった土地は土が掘り返され、一帯禿山となっていた。涼しげで長閑な風が荒野を吹き抜け、さらさらと少ない草木を揺らす音だけが、その広大な世界に居座っている。それは静寂だった。ほんの数時間前、此処で幾つもの鋼鉄の怪物が咆哮していたことなど、欠片も伺えない、平穏な静寂だった。


 だが、その荒野の奥、山の峰に敷かれた一帯陣地の塹壕は、凄惨極まりない惨状だった。殆どが砲撃で破壊された塹壕の中では、幾人もの兵士が自らの血液で軍服を赤く染め、地面に折り重なっている。四肢の一部に永遠の別れを告げた者や、無惨に千切れて皮一枚繋がった者、果てには人間の形を留めない者すらあった。自走砲の砲撃でこれなのだから、列車砲という常軌を逸した化物の牙に掛かった、掩蔽壕近くの砲撃部隊や戦車部隊がどうなったかなど、想像するのさえ難しい。さらには、幾つかの屍は履帯に轢かれて骨まで砕け、裂けた筋肉や臓腑を曝け出していた。


 そんな幾多もの死者の眠る墓場となった塹壕の壁が、不意に少し崩れた。そして次の瞬間、そこが内側から崩壊する。土の中から這い出てきたのは、土に塗れた茶色の上着を纏い、片手に不釣り合いな銃を握った、小さな生き物だった。それは這い出て立ち上がり、泥塗れの上着を脱いで地面に置く。裾が少し汚れただけでまだ真っ白いワンピースは、この荒れ果てた世界とは違う、異世界のものに見えた。


 死屍累々に相応しいその惨状を目にし、鼻を衝く血と内臓の臭いを嗅いで、少女は胃から衝き上がってくるものを堪えた。その光景が現実だと理解出来るぐらいには、少女は大人だった。とはいえ、大の大人にすら心的外傷(トラウマ)を植え付けるこの惨状を見て、耐えられるべくもない。


 やがて少女は堪え切れずに、胃の中のものを全て地面に吐き出した。



 十数分後。どうにか嗚咽が治まった少女は、ゆらりとその場から立ち上がった。地面に置いたままにしていた小銃を抱え、ふらふらと、しかし倒れることなく歩き出す。足場に登って塹壕から這い出し、ゆっくりと下山を始めた。塹壕を越える時は、砲撃されて溝が崩れたところまで塹壕に沿って歩き、小さな盆地のようになった砲撃地点を慎重に下ってから昇るようにしていた。それを幾度か繰り返し、少女も慣れてきたところだった。


 砲撃地点を下り、塹壕の中に入る。少女はそのすぐ近くで、倒れている一人の軍人を見つけた。



「…グレム!」



 それは、長年少女の傍で護衛を務め、最も少女と心を通わせた軍人、グレム・アルクス中尉だった。


 少女は叫び、何とも構わず駆け寄る。うつ伏せで倒れ込んだ軍人の頭を持ち上げようとして、その重さに当惑した。それならせめて、うつ伏せにはならないようにと、その身体をひっくり返そうとする。しかし、一人の男性をひっくり返せるほどの筋力を、少女は持ち合わせていなかった。しかし、少女が幾らか悪戦苦闘していたお陰で、少女は軍人の変化に気付くことが出来た。


 彼の右手が、ピクリと痙攣した。


 まさか動くとは思っていなかった少女は、途端に動きを止めてしまう。それから慌てて顔を横にずらし、地面に膝をついて呼びかけた。



「グレム! グレム!? 聞こえているのでしょう!? グレム!」



 ワンピースが彼の身体から溢れる血で染まっても、少女は声をかけるのを辞めない。彼の肩を揺らし、耳元で声をかけ続けた。必死に少女は叫び続けた。


 そして、いつでも信念に忠実であった軍人は、その声に応えた。



「でん、か、……」



 たった一言。薄っすらと目を開いた軍人は、たった一言、そう言った。


 それだけで、少女は全てを察した。彼が最後まで、信念を貫き徹したこと。心の底から、少女を想ってくれていたこと。誓いを果たせなかったことを、悔いていること。そして今、地獄の入口で、耐えようもない苦痛に苛まれているということ。


 彼の服とその右足の状態を見て、少女は彼が何の攻撃を受けたのか理解した。帝国の新兵器だ。あれが彼の服を焼き、身体を圧し潰した。だが爆心地から遠かったが故に、彼は一思いに死ぬことが出来ず、意識を外界から逃避させることで、その地獄の責め苦から逃れたのだろう。しかし今、彼は少女の声で、またその苦痛に引き戻されている。


 これだけの外傷を負えば、仮に今すぐ手術を開始したとしても、現代の医療技術では治療し切ることは出来ない。


 何をしてあげるべきか、少女はちゃんと理解していた。



「これは、貴方への罰です。初めて私への誓いを破った、その罰ですからね」



 もう閉じてしまった茶色の双眼に向けて、少女は語りかける。返事こそ無くとも、彼がそれを聞いていることを、少女は何故か確信していた。見る見るうちに涙が溢れ出し、少女の頬を伝って地面に落ちる。だが、少女は鳴き声だけは押し殺した。最期に彼に与えたいのは、無力な自分の泣き顔ではなかった。



「ですから、貴方の全霊で享受なさい」



 溢れる涙で揺れる瞳を細めて、少女は笑った。


 小さな右手で額の泥を拭い、そこにゆっくりと顔を寄せる。



 そして、もう冷たくなりかけている軍人の額を、少女の可憐な唇がほんの少し、温めた。



 そのほんの数秒の間、世界は彼らのために止まっていた。




 それから少女は立ち上がり、右手で安全装置を外してから、ゆっくりと腕の中のそれを構える。人差し指の力だけでは足りず、指は中指との二本を掛けた。そして、ゆっくりと二本の指を絞り込む。反発は絞り込めば絞り込むほど強くなり、指にかかる負荷は増大した。それでも、少女は指を絞り込み続ける。


 そして、それの反発が限界にまで高まり、力が暴れて指から逃げ出そうとしだしたその瞬間、




 引き金が引かれた。


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