第3章24話 『ピトス』
——「俺に、君のことを教えてほしい」
潤の願いに、しかしピトスは拳を構える。
「わかりました」
しばし目を瞑って——ゆっくりと開いた目で潤を見据える。
「——戦いながら話しましょうか」
——これを話せば、あなたはきっと私に失望してくれるから。
——戦いのなかで、あなたが手を滑らせることを願いながら。
————戦いの火蓋は、切って落とされた。
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——ピトス。苗字の無いその少女は、幼年期の記憶というものを一切持っていなかった。
初めに自分を認識したのは、おそらく7、8歳の頃。正確な年齢は実のところわからない。
それ以前の記憶は、最初から何もなかったかのように抜け落ちている。もしかすると、そんなものは最初からなかったのかもしれない。
そのせいだろうか。彼女は、自分が一体何なのかわからずにいた。でも少なくとも、自分が人間だとは認識していない。自らに道具以上の価値は見出せなかった。
そこは、なんらかの研究機関だったのだろう。何を研究していたかなど彼女は知らないし、或いは研究などしていなかったのかもしれない。
毎日——時間を知る手段はほとんど無かったが、粗末な食事が2回出るたびに、何かしらの薬品を注射された。
全身がひどく痛むのは常のことで、それが注射による影響なのかさえもあやふやだった。思考はいつも霞がかかったようにぼやけていて、意識するのは決して慣れない痛みばかり。
数日に1度、彼女は四角い部屋に通される。そこで彼女は——仲間を屠る。
境遇を同じくする年端も行かない少年少女。年長年少入り混じった標的を打ち倒す。
彼女が毎日受けていた過酷な戦闘訓練の一環であったし、彼女達をふるいにかけるものでもあったのだろう。
その施設には腕の良い治癒魔法使いが居て、致命傷を負わない限りは死にはしなかった。標的を殺すまいとする彼女に、施設が殺しを無理強いしなかったのは彼女の心を壊さずに追い詰めるためだったのだろうか。
しかし、彼女に敗れた被験体は、二度と彼女の前に姿を見せることが無かった。彼らの生死は——わからない。
それが法を違えた施設だということを、彼女は理解していた。それがわかる程度の常識は彼女に与えられていた。
施設の外には安穏と人生を過ごし、自由を謳歌する人もいる、いや、むしろそれが大多数だと、知識としては知っているのに、自分はその大多数に含まれない。むしろ0.1パーセントにも満たない程の不遇な人間だろう。それを知っている。知らなければ良いのに、知っている。
それでも、外の人間を妬ましいと思ったことはなかった。実感がなかったのだ。
だから彼女が憧れたのは《英雄》だ。施設の中で唯一の娯楽だった本の中で語られる、正義の味方。その姿に、彼女は途方もない憧憬を抱いたのだ。
——その憧憬が打ち砕かれたのは、今から1年と半年前のこと。




