第3章5話 『徒花貉』
「あれ、チューリップがある」
花畑の中を通る道に足を踏み入れると、早速足元に咲くチューリップを発見した。
「けど、これ知らないな……」
しかし、その隣に植えられた花は俺の記憶にはない。開いた白い花弁に、繊細な紫色の線が入っている。とても美しい花だ。
立ち上がって辺りを見渡してみても、所々に見知った花があるが、知らない花もある。しかし大して奇抜な花はない。奇抜な花を屋敷の庭に植えるとも思えないので、当たり前と言えば当たり前だろう。
考えてもみれば、俺は別に花について詳しくはない。というか疎い。なんなら、道端でよく見かけるような身近な花の名前さえ知らないくらいなのだ。
「まあそりゃ、わからないよなぁ」
正直なところもともと大して期待もしていなかった。考察もほどほどに、花畑の中へと道を歩き出す。
ピンク、黄色、空色、薄紅色、橙色、紫紺、すみれ色、真紅、そして純白。色とりどりの花をぼんやりと眺めながら時間を潰す。特別花が好きなわけではない俺だが、この花畑には思わず見入ってしまうだけの魅力がある。
そうして何分歩いただろうか。不意に視界の端に違和感を抱いた。花畑の奥、土を盛って少し高さをつけられた部分。その上には花がびっしりと植わっている。天辺に植えられた派手な赤い花に目がとまる。違和感の正体を探して目を下に動かすが、特におかしなものは——
「——花が、埋もれてる……?」
盛られた土の下から、押し潰されるようにして青い花の一部が覗いている。まるで、つい最近花の上に無理やり土を放ったような、乱暴の痕跡。この美しい花畑の中にあって拭い去れない致命的な違和感がそこにあった。
——何か、見落としている気がする。
微かな胸騒ぎを感じて近寄り、踏み潰された花の側にしゃがみ込む。
視界を上に、違和感の正体を探す。
微かに、土が動いたような——
「がぁっ!?」
右足首が、切り裂かれている。
あまりの痛みに体勢を崩し、地面に転がる。
土が——いや、魔獣が俺に覆い被さるように飛びつき、喉笛を噛みちぎらんとする。
「お……らぁ!」
寸前、足場のない空中に躍り出た魔獣を払いのけ、低い姿勢をバネに距離をとる。
敵はアナグマを1回りも2回りも大きくし、極限まで凹凸を少なくしたような魔獣。全身に体毛は生えておらず、背中にはその代わりとでもいうように無数の花が根ざしている。
「擬態、か」
先程まで小さな山になっていたはずの場所には、長い時間踏み潰されていた不憫な花が残るのみ。極限まで引き寄せて、近づいた獲物に襲いかかる。水底に擬態して獲物を待つカレイのような狩りの仕方だ。そう考えれば、俺が初撃、足を負傷するだけで済んだのは寧ろ幸いか。
襲いかかる激痛を無視して、足を踏みしめる。
足の負傷は、肉が大きく切り裂かれた程度。骨には届いていないし、肉がめくれて欠損したりはしない。それで、我慢する。
少し前の俺なら、目に涙を浮かべて蹲っていただろう激痛だ。一般市民、それも高校生など、大抵は骨折か足を攣った程度の痛みしか経験していないものだ。痛みになど慣れるものではないし、慣れたならそれは人間として終わっている。
幾度も死など経験したところで、痛みに対して強くなったりはしない。
——それでも、弱い人間ではいられないのだ。俺はもう”一般市民”ではなくなった。祐希や、桑原さん。傷を負って尚戦い続ける先達を目の当たりにして、泣き叫んで守られるだけの人間でなどいられようか。
断じて否。そんな弱さ、捨ててしまえ。そんな醜い人間性、死んでしまえ。
他の人間にそんな酷な考えを押し付ける気などない。しかし今だけは、夜桜潤は自分の弱さを許さない。徹底的に糾弾し、自らを鼓舞しよう。それが俺の、生きる道なのだから。
さっき見た限りで、魔獣の動きは素早かった。屋敷まで、この傷ついた足では間に合わず、背後を晒した瞬間に食い殺されるだろう。近くに立て籠れるような建物も無い。
機会を窺う魔獣を睨み返して、初めての独力での戦闘に唾を飲み込んだ。




