エグバート王子の人形遊び
汚れを知らぬ陶器のような白肌に、くるくるとカールされた美しいばかりの金糸の髪、加えてターコイズブルーのいっそ造り物めいた瞳を持つ、エグバート王子付きの近侍の名を、フローチェ・テントといいました。
地方に拝領するテント家ーーー男爵位の家系に生まれ、宮廷へのぼった少女は、華奢な身体に小さな頭を持っており、彼女の綺麗に揃えられた爪と睫毛は第三王子殿下の命によりいつも最高の状態に保たれています。
フローチェは現国王の三男であるエグバート様が唯一お側に置いている女性で、城中の者は皆、彼女をエグバート王子の人形と呼びました。
潔癖のきらいがあり、あまり人を寄せ付けないエグバート王子がお側に控えさせるのですから、フローチェが一介の近侍であっても、寵愛を一身に受けておりますのは、城内では暗黙の了解であったのです。エグバート王子は国王の三人の息子の中でも最も美しい顔立ちだと評判で、彼のどこか退廃的な美貌がお遊びにも趣を与えていました。
・
「ショルシーナ妃殿下、ご起床のお時間でございます」
わたくしがお声がけすると、主はそっと頭を起こされました。
触れた瞬間に雪のように消えてしまいそうなトウヘッドの美しい髪が、はらりはらりとシーツに落ちる様は、意匠の凝った窓から差し込む陽光を受けて、どんな名画にも負けないほど惚れ惚れする光景です。
わたくしはかつて――――ほんの数年前の話ではありますが――――国内貴族のなかで最も美しく、気品に溢れ、当代随一の淑女として謳われたショルシーナ様にお仕えできることを心から誇りに思っています。
と、同時に、何故ショルシーナ様のようなお方が現在において辛酸を舐めることになっているのか、殊更に腹を立ててもおりました。
というのも、ショルシーナ様は現在の我が国の王族で唯一、お生まれが貴族――――勿論、王家と縁の深い公爵位の家系でありましたが、それでも貴賎結婚とならないぎりぎりの際どいお輿入れをなさいました。王族は普通、王族としか結婚を認めないものですので、ショルシーナ様の夫君、エグバート王子の二人の兄は他国から王族の姫君を娶られておりますし、現国王の弟や叔父にあたる方々も、いずれか直系とは言わずとも他国の王族の方と婚姻を結ばれておりました。王族と国内貴族との結婚は過去に前列がないわけではございませんが、珍しいのも事実で、そういうわけもあってショルシーナ様のお生まれが卑しいわけでなくとも、ショルシーナ様が王室という魑魅魍魎の世界で苦労なさることは当初のうちからわかりきっていたことでした。
だというのに、ショルシーナ様の夫、エグバート王子殿下は近侍であるフローチェを常にお側に置き、城内の者が異口同音に寵姫フローチェ、エグバート王子のお人形などと呼ぶことを諌めることもしません。そのうえ、ショルシーナ様の行動にむやみやたらに制限をかけようとなさるので、ショルシーナ様のお立場はますます弱くなるようでした。
「ショルシーナ妃殿下、本日は、午前に王太子妃付き主席女官デ・ロース伯爵夫人のお茶会に出席後、定例の昼のミサへ向かわれるご予定ですが、ここでお召替えのお時間を賜りたく存じます」
しかしながら、幸いにして、というのも忍びない話ではありますが、王太子妃殿下と、第二王子妃殿下の緩やかな、しかし確実な諍いのために、王太子妃殿下派閥へ組み込まれたショルシーナ様が宮廷にて完全に孤立されることはございませんでした。
大陸の列強国からお輿入れされた王太子妃殿下は、王妃と第二王子妃殿下が以前より我が国との親交が薄くない隣国からいらしたご親戚同士でいらしたので、やはり何かと苦労の多い方でした。
「昼のミサが終わりましたらお部屋にて午餐になります。その後、王太子妃殿下の母国より呼び寄せた外商が訪問の予定です。そして夕方から宮中で芝居の上演がございます。演目はモリエールの『守銭奴』のようです。本日はご観覧されますか?」
朝食を順序に従いお召しになりながら、ショルシーナ様は頷きました。国王が夕方開かれる『遊び』に、王族の方々は参加を強制されてはおりません。それでも儀礼的には出席されるものでした。すなわち、この肯定の返事としての頷きも、形式的なものです。
「晩餐はいつもの通り、夜の十時からを予定しております」
わたくしが予定を言い終わりますと、ショルシーナ様は手にしていたフォークをテーブルへ置かれ、朝食は終了致しました。
ショルシーナ様は、ショルシーナ様付き主席女官であるわたくしの贔屓目を差し引いても美しい方で、所作も素晴らしく良く、福祉にも多大な関心をお寄せになる慈悲深い妃殿下でした。決して夫に蔑ろにされるべき方ではありません。ショルシーナ様付きとなったのは彼女のお輿入れの際ですが、以来ずっとお側を守ってきたわたくしは、とうてい口外できることではございませんが、エグバート王子殿下に対する不信感を拭えませんでした。
ただ、エグバート王子は、表面上ではショルシーナ様に大変お気遣っておいでですし、公的な場においてショルシーナ様が真っ向から恥をかかされたことはありません。たとえエグバート王子がショルシーナ様にお会いになるときに侍女のフローチェを殆ど必ず伴うとしても、ショルシーナ様の御前でフローチェを優位に扱うこともございません。
常にフローチェを丁寧に扱ってはいましたが、そのようであったために、わたくしやショルシーナ様付きの者が、いいえ、この国の貴族であるために外国人のお妃様方よりショルシーナ様に肩入れする城内の女官たちも、表立ってエグバート王子のお人形遊びを非難できませんでした。
それになにより、ショルシーナ様はただの一度もご不満を漏らされたことも、またそのようなご様子を見せられたこともございません。わたくしどもはそのお姿に大変感銘を受けておりました。すなわち、王族の方の妃となるに伴って強いられる忍耐をお持ちであり、苦悩をちっとも表に出さないお姿です。
ショルシーナ様はこそ、王族となられるのに相応しい方でした。
・・・
「エグバート王子殿下が?」
「はい、こちらにいらっしゃるようです」
「殿下は本日、狩りのご予定では……?ああ、雨が降っているのですね」
王太子妃派閥のお茶会に顔を出されたショルシーナ様が午後、外商をエグバート王子並びに妃殿下が住まう城にお呼びになっていたときでした。
わたくしのもとへ侍女が耳打ちをしにやってきたのです。エグバート王子が昼間にもかかわらず―――通常殿方は昼間は外出されるか、政務を行われるかです―――ショルシーナ様の元へお越しになるという内容で、頻繁にあることではないのですが、何も騒ぎ立てるほど特別に珍しいことでもないのでお伝えすると、ショルシーナ様は抑揚なく頷き、外商を下がらせようとしました。
「いや、待て」
そこへやってきて、不躾にショルシーナ様のお声を遮られた声の主はエグバート王子でした。
「殿下」
「雨で狩りが中止になってね。ショルシーナが外商を呼んでいると聞いたから、一緒に興じようと駆け参じたのに、片付けさせないでくれ」
「まあ。そうでしたの」
ショルシーナ様はエグバート様が侍従と近衛を数名、それから近侍のフローチェを伴って来室されたのを見ると僅かに目を細められました。王子が女の近侍を伴って行動することは、しきたり通りであれば、珍しいことのはずです。そもそも女の近侍が例を見ないのですから、その類まれなる寵愛は推して知るべしでした。
しかしながらこの城内でエグバート王子に限っては、そのような光景にもう誰も驚くことはなくなっていました。
王子は真っ赤なルビーの首飾りを指さすと、
「王太子妃殿下が好んでつけてそうだ」
と、おっしゃり、ショルシーナ様を振りかえられます。それに対してショルシーナ様はそっと目を伏せ、緩やかに微笑みを浮かべました。
「はい、アラナ王太子妃殿下の伝手でこの者たちを呼び寄せたのです」
「聞いている。相変わらず仲が良い。王妃がやっかみそうな仲だね」
「そのようなことは……」
エグバート王子は侍従からルビーのふんだんに設らわれた、デコルテいっぱいを覆うであろう首飾りを受け取るとショルシーナ様のお側へ寄られます。
「先日も王妃殿下の孤児院訪問にご同行のお許しをいただき、お供させていただきました」
「ん?ああ。まあ王妃は何かにつけて末子の僕には甘いからそこまで気にせずとも良いよ。それより……」
エグバート王子はショルシーナ様の正面から彼女のデコルテに華奢な首飾りをあてがいました。
「君は本当に赤が似合わないな」
エグバート王子は侍従にネックレスを幾分かぞんざいに返し、まるで何か、仕方のないことのように笑いました。
けれどもショルシーナ様は、赤い色がお好きでした。
確かに、白とも銀とも言える髪や、氷のように透き通った瞳に、燃えるような赤い色はしっくりくる色ではありませんでしたが、決して似合わない色でもありませんでした。わたくしたちは、ショルシーナ様のお色遣いには常々感嘆の溜め息をもらしておりましたので、エグバート王子の文言には自然と眉間に皺が寄りそうになります。エグバート王子は公的な場で真っ向からショルシーナ様に恥をかかせることはなさいませんが、このように内輪のなかでは遠慮もなく、度々それに準ずるお言葉を口にしました。
しかも、エグバート王子は更にお言葉をおやめになりません。
「ルビーも王太子妃殿下の黒髪にはよくお似合いだけど。そうだな、あとはフローチェのような濃い金髪にもあうんじゃないか?」
「フローチェですか」
「ああ」
「……そうですね、殿下。フローチェ、おいでなさいな」
「はい」
ショルシーナ様は控えていたフローチェに微笑まれ、彼女を呼び寄せるとルビーのあしらわれた首飾りをフローチェにかけはじめました。その首飾りはエグバート王子がお手にとられたものとは別のもので、侍女や使用人一同、いえ外商までもが息を潜めてそれを眺めます。
「フローチェには可愛らしいデザインが本当に良く似合うわね」
幾通りかのデザインをおためしになったあと、ショルシーナ様はほっと息をもらすようにおっしゃいます。その艶やかなる様と言えば、その場の者すべてを虜にしてしまいそうなほどでした。
「今ためしたものすべて、フローチェへ贈ります。準備を」
「……妃殿下」
「気に入ってしまったの」
ショルシーナ様は時折このように、城にあがるには心もとないフローチェの財布事情を考慮なさるのか、彼女に物を買い与えていました。
あまり表情を表へ出される方ではありませんが、フローチェと対峙するときのショルシーナ様はよく笑っていらして、そのことにむしろわたくしなどは心が痛くなるのですが、エグバート王子はそれをご存じで、この場にフローチェを連れてきたのでしょうか。
エグバート王子は公的な場でこそ、ショルシーナ様を貶めたりする方ではありませんでしたが、このように内輪の中ですと度々それに準ずる行いをなさいました。ショルシーナ様はただの一度もご不満を漏らされたことはありませんが、流石にショルシーナ様に対する侮辱が過ぎるのではないかと思われました。にもかかわらずエグバート王子の侍従は彼をお諫めする素振りも見せません。
ショルシーナ様は振り返っておたずねになります。
「構いませんか?殿下」
「ショルシーナの好きにすればいい」
エグバート王子は部屋の椅子に腰かけて頷きました。
・・・
「雨がひどいな」
「近頃は天が気まぐれのようですねえ、陛下」
国王陛下がおっしゃいますと、王妃殿下が阿るようにお返事なさいました。これには一瞥を投げることもなく、陛下は思い出したかのようにエグバート王子へお声をかけました。
「エグバートは午後の狩りを中止したのだそうだな」
「はい、陛下」
王族の方が集う晩餐会は通常王妃の宮殿で行われます。
ショルシーナ様もお芝居をご覧になられたあと、そのままエグバート王子とともにこちらにむかわれ、末席に腰掛けられました。国王陛下のご兄弟や、従兄弟にあたる王族は別の宮殿に住んでいるため、晩餐は夜会でもない限り、陛下と王妃、三人の王子とその妃のみで時間をとりもたれました。
わたくしもショルシーナ様付き筆頭女官としてお部屋への入室を許されておりますので、壁際に立ち、他の女官たちに並びます。
そうして中のご様子を拝聴しておりますと、陛下のお声に返事されたエグバート王子に王太子殿下が視線をやりました。
「相変わらず人形遊びをやめないのだね、エグバート。午後はアラナが取り持った外商の品を一緒に見ていたんだろう?私がカードゲームに呼んだのに」
「ええ、まあ。カードゲームの気分ではなかったので」
エグバート王子は人のよさそうに微笑みます。
しかしそれを聞いてお食事の手を止められたのは王妃様です。そもそも王妃と王太子妃の緊張状態の原因は王太子と王妃の不仲にありました。
実の親子ではありましたが、決定的に政治への考え方が違うお二人は折り合いの悪さを隠そうとされません。王太子は若者らしく進歩的思想に憑りつかれていましたし、反対に王妃は保守的なうえに、選民思想を重たく患っておられました。
妻のお国を尊重する傾向にある王太子は、中立を貫くエグバート王子のことをショルシーナ様をだしにし、何かにつけて自陣へ引き込もうとなさるのです。
「外商?アラナが呼び寄せたのか?妾は聞いてないが」
グラスの炭酸水にお口をつけ、会話に割り入った王妃様はおっしゃいました。
それにお答えするのはアラナ王太子妃様です。
「王妃殿下のお耳にいれる前に、この国で生まれ育ったショルシーナに見てもらい、受け入れられるデザインか吟味してもらおうと思ったのです。ねえ、ショルシーナ」
「はい、そのようにお聞きしましたので、承りました」
パンを皿に置いたショルシーナ様は無表情で答えます。すると黙っていらした第二王子妃殿下―――すなわち王妃派の妃―――が、王妃様の方へ声をかけました。
「あらぁ、それならわたくしも入れてくれればよかったのに。何だか義姉さんと義妹から仲間はずれにされたようで寂しいですわ」
とはいえ、この程度の応酬は日常茶飯事なので使用人一同は誰一人表情を変えません。
ちくりと刺すような言葉は続きますが、家族の場とはいえ、ある種の政治空間でもありましたから仕方のないことでした。
「そうだ、エグバート、お前王都でデザイナーを集めていると聞いたが、何するつもりだ?」
とりわけ政治の得意でない第二王子が口を開きました。ショルシーナ様付きとして偏見に満ち満ちた目で第二王子殿下を評価させていただくならば、政治への関心のなさのために王妃様の傀儡のような女性と結婚せざる得なくなったお方です。
「半年もすればショルシーナと結婚して二年の節目なので、贈り物を作らせているのですよ、兄上」
エグバート王子は今度は特にナイフをテーブルに置くこともなく淡々と答えました。
反対にショルシーナ様が手を止めます。
「聞いておりません」
「言ってないから」
ショルシーナ様は、エグバート王子が特に話を続ける気のないことを感じ取られると、そっと目をふせました。シャンデリアの灯りに晒され、常より幾分かあたたかい色の髪が顔にそっとかかります。
一瞬の沈黙のあと、王妃様がショルシーナ様に声をかけました。
「ショルシーナ、あまり食が進んでいないようだが、体調が優れないのか?」
「いいえ……いえ、少し体が気怠い感じはあります」
「最近ショルシーナはあまり元気がないように見えるわねぇ。大事をとってもうお休みになったら?」
「しかし……」
第二王子妃が王妃に同調するとショルシーナ様は困惑したようにエグバート王子を見ました。その間に王妃がお隣の国王陛下に何かを囁くと、国王陛下はおっしゃいます。
「良い。退出を許可する」
そうして渋々といったようすでショルシーナ様がお席を離れられるとエグバート王子も食事を中断して軽く挨拶をし、それに続きました。
・・・
ショルシーナ様は御年一八歳になられます。わたくしはショルシーナ様より一つ年上でしたので、この国の社交界でのショルシーナ様の華々しいお話をずっと耳に挟んでいました。中・上流階級の者なら誰でも、ショルシーナ様に憧れたものでした。まだ他国へ嫁がれる前だった王女さえ、ショルシーナ様を倣って着飾っていたという話はあまりに有名でした。
銀の糸のようなトウヘッドの髪は、幼子の時こそ散見する髪色ですが、成長してなおその髪色を保っていられるのもなど殆どいません。なめらかで白い肌は、さらさらと輝き、潤沢なご実家の資金を惜しげもなく美に費やされた装いで、この国で芸術に通じている者ならば一度はショルシーナ様を扱った作品を遺しているだろうと名匠に言わしめるほど。
ですから、ショルシーナ様付きとしてお城からお声がけされたときは本当にうれしかったのです。代々騎士の家系に生まれたわたくしは、王家といういよいよ雲の上へいってしまわれるショルシーナ様との繋がりを求めてすぐにお話を受けました。
ショルシーナ様が、フローチェの存在によって、日々あのように辱められる様をそばで見ることになるとは、もちろん夢にも思っておりませんでした。
わたくしを含めたショルシーナ様の身の回りに携わらせていただく者にとっては、それがたとえ物語のように宮殿では珍しくない光景であったのだとしても、耐え難いことでした。
そのような日々のことです。
雨の強く降る音が聞こえていました。
「……フローチェ・テントが失踪した?」
ショルシーナ様、並びにエグバート王子の就寝の担当はわたくしではないので、賜った自室で夜半、眠ろうとしていた時でした。
控えめなノックでやってきた女官が言うには、第三王子付き侍女フローチェ・テントがいなくなったということなのです。
ただいなくなったのではなく、私室から高価なもの―――本日ショルシーナ様が買い与えた宝石類も―――服の一式と鞄ともどもいなくなったそうで、近侍と言いましても、彼女の場合行儀見習いのために城が預かっているという側面を持ちますから、使用人たちは大慌てで探しているものの、あいにくの土砂降りで足跡をたどるのは困難なようでした。お城としては良い状況ではありません。
けれどもわたくしは、薄ら暗い気持ちがあふれ出てくるのが止められませんでした。このようなことをしでかしたのですから、たとえフローチェが見つかってももう城にはいられないでしょう。どころか、淑女が家出など、王都にいることさえ困難だと思われます。つまり、もう二度とフローチェによってわたくしの主が貶められることがないのです。
エグバート王子に対して、胸のすく思いがあったことは否定できません。
しかしながらわたくしは冷静を装って、やってきた女官にショルシーナ様とエグバート王子に伝えるのは明日にするよう命じ、一度眠りにつきました。
翌朝、わたくしは興奮のためか眠った記憶があまりありませんでした。そのまま目を閉じて、開けたかのように。
そのまなこで、通常のようにショルシーナ様のご起床をお迎えしに参りますと、どうしてか、宮廷お抱えの医師の一行が寝室へお出ででした。お部屋の前の小さな人だかりに、朝から何事でしょうかと駆け寄りますと、なかは妙な緊張感とお祝いごとのないまぜになったような空気が漂い、室内の医師たちとエグバート王子、ショルシーナ様以外は足を踏み入れることを躊躇うのも無理はない様子でした。
筆頭女官のわたくしが入るほかにないと思い、入室させていただくと、今年一番の慶事を告げたのは室内にいたエグバート王子でした。
「まあ、ショルシーナ妃殿下がご懐妊ですか」
わたくしが申し上げますと、
「そのようです。どうりで体調が優れないことが続いたのね」
ショルシーナ様は不思議そうに腹部を撫でられました。
「これ以上ない慶事にございます」
以前より気づいていらしたエグバート王子が早朝に彼らを呼び寄せたようでした。なんでも、昨晩王妃様がショルシーナ様のご懐妊に気付かれたのだろうと、それは厄介であるから早急に結果を持ってくるようにと、少しばかりむちゃに見える命令をお遣わしになったとのだと、医師は言います。
「エグバート王子殿下の命で我々も先日より検査させていただいておりましたが、ようやく確信を持ってご懐妊をお伝え申し上げることができます」
医師の言葉にエグバート王子はショルシーナ様のお背中に手を置かれると、わたくしどもに向かって命じられました。
「というわけだから、ショルシーナは絶対安静にしておかなければならない。僕がいない時に妃をこの部屋から出さないでくれ。見張りも増やすから」
「殿下、それは些か……」
医師が驚いたような顔で口を開こうとすれば、エグバート王子まるで取り合わないといった様子でショルシーナ様の肩を抱き寄せました。
「残念ながらこの王宮は安全じゃない。ショルシーナのためでもあるんだ。いいね?」
「……はい、殿下」
ショルシーナ様が、ゆっくり顔をあげてエグバート王子へとお答えしますと、王子は笑みを深めてトウヘッドへとキスを落としました。
「この部屋はそんなに狭くはないし、生活するために必要なものなら何でも揃っている。
隣の書斎などは歩いても良いよ、ショルシーナ。走ったりしてはいけないが」
こういうとエグバート王子は午前の政務へ出かけられました。
酷なお話のようですが、今の国王の直系男子の三人の王子にはいまだに男児がおりません。王太子殿下は生まれたばかりのご長男を二年前に病気で亡くされ、第二王子妃両殿下のもとには二人の王女様しかいない今、我が国は基本的に男児が王位を継承するものですから、ショルシーナ様及びお腹の性別のわからぬ御子様が必ずしも安全だとは言えないのです。
アラナ王太子妃殿下は一度彼女の母国を良く思わない貴族の刺客によって流産も経験されていました。(もちろんその貴族は処刑を適用されましたが。)
もしもショルシーナ様が男児を出産された場合、その王子が王太子殿下の養子となっていつか王位を継承する日が来ないとも言い切れないのです。
エグバート王子の過度な保護も仕方のないところがありました。
そのような事情はございましたが、ご懐妊というすばらしい出来事に、フローチェの件をすっかり忘れたわたくしは、どこか心許なそうなショルシーナ様をお慰めすべく、ベッドの淵に立ち、彼女の手を握りました。
ショルシーナ様の手は、相変わらず、無機物のように冷たい手でした。
・・・
数か月が経っても、エグバート王子はショルシーナ様をあまり部屋から出さないように命じられたままでした。
暖かい季節は、日中は広く設計されたバルコニーに出たりはしていましたが、風の冷たくなった近頃ではそれもごく短い時間になり、ここ二か月は本格的に階下へ行かれましたこともございません。
ショルシーナ様はそれで、どんどん疲弊されてゆきました。お口数はますます減り、扉が開くたびに―――入ってこられるのはたいていエグバート王子ですが―――誰かを心から待っているような瞳を一瞬だけのぞかせ、また虚ろな目に戻られる。
わたくしはショルシーナ様がこのように良くないお心持ちでおられるのには、なにかご懐妊以外にも理由があるような気がしました。お部屋から出ることがかなわないことを、使用人らは不憫に思っていましたが、元来外に出かけてゆかれることの少なかったショルシーナ様です。わたくしにはどうしても主の心痛の所以は別のところにあるのではないかと勘繰ることを止めはできなかったのです。
とある昼下がりのことでした。ほんのり汗を滲ませて、昼寝をされていたショルシーナ様は、本当に珍しいことに寝言をこぼされました。
わたくしはおそらくショルシーナ様が寝言をおっしゃるのを聞くのは初めてでした。なんだか不思議な気持ちになって、布団をおかけし直すついでとばかりに、少しだけ聞き耳をたててしまいました。
そのことを、わたくしは今でも、後悔すべきなのか、わかりかねています。
「フローチェ……」
ショルシーナ様は確かにこうつぶやきました。わたくしはただ目を見開きました。
忌々しいあの娘は、いなくなってなお、主を苦しめていたのです。
ショルシーナ様にはお体に触るといけないので精神的に負担となりかねない事件の類は伏せておくことになっており、フローチェ失踪のことはご存知ないために、無理はなかったのかもしれません。毎日ショルシーナ様のもとに足を運ぶエグバート王子は当然失踪したとされるフローチェを連れてはいませんでしたが、それだけでお心もとないはずのショルシーナ様が安心などできるはずがなかったのです。
配慮の足りないわたくしの落ち度でもありました。
「フローチェ・テントの行方?」
「ええ、そう。あの、あの娘の行方を追うことは本当にできないのかしら」
わたくしは、騎士として王宮に仕えている弟のもとへ行き、尋ねました。弟はエグバート王子の近衛の一人であり、わたくしともども、エグバート王子の乳母のご実家との縁でここへやってきています。
「違和感があるの。あの女の捜索は、あまりにはやく打ち切られたと思わない?いつもお側に置いていた近侍をなくしたというのに、エグバート王子殿下は……」
「……」
「本当にいなくなったのかしら」
フローチェの捜索は開始二日も経たずに、人員不足という理由で中止されました。
いつもお側に置いていた、『お人形』をエグバート王子があっさり手放すのか、わたくしにはわかりかねます。
けれどもわたくしには、万が一にもフローチェが今なお幸せに暮らしているのかと思うと、我慢ならない気持ちでした。
もしもエグバート王子がフローチェを城から連れだし、どこかへかくまって、未だに逢瀬を重ねていたとしたら、部屋で衰弱する主があまりにも不憫でなりません。
わたくしの行き場のないやるせなさは憎悪となってフローチェへ向いていったのでした。
「姉さん。僕は、エグバート王子殿下に忠誠を捧げているのです。だから口を開くことのできないことがらもあります。けれど、エグバート王子殿下に対して、ことショルシーナ様に関することで疑いを持つ必要はないですよ」
心配する私をよそに弟は言いました。
弟のことを信用していないわけではありませんが、実際にショルシーナ様が苦しんでいるのに、素直に耳を傾けることはできませんでした。男の方には通じても、女にはとんと理解できかねるものごとはこの世に多くあるのです。
わたくしは一人で、フローチェの行方を追うことに致しました。
・・・
「やあ、あなたと直接お話をするのははじめてではないかな」
大きな机を挟んで、エグバート王子の威圧感は助長するようでした。
フローチェを探そうと決めて行動を起こしてから一週間も経たぬ日のことです。わたくしはエグバート王子に呼び出されていました。エグバート王子と二人で話すのははじめてでしたし、わたくしはこの執務室へ足を踏み入れたこともありませんでした。
「はい」
わたくしが至極慇懃な態度で返事申し上げると、エグバート王子はつまらなさそうに背もたれに沈みます。
「早速だが用件を伝えよう。フローチェ・テントについて嗅ぎ回るのは賢明ではないな」
「な、何故ですか」
なぜ王子に呼ばれたのか薄々わかっていましたが、それなりに足を消して探していたため、直球の物言いに狼狽します。エグバート王子は煩わしそうに手を二、三度振り、言います。
「ショルシーナの命令で探していたんだろうが、直にその必要はなくなる」
「ショルシーナ殿下の命ではごさいません!私の独断でございますので、どうか殿下には何のお咎めもございませぬようお願い申し上げます」
「ショルシーナに咎め?そんなことはしないよ」
エグバート王子は小首を傾げお答えになりました。安堵して、一息つきます。私の未熟で主が咎められることより苦しいことはありません。
けれどもわたくしはショルシーナ様のためならば、この身はどうなってもいいと思っていました。ですから捜索を打ち切るわけにはいきません。
「納得がいかないのです。あれだけフローチェをお連れになっていた王子殿下が、たった二日で彼女の捜索を打ち切ったことが」
私は意を決して顔をあげました。
「エグバート王子殿下は彼女の居場所をご存知なのではありませんか?」
そして、今でもそのお屋敷に通って、不貞を働かれているのではありませんか?暗にそういう意味を込めてお聞きすると、エグバート王子殿下はゆっくりと口角をあげられました。
「まあね」
「や、やはり!」
「あいつには、相応の末路を辿ってもらおうと思って」
末路という言葉に、私は違和を覚え、動きを止めました。
「相応の末路…ですか?」
「ああ、僕のショルシーナをたぶらかした者にふさわしいね」
エグバート王子は心底から忌々しそうに吐き捨てました。
「ショルシーナはあの忌々しき毒婦に心底執心していたから。ただ単に排除してやるのではとてもとても……僕の溜飲が下がらない」
エグバート王子は急に悲劇的な物語の主人公にでもなったかのような表情を浮かべました。わたくしには、彼が何を言っているのかよくわかりませんでした。反応のないわたくしを見て肩眉をあげたエグバート王子は、隠されているわけじゃないがと前置きして言い募ります。
「あの下賤なる売女は元々、ショルシーナが実家にいた頃の侍女でね。まったく腹の立つ話だが、ショルシーナはアレをこの城に連れて行けないという理由で……一度僕の求婚を断った」
嫁入りの際に実家の侍女は連れて行けないのがしきたりです。そのことをショルシーナは気に病まれたのでしょうか。
「だから僕があの女を引き取ってショルシーナが城で退屈しないようにしてあげたんだ。一日に何時間も人形遊びに興じてよいわけはないから、ちゃんと制限してあげたけどね」
エグバート王子の話が本当なら、フローチェはショルシーナ様に対する人質だったというのです。
「ショルシーナは少し特殊なんだ。彼女は母親から美しい人形として育てられた。母親が人形の人形として与えたのがフローチェ・テントだ。幼子なら皆クマのぬいぐるみなど一つはお気に入りを持ってるだろ?ショルシーナにとってはあの女がそれだった」
わたくしは息を飲みました。ショルシーナ様はよく、フローチェにドレスや小物を買い与えて笑っておられました。夫に顧みられず、苦しいお気持ちを見せることなく悠然と笑みをたたえるお姿だと思っていたのに、本心から楽しんでおられたというのでしょうか。ちょうど少女の人形遊びのように。
「でももう大丈夫。あの女は僕たちの子どもが生まれるまでの繋ぎに過ぎないんだ」
エグバート王子は一転して表情を綻ばせました。年のころは二十になるはずの王子とは思えぬ、幼子の無邪気さを孕んだ笑みでした。
「ど、どういうことでしょうか」
「ショルシーナのことは小さい頃から僕はよく知っているから。僕の妻は僕の子を何より可愛がるよ。女の子だといいな。ショルシーナとよく似た。男の子でもかわいいだろうけど王位争いに巻き込まれたらたまったものじゃないからな」
わたくしの存在など忘れたように一人で楽しく考えておられるエグバート王子が、わたくしには何か底知れぬ恐ろしい存在に思えました。
ふとエグバート王子の兄王子達が言っていた人形遊びという言葉を思い出しました。あれはフローチェではなく、まさしく、ショルシーナ様のことだったのでしょう。エグバート王子を止めない侍従達や、複雑そうな顔の弟、次々と脳裏に裏付けが思い浮かびます。そしてわたくしはなぜか、記憶の中のショルシーナ様の無機物のような手の冷たさが、掌から頭にまでのぼってくるように感じていました。