マフラーを巻いた猫
忘れるはずもない、遠い昔の記憶。
それは、今日と同じ雪が降り頻る日のことだった。
かなり寒い。辺り一面は白銀に染まっていて、雪化粧した実家を見るのも毎年恒例である。
この時期になると親戚同士で集まって、祖母に会いにいく。ミチコも実家に帰省して、大好きだった祖母に顔を見せにいくのだ。
幼い頃の記憶は、かなり曖昧。言ってしまえば、覚えていることはかなり少ない。それでも祖母との思い出は鮮明なのはどうしてだろうか。
祖母を亡くした日のことは特に──。
胸に刻まれた遠く苦い記憶。
あの日は祖母の容態が良くないからとお見舞いに行く予定だった。幼いミチコは、祖母から貰った手編みのマフラーを巻いて行った。
祖母の家に着くと何やら慌しい様子で、幼いミチコでも何か良くないことが起こっていることだけは理解出来た。不安に駆り立てられるその胸の内は、複雑な気持ちで気持ち悪くなってしまいそうだった。
当時のミチコは、祖母がどのような状況におかされているのか、はっきりとはわからなかったけれど、容態からして一刻の猶予もないことは一目瞭然であった。
そして、ミチコは突然強い衝動に駆られた。
どうしたら、祖母は、おばあちゃんは、元気になるのだろう?
ミチコは思い出す。祖母が育てていた花の名前を。
──雪待花
花言葉は希望。雪の下から押しのけて力強く咲く白い花。
まさに、今の祖母に必要なものであるとミチコは確信した。それからの行動は早かった。猫のようにするりと家を抜け出て、祖母の畑へ向かう。
白い吐息を吐きながら、頬を朱に染めて新雪に足跡を残していく。
道中でミチコは猫を見つけた。白い猫だ。そう思って近づいてみると雪まみれになった黒猫だった。
寒くて身動きも取れないのかな。ミチコは、か細い声で鳴く黒猫を抱き寄せて雪を払って自分のマフラーを黒猫に巻き付けた。
「猫さん、元気になった?」
「みゃあー、みゃあー」
「歩ける?」
「みゃゃあお!」
いけるよー! とでも言うようにミチコの瞳を覗き込む黒猫は、自ら腕の中から飛び出して駆け出した。
「待って! そっちじゃないよ!」
ミチコは黒猫を追いかけた。振り回されたといってもいい。
覚えの無い道までとうとう来てしまった。帰れない。どうしよう。
不安な心は、体を冷えさせる。雪がチラついてきた。風は肌を刺す。
黒猫がようやく止まった。ミチコは黒猫の傍に寄る。そこには、探していた雪待花が咲いていた。
一輪だけ貰うとミチコは帰ろうとする。気が付けば、黒猫は姿を消していた。帰り道は、自分の足跡を頼りにしていたが、雪が再び覆いかぶさって足跡は消えてしまっていた。
それから、ミチコは迷いながらも祖母の家に着いた。
しかし、待っていたのは息をしていない祖母と泣いている親族達だった。
結果的にミチコは祖母に別れを言うことも出来なかった。
その事に今でも後悔している。加えて大切にしていた祖母のマフラーまで無くしたわけだから、そりゃあ後悔のひとつくらいする。
あの後、黒猫を探してみたが見つからなかった。
今になっては夢だったかもしれないとさえ思える。
祖母への挨拶を終えてミチコは親戚らと歩いている。相変わらずこの地域は雪が積もっていて、歩く度に雪を踏みしめる音が鳴っている。
「みゃあぁぁお」
どこかで猫の鳴き声が聞こえた。
気が付くと目の前には白猫がいた。否、雪を被って白猫に見える黒猫であった。
ミチコの顔は驚愕の色に染る。なぜなら、黒猫はあの日と変わらず祖母のマフラーを付けていたからだ。
「嘘でしょ?! どういうことなの?」
ミチコは黒猫の後を追って一人になった。どうしても気になって仕方なかったからだ。
「みゃあお」
黒猫は足を止めた。そこは、昔祖母へ渡そうと思っていた雪待花の生えている場所だった。
突然、風が強くなって視界がホワイトアウトする。目を瞑って腕で顔を覆い隠して……気が付くと吹雪は止んでいた。
そして、目の前には小さな女の子が……。見覚えのある顔だ。
「みゃあぁぁぁ!(私じゃねーかー!)」
ミチコは悟った。これは夢だと。しかも自分は黒猫になっているらしかった。
しかし、もはや夢でもなんでもいいから祖母に会いに行こうと切り替えた。
幼いミチコを案内するように走った。口に雪待花をくわえて。
祖母の家に着いた。本当ならば、間に合わずに祖母と永遠の別れをすることになったのだが、どうやらまだその時が来ていないらしい。
家に上がり込んだ黒猫のミチコと幼いミチコは、祖母の元へ駆け寄った。
家族や親戚が驚く中で、祖母はそっと目を開いて二人を見た。
「おばあちゃん! これ好きな花! 元気になる?」
「……元気でるよ」
優しい眼差しと声音がより一層、ミチコの胸を打った。もう時間が無いことは明らかだった。
「ミチコ。大きくなったね。いい人でもできたのかい?」
祖母は突然、黒猫のミチコへ視線を向けてそう言った。
「ちゃんと捕まえないと逃げられても知らないよ」
ミチコは気が動転していた。言葉も出なかった。
「戻りなさい。あなたの居場所へ」
祖母のその言葉で、ミチコは意識を失った。
「ねぇー、お母さーん! 起きてー! 絵本読んでー!」
チカは一冊の絵本を胸に抱きしめて、母親に駆け寄るとその膝元に座った。絵本を母親に渡し、せがむように上目遣いで何度もお願いする。
「んー? ちーは、ホントこの本好きだねー?」
「うん! だって面白いもん!」
「どんなところが面白いの?」
「んーとね、黒猫さんが女の子とおばあちゃんのお見舞いに行くところとか女の子が黒猫さんになっちゃうところ! 他にもいっぱい!」
チカは興奮したように身体を揺らしながら、はやくはやく! と急かす。
そんなチカに母親は微笑みながら、自分と同じ色素の薄い麻栗色の絹糸のような髪を手でとかして頭を撫でる。
「おかーさん、どーしたの?」
母親は少しだけ考える素振りをしていた。俯いて目を閉じている。
「んーん、なんでもないよ。じゃあ、読むよ」
何度読んだかも定かではない、その絵本の表紙を開いた。
『マフラーを巻いた猫』