1.傘の置き引き
ここにある復讐はやろうと思えばできると思いますが、多くの物が危険ですので真似はしないでください。
その日は朝から鈍色の空だった。そんな曇天の空を横切る一人の影が。
「……雨が降って来た。」
その影は空を駆けながら嫋やかな手を前に出し、雨の雫を受ける。動きを止めたその姿はまさに女神と見紛うばかりの美しさだ。
蜂蜜色の緩いウェーブのかかった長い髪、深く、澄んだ静かな海のような碧眼。整った顔立ちは理知的な雰囲気を漂わせつつ、しなやかな肢体をプラチナに金の刺繍が入ったぺプロスという古代ギリシアの女性の服装で吐出させており、息を吞むほど扇情的に見える。
そんな彼女は振って来た雨に対して溜息をつくと指を弾いて一切の降り注ぐ雨を持続的に一定距離から弾くように変えた。
「ふぅ。……特にすることもないけど……おや?」
そんな彼女はふと強い思念を感じて空のある場所で止まり、その声に意識を軽く向けてみた。
(……傘を、置き引きされたんだ……ふーん。毎回毎回盗られて神様を恨むのねぇ……神を悪し様に言うことは私の神罰の対象なんですけど、まぁここは日本だから見逃しますか。)
少し、傲慢だな……嫌だな。などと感じた彼女がふと地上を見るとある地上の建物の一つに降って来た雨を見て何か呟いている茶髪の、若い男が居た。
「……意の業が、悪く出てるなぁ……そろそろ、口も……そして、身も……」
地上で仕方ないと呟きつつ誰かのビニール傘に手を出したその若い男を見て彼女は笑うと呟いた。
「罪には罰を。まぁ、少しムカつきますが被害者の恨みの声を聞いたので動きますか……本来の私の仕事でも管轄でもないので……適当に。日本の祟り神の方々ちょっと入らせてもらいますね……復讐の女神、ネメシスの名において命じます。」
彼女はそう言って降り注ぐ雨と共に何かを降らせた。
「ッチ……あー雨とかやってらんねーわ……」
この男、ギターのピックが欠けてしまって買いに来たのだが傘を持って来ていなかった。
「しゃーね。これ使うか……」
濡れるのはごめんとばかりに彼は手近にあったビニール傘を手に取りそれを開く。バネ式のそれは勢いよく持ち手に掛けられていた何かの被膜を引き剥がした。
それに気付くこともなく彼は傘が開いたことを軽く確認して持ち替え、それを差して外へと出て行った。
「うー寒、さみ……って、え?」
しばらく歩き、傘の位置をずらしたいと思った時に彼は異変に気付く。
「んっだこれ!?」
手が全く開かないのだ。それも、微動だにしない。思わず叫んだ彼は周囲から白い目で見られるが彼はそれどころではない。
「瞬接かよ! ざっけんな! オイ、これの持ち主死ね! くっそ、文句言ってやる……」
そこまで言って彼は自分がこの傘を盗んだことを思い出し、強く出れないことに気付く。その後、彼はぐちぐち言いつつも帰途に就くことしかできなかった。
「クスクス……反省しないなぁ……悪い子には後で更なるお仕置きね……? まぁ、それより他の所でも傘を盗んでる人がいるみたい……術に引っ掛かってるわ……」
復讐の女神、ネメシスは茶髪の男の醜態を見て笑いながら別の場所へと視線を向ける。
「盗みはダメだよ? くすくす……」
その視線の先には金髪に染めた若い女性がいた。
「あー……降って来ちゃったか……」
金髪の女性、20代前半の彼女は書店の屋根のある場所から外へと手を伸ばし、手に当たる冷たい雫を感じながら嫌そうにつぶやいた。
「そろそろ時間だからなぁ……今日の合コン、写メ見る限りじゃいい人ばっかりだったから折角気合入れたメイクして早目に来たのに、濡れるとか……」
そう言いつつふと目をやると傘立てに一本の黒い傘があった。それは100円均一に売ってありそうな安っぽさを感じさせるが、この雨を防ぐには十分な力を持っている。
「……店の中に誰もいなかったよね……さっきまで降ってなかったから誰か忘れて帰ったかな……?」
彼女は少しその場で葛藤し、逡巡する。
「……まぁ、いいよね? これくらい……」
そして彼女は傘を手に取り、屋根の外へ出ながら傘を開き、勢いよくそれを差す。
瞬間、小さな黒い何かが大量に降って来た。
「へっ!?」
思考がフリーズする。しかし、その黒い何かは止まらず、動き始める。彼女はそれを認識した。
「いやぁぁぁあぁあぁぁあっ!」
降って来たのは夥しい数の虫だった。羽蟻のような普通に紛れ込んでいそうな虫からムカデなどの多足類からミミズのような虫まで揃っているそれが彼女に降り注いだのだ。
「こ、無理、やだ、やめて……」
単語しか喋ることのできなかった彼女は何かが背筋を這う感触を得て、思わず失禁し、その日の合コンには行くことが出来なかった。
「……この町は傘を持って行く人が多いねぇ……ま、あの子に関しては……雨の日だったから漏らしたことを誤魔化せてよかったでしょ。慈悲の心だよね。」
ネメシスはクスクス笑いながらまた別の所に目を向ける。今度は学生のグループのようだ。
「……赤信号、皆で渡れば怖くない……か。そういうの良くないよねー……」
愉しげに笑う3人。男1人に女2名を冷めた目で見てネメシスはそう言った。
「あー教科書濡れるのヤだし、この傘パクろ。」
「ギャハハ、マジ由香里ゆーとーせーじゃん! あーしは濡れるの嫌だから持ってこ。」
「サイテーだなお前ら。ま、俺も持ってくけど。傘は天下の回り物ってね。皆傘なんて盗むもんだし、俺だけじゃねえだろ。こんなとこに置いとく方がわりぃ!」
学校帰りの3人、彼らは買い食いの為にコンビニによって中華まんを買い、外に出て雨であることを知ると手近の傘を適当に持って行った。
そして、それを差すとその傘の表面が濡れ、文字が出て来始める。
女生徒の一人には淫猥な言葉を大きく書き上げ、売春をしている旨を描いた文言が。
もう一人には犯罪声明が具体的に書かれた文言が。
そして男の持っている傘には同性に虐められることだけが生きがいと言う趣旨の文言が。
それぞれ、綺麗に見えていた。
そして彼らはそれに気付くことなく自宅まで帰って行ったのだった。
「さて、今日はこの辺で終わりますか……最後の3人にはストーキングさせた人たちがいるけどどんな関係になるかなぁ……」
ネメシスはそう言って笑う。
「罪には罰を。本日はここまでです。」
そう言い残し、彼女は日本から姿を消した。