プロローグ そして妖精が幕を開く
かろうじて映ったのは閃光だった。
人間の動体視力では追い切れない、超高速をもって繰り出す矢の数は三本。まるで吸い込まれるように俺へ目掛け飛んで来る。その狙いの正確さは身に染みて理解でき、今から躱そうとしたところで間に合いはしないだろう。そもそも俺は、この時ようやく相手の手から矢が消えたことに気付けたところだった。
きっと一瞬後は上半身に風穴が空き、辺りへ血の柱を吹き出しながら俺は石造りの地面に倒れ伏しているだろう。
そう考えた瞬間、過去の思い出がフラッシュバックのように現れては消え、次々と頭の中を駆け巡っていった。ああ、これが走馬灯ってやつか。
瞬きよりもさらに短い刹那、とうとう矢の切っ先が俺の身体へ届き―――
「フン。何を勝手に終わろうとしている」
その声は誰で、一体どこから聞こえたものだったか。
直前まで空気を切り裂きながら飛翔していた矢は、現在俺の鼻先で完全に停止している。ゆっくり見上げると、ゾッとするほど白い小さな手が三本の矢を鷲掴みにしていた。
――信じられない。音速を上回るスピードで放たれた矢を素手で、それもこんな子供の細い指で掴み取るなど、目の前の人間の起こした仕業とは到底思えない。
風が吹き、視界の端で花弁のようなスカートがフワリと靡く。四葉の葉を思わせる意匠が施された白の豪奢なドレスが見えた。その衣でラッピングするように包まれているのは、白磁の彫像のような美しい肌をもつ華奢な女の子。
ふと、背中を向けていたドレスの少女がクルリと振り向き目が合ってしまう。
整った鼻筋。瑞々しい唇。顔の造形一つ一つがこの世のものとは思えないほどの完成度で、その姿は俺から一気に現実感を喪失させた。
可憐であり、蠱惑的であり、神々しくあり、美しさもあり、そして―――どこか儚げにも見える少女は、その透き通る翡翠の瞳で射抜くように俺を凝視する。
さっき死の恐怖を存分に味わったばかりだが、今はこの少女に見つめられるほうがずっと恐ろしいことのように感じてしまう。
少女はニヤリと不気味な笑みを浮かべ、静かに俺へ宣告した。
「さあ、立ち上がれ小僧。契約は完了した。これからは貴様の命、貴様の未来、貴様の心に至るまで全てが我の所有物だ。思う存分使い果たしてやるから、泣いて喜んで感謝しながら付いて来るがよい」
―――――僅かに差し込む陽光が、新たな始まりの到来を告げていく。
そう、この出会いが全ての始まりにして終わり。
俺は「妖精」に命を救われ、そして同時に、残りの人生を丸っきり奪い取られてしまったのだ。