12話 ご主人様はじめました
どぼん。
そんな音と共に、音が聞こえなくなる。息は吸わなくても大丈夫なのだと自分に言い聞かせながら、川の流れのままに流された。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
水の中は学校のプール並みにきれいで、視界がないわけじゃない。その中で見渡していると、流されている人を発見した。
平泳ぎのように両手を動かしてそちらへ向かう。流されている人はしがみ付いてくるから危険だと兄に教えられた事があるので、できたら気を失っていてほしいところだけど、死んでも人は気を失うことができるのだろうか?
今のところ私は、急速落下を体験しても気を失う事が出来なかったので、期待は薄い気がする。でもとりあえず水の中で窒息しないのだから、しばらく落ち着くまでしがみつかれても問題はない。落ち着いたところで陸へ向かおうと手を伸ばした。
あと少し。
お願いだから、手を伸ばすなり、自分でもがんばってよ。そう思うが、流されている人は一向に反応を見せない。
まるで人形のように虚ろだ。
それでも人形ではないと知ってしまっているから、無視なんてできない。
あと……ちょっと。
再度、手で水をかき、私は流されている人の腕を捉えた。
『ごめんなさい』
へ?
頭の中に、唐突に女のの声が流れる。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。勝手に死んでしまってごめんなさい。でも苦しいくて――』
何これ。
声が聞こえるわけではなさそうだ。だって、女の声以外、私の耳には音が届いていないのだから。しかも同時に、すごく切羽詰ったような、悲しい気持ちが湧き上がった。泣きそうな声を聴いていると、なんだか自分まで泣きたい気分になってくる。
『私が悪いのかな。どうして、どうして、どうして?どうしたらいいの?助けて、助けて』
張り裂けそうなぐらい苦しい。
でも何となく、この感情が自分のものではないと分かる。だって、私はこんなに苦しくなったことなんてないし、今の状況でそんな気分にはなりようがない。
助けてほしいって、どう助けてほしいんだろう?
そう思うと、脳裏に知らない学校の映像が流れる。相変わらず水の中の光景は変わっていないので、思い出を思い返す時のよう感じだ。
そこで見えたのは、ヒソヒソと話す人だった。何を言っているのかは分からない。それでもチラッとこちらを見る仕草など、ああ、私の事を話しているんだろうなと分かる。
苦痛に感じる休み時間。
まだ居場所がある授業中の方がマシだ。一人ぼっちで、どこで時間を潰せばいいのかも分からない。教室でお弁当を食べればいいのだろうけれど、それを見た人が、今度は私に対して何を言うのだろうと思うと、怖くてそれすらできない。
ふらふらとさまよって、ようやく誰もいない廊下で息をつく。この間も、誰かが私の事を話しているかもしれない。そう思うと、ご飯も喉を通らなかった。
学校に行きたくない。
こんなはずじゃなかった。でも、どうしていいのか分からない。
お母さんにも恥ずかしくて相談できない。助けて欲しい。もう苦しいよ。助けて。もう何も考えたくない。
最後に見たのはアスファルト。青空を見上げた後にそのまま――。
思い浮かぶ記憶の欠片。
辛い事ばかりが渦巻いて、何もかもが絶望的に感じる。世界はそこだけで、それ以外の世界があるなんて思いつきもしない。それぐらい学校だけに囚われた世界。
……この女の子の記憶なのだろうか?
辛くて疲れてしまった心。
逃げ出すこともできず、でもどうしていいのかも分からず、傷ついてもそのままにするしかない。
自分の気持ちとの境目がとても狭くて、辛いという気持ちが私の中でも渦巻く。とても寂しくて、でもその思いをぶつける場所がない。
でも私はこの世が悲しいだけじゃないだけじゃない事を知っている。
世界はそこだけじゃない。
私にすべて苦しい事が流れてきたのだから、逆に私からも気持ちの逆流をさせられないかと試してみる。この女の子と私は、今とても近くにいるのだ。
家族とテレビの前で馬鹿みたいに笑う。ペットと一緒に散歩に出かける。友人と学校帰りに寄り道して遊ぶ。兄妹と喧嘩しながらも最終的に仲直りして、いつも通り。そんな何気ない日常。
きっとこの女の子だって、生まれてからずっと辛い事ばかりだったわけではないのだ。今は辛かったかもしれないけれど、楽しかった記憶もあるはず。
思い出して欲しい。
私は岸に上がらなければいけないということも忘れ、女の子を抱きしめた。
これはいつも家族がしてくれた事。悲しい時は一緒にいてくれた。悔しい時はそっとしてくれた後で、好きな食べ物を用意してくれた。
独りでなければ、大丈夫。何度だって、起き上がれる――。
◇◆◇◆◇◆◇
「冬夜っ!」
「……あれ?」
いつの間にか目を閉じていたらしく、目を開けると青空と左鬼の顔がドアップで見えた。
相変わらず、人形みたいに整った顔立ちだ。これだけ近いのに、ヒゲはなくてツルツルだし、シミ一つない。白磁のような肌で、きめが細かく、本当に女の敵のような外見である。
「大丈夫ですか?どこか、痛いところは?」
「胸が痛いぐらいで、特には」
「胸?打ったんですか?どこです?」
「いや、なんというか劣等感的にって、触るな、アホッ!!」
左鬼が触わろうとして、私はその手をピシャリと叩いた。確かにささやかで、あるのかないのか微妙なサイズだけどさ。一応女の子なので、恥じらいはある。
「えっ、でもどこかぶつけていたら」
「いやいや。大丈夫だから。そもそも、死んでるんだから怪我はしないんじゃないの?」
「もちろん大丈夫ですが、怪我をしたと思い込むと、それ相当のダメージがありますし、魂だって傷を負うことはありますから」
「ふーん」
そういうものなのか。
確かに病気は気からというし、認識で色々魂の形が変わるこの状態だと、怪我をしたと思い込んだら色々辛そうだ。治すにも、自分が治ったと思い込むしかないのだし。
「それにしても無事で良かったです。探したんですよ」
「それは本当にごめんなさい」
さっさと左鬼の所へ戻っていれば良かったのに色々寄り道をしてしまった。左鬼も遭難すると大変だと言っていたので、私がいなくなって焦ったことだろう。
「いいんです。冬夜が無事ならそれで」
そう言って、左鬼は私の手をガシッとつかみ、長いまつげで縁どられた目で私を見つめた。
「私が無事ならそれでいいって、忠犬かよ」
ちょっとキラキラしすぎで眩しいです。
でも左鬼の顔を褒めるのもしゃくで、そう言って誤魔化す。仕事とはいえ、ホストみたいなことをよくやるものだ。
「はい。僕は冬夜の犬ですから」
「ちょ、冗談だから。私、そういう趣味はないから」
左鬼の場合は、冗談なのかどうなのかが分り難くで困る。普通に考えれば冗談なのだろうけど、顔がマジ顔すぎる。
「僕は冗談じゃないですよ?それに僕が勝手に冬夜の犬になりたいだけですから、気にしないで下さい」
「き、気にするって!えっ?何?新手の嫌がらせ?!」
犬になりたいとか、寒いから。
私が勝手に迷子になったから怒っているのだろうか?にしても、それはない。
「嫌がらせなんてとんでもない。僕にとっては、冬夜が最優先事項で、僕の心なんて二の次ですから」
「いやいや。自分を優先してあげて」
何言ってるの、この人。
前からズレを感じてはいたけれど、今さらながらに左鬼の考えが分からない。
「そんな冬夜を差し置いて僕を優先させるなんで。……それとも僕の事を信頼できないと?」
「信頼できないんじゃなくて、理解できないんだって」
何がなんだか。
突然M男発言されたら、普通に引く。綺麗だけの男なんて嫌だけど、それでもそれはない。
「理解も何も、そんな難しく考える事はないですよ」
そう言うと、突然左鬼が自分の人差し指をガリッと噛んだ。左鬼の犬歯は私のより尖っていて、難なく長い指を切り裂く。
何をしようとしているのか理解できず呆然としていると、その血で私の手の甲に文字を書いた。
「えっ、ちょ。止めて。何?」
「我命が消えるまで貴方に忠誠を誓います」
「いやいや。ちょ、本当に。意味わかんないから」
「許すと言って下さい。そうでないと――」
「分かった。許す。許すから。お願いだから放して!」
優男風な癖に、左鬼が私を掴む手の力は強い。
「って、なにこれ、キモイ、キモいから。ちょ、左鬼、マジで放して」
「キモイって酷いですよ」
左鬼が書いた血文字が序々に私の中へ吸収されるかのように消えていく。
手の甲を服にこすりつけて拭いたいのに、左鬼の手が邪魔をして、それができない。
そしてすべてが消えてしまった後に、ようやく左鬼が手を離した。それと同時に、私ははじかれたように慌てて手の甲を服にこすりつけた。
服は水を含んでじんわり生ぬるいが、そこに血がつく事はない。一歩遅かったようだ。
「一体、何したの?!」
というか、何プレイ?私には変な性癖とかないから、やめて欲しい。
しかし私の気持ちがちゃんと通じているのかどうなのか、左鬼に詰め寄ると、ポッと顔を赤らめた。何故赤らめる。
「あら。冬夜ちゃんったら、もう主従関係結んだの?最近の子は早いわねぇ」
「は?」
しかも私たちに近づいてきた地蔵菩薩様の言葉の意味が分からない。いや、全く分からないわけではないのだけど、主従関係を結ぶってどういうこと?
「はい。冬夜は僕の太陽のような存在ですから。もう離れ離れになることがないようにと」
「ちょっと。お願いだから、ちゃんと説明してよっ!!」
分からないことが多いというのは、結構な恐怖だ。一体、何が起こっているのだろう。左鬼がどうしてここに来れたのかも分からなければ、今やった内容もさっぱりだ。
「だからさっきから言っているじゃないですか」
「何を?!」
「僕は、冬夜の犬なんですって。これからよろしくお願いします、ご主人様」
……。
………………。
…………………………………は?
「はああああああああっ?!」
意味わかんないんだけど。
本当に性癖疑われそうな言葉に、私は悲鳴のような声を上げた。




