5.鳳椏悠美 天秤の軽重
雨雲が憎い。
今にも降り出しそうな雨雲が憎い。
天候を気にした先輩が、いつもより早く帰宅してしまったせいで、雨雲が憎い。
先輩との幸せなひとときは明日まで『お預け』である。
先輩を意識するようになったのは二週間前。曲がり角であゆみからぶつかってしまった拍子に恋に落ちた。俗にいう一目惚れ。やっかいな病気。
主観だけど先輩はカッコイイ。そのカッコイイ先輩には彼女がたくさん居るみたい。百戦錬磨かも知れない。恋愛レベル1のあゆみでは太刀打ちできないかもしれないけど、恐らく、先輩はあゆみのことをまんざらではないと思っている。希望的観測込みだけど。あゆみにとっての朗報は、現在、先輩に彼女が居ない状態だということ。
勉強であれ、スポーツであれ、基本的に、あゆみは猪突猛進でいつも攻めるタイプなんだけど、これが初恋で、今の空気と言うか、距離間が気に入っていて、『告白してふられたら、会ってもらえなくなるかもしれない』と危惧して次に踏み出せないでいる。
ううぅぅ〜……と心地よさを奪った雨雲を睨んでいると、以前検診を担当していただいていた看護師さんが、スススッと寄ってきた。
「体調はどうかな、おちびちゃん♪」
「あ、年増のお姉さん、大丈夫だよ!」
「ならば私刑!」
ぺちんと額を叩かれた。
三十路前には年増が禁句だったようだ。
「今のカッコイイ男の子は誰かな?」
にやにや顔の看護師さんが、あゆみの額をうりうりと人差し指でつつく。
「……み、見てたんですか? 今のは――彼氏ですよ〜?」
あゆみが冗談めかして嘘をつくと、看護師さんが合わせてくれる。
「ほうほう、あの彼氏くんとは付き合ってどれくらいになるの?」
当然そうきますよね。
「彼氏くんは――って、言ってて自分で悲しくなってきた。今のは彼氏でもなんでもないんです」
看護師さんが目を丸くして、口に手を当てる。
「あらそうなの? 良い雰囲気だからてっきり二人は付き合ってるのかとお姉さん勘違いしちゃった」
はたから見て、あゆみと先輩は良い雰囲気――それは素直に嬉しい。でもちょっと待って。
看護師さんはいつからあゆみたちを見てたの? 恐る恐るその旨を尋ねてみる。
「え、いつから見てたかって? ここ(一階ロビー)に降りてきたおちびちゃんが、カルガモの雛のように男の子の後を付いて、自動ドアまで見送るまでの間、見てたわよ? 玄関口から男の子を見送る時の切ない顔――女の顔になってたわよおちびちゃん。もう可愛いなんて言えないかもね」
まったく看護師さんの視線に気づかなかった。穴があったら入りたい。ほぼ全てを見られていたなんて――恥ずかしい。
「お姉さんの推理では、完全な片想いとみた!」
そろそろナースステーションに戻って欲しい。
「当たり?」
「……当たりだよぉ」
白旗をあげたあゆみに、看護師さんがにやにや度を上げる。
「男の子はおちびちゃんに会いに来てるの? 最近よくみかけるけど」
絶句した。看護師さんてば目敏い。あゆみがこれから喋る内容は、既に知られている気さえする。そんな錯覚に陥る。
「彼は学校の先輩で、先輩のお姉さんがここの三階に入院されてて、そのお見舞いついでにあゆみと会うって感じ……にやにやしないでよお姉さん」
あゆみの言及を意に介さない看護師さんに、人差し指で肩をぐりぐりされる。
「もどかしい現状だね」
「特にもどかしくは、ないけど」
あゆみだけに会いに来てくれる訳ではないから、寂しくもあるけど。わがままはよくないよね。
「本当にもどかしくないの?」
「もどかしくないよ?」
あゆみは今まで看護師さんと合わせていた視線を外す。すると看護師さんのにやにや度がさらに増した気配を感じる。
「ふふ。おちびちゃんはその目的を変えさせたい訳だね」
「え、も、目的?」
あゆみからなにを読み取ったの?
「おちびちゃんは、お姉さんのお見舞いついでではなくて、おちびちゃんに会い来るのが主目的になるようにしたい――なって欲しい訳だね」
胸中の図星を突かないで欲しい。
「……嫌な大人だなぁ」
げんなりしていた私は不意に声をかけられた。
「椏悠美」
筋肉ムキムキな身体をティーシャツとジーパンに押し込んだ、高身長の角刈り男があゆみの傍に近づいてくる。
「あ、お兄ちゃん」
一つ歳上の兄だ。あゆみの隣の看護師さんへ丁寧な挨拶を向けたあと、肩に下げていたトートバッグをあゆみに手渡した。
「忘れ物や足りないものはないか、確認をしてくれ」
「うん」とあゆみは頷きつつ、トートバッグの中身を確認する。頼んでいたもの一式は揃っているし、追加で頼みたいものはない。
妹のあゆみが言うのもなんだけど、品行方正で人格者たる兄が、完璧超人過ぎて困る。妹にこきつかわれて愚痴ははかないし、忘れ物なり、間違いなり、バカな行いなりを一切しないのだ、この兄は。うちの家庭は子供が兄とあゆみだけなので、よく祖父母に比較されて辛いところではある。兄の性格が破綻していたり、高飛車ならモンクの吐きようもあるけど、あゆみをフォローして、なおかつあゆみのムカつく気分を払拭させることが巧いから、手に負えない。一度で良いから困ったり、テンパったりする姿が見てみたいものだ。
「祐介くん、また背が延びたんじゃない?」
にやにやを引っ込めて、ニコニコする看護師さんが、親しみを込めた感じで、兄の腕にさりげなくタッチ。
「なんと。わしは竹の子ではないんじゃが、そう見えるのかのぉ、楓姐さんや」
百九十センチオーバーの兄はタッチに動じることなく角刈り頭をぽりぽりとかく。
看護師さんは兄の質問には答えない。
「祐介くんに姐さん呼ばわりされると、やくざのアネサンになった気分だわ」
「いやいや、頼りになる姉貴分といった意味じゃ」
「そぉ? 私は頼りになる?」
「わしが短い人生の中で、見てきた限りでは、楓さんは頼りになる大人じゃ。妹がなついているのがなによりの証拠じゃな」
看護師さんが忙しなく自分のうなじ辺りを撫でている。
「そ、そぉかな?」
「うむ」
看護師さんが必死ににやけそうな顔を堪えている。
「姉さん姉さん」
あゆみは看護師さんの口元を指摘した。慌てて看護師さんは口元を拭う。
三十路前の大人が嬉しそうによだれを垂らしてはいけない。
「さて、わしはそろそろ帰るかのぉ」
看護師さんが瞳をぱちくりとまたたいた。
「あら、今日は早く帰るのね」
時刻は午後の四時半。いつもは五時まであゆみと話したり、看護師さんと話し込んだりするのだ。ちなみに対比率は1:9。比率おかしくない?
「早く帰って、明日の合コンに備えねばならん」
「へ〜合コンに? ん? 合コン?」
細面な顔の看護師さんが、つり目がちな瞳を細くした。
「それではあゆみ、また週明けに。楓さん、あゆみのことをよろしくお願いします」
なんとなく危険を感じ取った兄が、あゆみに追加の運搬はないかを確認して、さっさと踵を返す。
しかし――看護師さんがガシッと兄の肩を掴んだ。
「祐介くぅん? 私は五時上がりなのぉ。ちょっと、そこで待っててくれるぅ?」
言って笑顔の看護師さんは、ナースステーションへ飛んでいった。目は笑っていなかった。
「今、楓さんの表情が、恐ろしい形相だったんじゃが、もしかしてわしがなにかの地雷を踏んだかのぉ?」
兄はわざととぼけている気がした。あゆみは敢えてそれに合わせた。
「お兄ちゃんは自分に自身を持つべきだよ――くらいしか、あゆみは参考意見を言えない」
大抵の場合、不幸も偶然も事故も幸福も、自分の身に降りかかるまではそれには気づかない。
兄が鼻を鳴らす。
「常に自身満々じゃと、ただのジャンキーと変わらぬよ」
合わせることに堪えきれなくなった。
「敢えてボケなくて良いから」
「――ボケるさ」
さらっと言われた。
あまりにもさらっと言われたので、深く考えず、子供のように鸚鵡返しをしてしまう。
「なんで?」
「それをわしに訊くのか? イケメンに夢中な妹よ」
「な!?」
兄にまで先輩と一緒にいるシーンを目撃されていたみたいだ。
「あのイケメンは手強いぞ」
兄が訳知り顔で言った。
「知り合いなの?」
「あれは寛貴――坂本寛貴じゃろ? 去年からのクラスメイトで、遊び仲間じゃ」
灯台もと暗し。先輩の情報が兄からも繰り出されるとは。
「面食いな寛貴だけはやめておけ、とは言わぬが、これだけは心得ておけ。あのイケメンの横に並ぶ女は日替わりじゃ、必ずな」
「日替わり?」
「月曜日はA、火曜日はBと言った感じで、毎日隣を歩く女が違うのじゃが……まぁ、頑張れ」
なにそのモチベーションダウン情報。
「兄の贔屓目じゃが、椏悠美は可愛い」
「な、急になに?」
凄く恐いですよ、お兄ちゃん。
「椏悠美なら寛貴と吊り合うが、わしと楓さんでは、どうなる?」
兄は自嘲気味に笑う。
「え、お兄ちゃんは……カッコイイっ思うけど」
妹目線では彫りの深い整った顔立ちをしていると思う。
「わしは自分をそう思わん」
つまりは、と兄。
「敵を知り己を知れば――と言う諺があるが、恋愛に当て嵌めた場合は別じゃ。互いに美男美女なら良いが、最初から吊り合わん男女の場合、吊り合わない方が自分を卑下する結果が待っているだけじゃ。今のわしのように。この考えは間違っておるかのぉ、妹よ」
臆病で兄は逃げているだけ――の一言では片付けれない現実。
「経験豊富じゃないからあゆみには解んないよ。それでも――」
あゆみの意見を遮るように兄がぽつりと言う。
「……それにな、わしに楓さんは勿体ない」
さすが兄。そこいらの鈍感キャラとは違う。きっちりと看護師さんの好意に気づいていたらしい。
「楓さんの好意は一時期の気の迷いに過ぎん」
寄せられた好意に気づいた上で、兄は悩んでいる様子だった
「きっと楓さんはそんな風に思ってないよ。お兄ちゃんは考えすぎだよ。たまには、あゆみみたいに後先考えず突っ込めばいいのに」
兄は学年主席であゆみより数倍賢いのだ。頭でっかちになっているに過ぎない――と思うしかない。
「妹よ。応援してくれているのは解るが、わしでは楓さんとは吊り合わんよ」
恋愛経験が皆無なあゆみには『卑屈だ』とは攻めれない。
「楓さんの好意には、いつから気づいてたの?」
兄が躊躇いがちに口を開く。
「先月からじゃな」
あゆみが入院してすぐだ。
「楓さんとは付き合わないの?」
「……付き合わないもなにも、告白されておらんよ」
ぽんぽんとあやすように頭を軽く叩かれた。
「楓さんを……振るの?」
やれやれと首を振る兄。同じことを聞くな、といった表情だ。
「告白されると決まった訳でもないのに、性急な話じゃな、妹よ」
あゆみは焦燥感でいっぱいだった。
「はぐらかさないでよ!」
なぜかあゆみの告白結果と、楓さんの告白結果が重なる気がしたのだ。
兄は困ったように笑うだけ。
「お待たせ! 祐介くん」
上げていたセミロングを下ろした看護師さんが、肩で息をしている。時刻は午後五時を少し回ったところ、ナースステーションから急いできたことは一目瞭然だった。
「さて、楓さん。外はごらんのように雨が降っている。図々しいながら、わしは駅まで送ってもらいたい。よろしいですか?」
「もちろんよ! 今日こそは自宅まで送っちゃうからね!」
嬉々とした楓さんが、兄を伴い、玄関ロビーから出ていった。
兄は鬼畜だ。




