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短編

追放された本物の聖女ですが、偽物が勝手に自滅して国が滅びそうなので放置して冒険者生活を満喫します

作者: 此花サギリ
掲載日:2026/09/02

第1章:偽りの神託と、奪われた光

王都ルミナスに聳え立つ大聖堂の謁見の間には、不穏な静寂が満ちていた。

ステンドグラスから差し込む七色の光は、いつもなら神聖な温もりを帯びているはずだったが、今日ばかりは凍てつく氷のように寒々しい。


「——アルマ・クレメンス。貴様を本日をもって聖女の任から解任し、我がエルディア王国より永久に追放する!」


大理石の床に響き渡ったのは、この国の第一王子であり、私の婚約者でもあるレオン殿下の怒号だった。


私はゆっくりと顔を上げた。

膝をついた私の視線の先には、黄金の髪をなびかせ、歪んだ勝利の笑みを浮かべるレオン殿下と、その腕にしがみつく一人の少女がいた。


桃色の髪をなびかせ、可憐な修道服に身を包んだ少女——エレノア。

数ヶ月前、突如として地方の村から現れ、「神の声を聞いた」と自称した少女だ。


「アルマ、往城の見苦しい足掻きはやめよ。エレノアこそが真なる『光の聖女』であり、神託を下された奇跡の存在なのだ。貴様はこれまで、神聖な力を偽り、王家と国民を欺き続けてきた悪徳の偽聖女……! その罪、万死に値する!」


第2章:自由の風と、冒険者ギルドの洗礼

エルディア王国の国境を越え、隣国ラズワルド公国へと続く山道を、私は軽い足取りで歩いていた。


「あはは、空がこんなに青かったなんて!」


聖女として暮らしていた頃の私の世界は、狭く、暗く、重苦しかった。

朝は黎明とともに起き出し、王都を包む巨大な大結界に魔力を充填する作業から始まる。朝食を摂る暇もなく、怪我をした騎士や病に伏せる貴族たちの治療に借り出され、夜は夜でレオン殿下の主催する夜会に「完璧な聖女」として列席させられた。

私の魔力は、国家という巨大な車輪を回すための燃料に過ぎなかったのだ。


だが、今は違う。

背中には小さなリュックサック一つ。中身は着替えの服が数着と、わずかな手持ちの銅貨、そして旅用の干し肉とパンだけ。

聖女の象徴だった豪奢なドレスも、重厚な聖杯の指輪も、すべてあの冷たい大聖堂に置いてきた。


「さて、まずは拠点を決めないとね」


目指すは、ラズワルド公国の辺境に位置する開拓都市「ルクシオン」。

国境に近く、多様な種族が行き交うその街は、冒険者の拠点として最も賑わっている場所の一つだ。聖女時代の知識として、地図や地理は完璧に頭に入っている。


山道を下り、青々とした森林を抜けると、高聳する石造りの外壁と無数の煙突から上る煙が見えてきた。ルクシオンだ。


街の門を通る際、兵士に身分証を求められたが、王国の平民用通行証を見せるとあっさりと通された。王宮を追放された際、レオン殿下は私の貴族籍を剥奪したため、今の私は名実ともにただの平民「アルマ」である。それがこんなにも晴れ晴れしいものだとは思いもしなかった。


活気あふれる市場を抜け、私は目的の場所——冒険者ギルド「赤き獅子亭」の扉を押した。


カランコロン、と心地よい鈴の音が響く。

中に入ると、ムッとするような酒と汗、そして金属の匂いが鼻をついた。昼間だというのに、店内ではゴツい体格の男たちや、弓を背負ったしなやかなエルフ、魔法小杖を手にした術士たちが酒杯を交わし、喧騒に包まれている。


(これが……冒険者ギルド!)


本でしか読んだことのなかった光景に、私は密かに胸を躍らせた。

しかし、見慣れない華奢な少女——それも麻の粗末な服を着た素朴な姿——が入ってきたことで、ギルド内の視線が一斉に私に集まった。


「おいおい、嬢ちゃん。迷子か?」

「ここは子どもが絵本を読みに来る場所じゃねえぞ!」


あちこちから下品な野次と下衆な笑いが巻き起こる。

私は意に介さず、正面奥にある「新規登録受付」と書かれたカウンターへと歩み寄った。


カウンターの奥には、メガネをかけた知的な雰囲気の女性職員が座っていた。彼女は私を一瞥すると、少し呆れたような溜息をついた。


「いらっしゃい。……ここは冒険者ギルドですが、本当に登録をご希望ですか? 冒険者は華やかな職業ではありませんよ。魔物との戦闘で命を落とすことも日常茶飯事です」


「はい、存じ上げております。冒険者として登録させてください」


私のハッキリとした答えに、職員——受付嬢のミーナさんは少し驚いたように目を丸くした。


「……分かりました。では、こちらの用紙に名前と使用可能魔法、または得意な戦闘スタイルをご記入ください。その後、簡単な適性検査を行います」


渡された紙に、私は素早く記入していく。

名前:アルマ。

得意分野:生活魔法、簡単な回復魔法、補助魔法。


聖女としての力を隠すため、あえて地味な記載にとどめた。聖女の力——神聖魔法や高位結界魔法を使えるなどと書けば、間違いなく不要な注目を集めてしまうからだ。


「……生活魔法と、初級の回復魔法ですか。回復術士(ヒーラー)は常に不足しているので重宝されますが、単独での採取任務からのスタートになりますね。では、奥の『魔力測定器』に手を触れてください」


ミーナさんに促され、私は部屋の隅に置かれた水晶玉のような魔道具に手をかざした。

これは魔力の質と量を測定するための石だ。


(あまり出しすぎると怪しまれるわね。……全体の千分の一くらいに抑えましょう)


私は慎重に魔力を絞り、ほんのひとしずくの魔力を水晶玉に流し込んだ。


——ピキッ。


「……え?」


瞬間、静かな音が響いた。

次の瞬間、水晶玉の内部が眩いばかりの純白色に発光し、直後にドカン!という激しい音とともに、水晶玉が粉々に砕け散った。


ギルド内が一瞬で静まり返る。

飛び散った破片が床を転がる音だけがカラカラと響いた。


「あ……ごめんなさい! 壊すつもりは……!」


私は慌てて手を引いた。千分の一でも多すぎたらしい。聖女としての加護を失っても、体内に蓄積された純粋な魔力量は変わっていなかったのだ。


ミーナさんは口をぐぐっと開けたまま、粉々になった水晶玉と私の顔を交互に見つめていた。


「……測、測定器の不具合……ですね。ええ、きっと長年使っていたからガタが来ていたのでしょう。とにかく、登録は完了です。あなたのランクは最も低い『Fランク』からとなります」


ミーナさんは震える手で銅製のギルドプレートを差し出してきた。

周りの冒険者たちも、何が起きたのか理解できず、呆然と私を見つめている。


「ありがとうございます! 大切にしますね」


私は受け取った銅のプレートを握りしめ、嬉しさのあまり微笑んだ。

これが、私の新しい人生の証だ。


「あの、早速受けられる依頼はありますか?」


「え、あ、はい……。Fランクでしたら、こちらの『街の近郊での薬草採取』か『スライムの討伐』になりますが……」


「薬草採取にします!」


こうして、私の冒険者としての第一歩が始まった。

王宮でのドロドロとした人間関係や、偽聖女の企みなど、もう過去のこと。私は広大な森へ向かって、ワクワクした気持ちで駆け出していった。


第3章:放置された王国の異変

アルマがルクシオンの森で爽やかな汗を流していた頃。

彼女を追放したエルディア王国の王都ルミナスは、不穏な空気に包まれ始めていた。


王城の輝かしい執務室。

レオン殿下は高級なワインを傾けながら、ソファーに深々と腰掛け、ご機嫌な様子で足を組んでいた。その膝の上には、桃色の髪を弄ぶ偽聖女エレノアが甘えるように寄り添っている。


「ふはは! 見ろ、エレノア。あの忌々しいアルマがいなくなってから、城の中が実にはれやかだ。あいつはいつも暗い顔をして『結界の維持が』だの『魔力の節約を』だの、小うるさい小言ばかり言っていたからな」


「ええ、レオン様♡ アルマ様はきっと、自分の能力を過信してレオン様に威張っていたのですよ。これからは私という本物の聖女が、レオン様を全力でお支えしますわ」


「うむ! 頼もしいぞ、エレノア。さあ、今日もその素晴らしい『原初の光』で、私の肩を癒やしてくれ」


「はいっ、お任せください!」


エレノアが愛らしく微笑み、両手を掲げる。

ぽわんと温かい、ピンク色の光がレオンの身体を包み込んだ。


「おお……素晴らしい。この甘い香り、華やかな光……これこそが真の聖女の力だ。アルマの地味な光とは雲泥の差だな!」


レオンは満足げに目を細めた。

しかし——彼は気づいていなかった。

エレノアの発する光は、単に精神を一時的に昂揚させる「精神感応系の魅惑(チャーム)魔法」に過ぎず、疲労を根本から回復させる効果も、ましてや国を守る聖魔力など微塵も含まれていないということに。


その時、執務室の扉が激しく叩かれた。


「殿下! レオン殿下! 急報にございます!」


顔を青ざめさせた宰相のゴルドーが、なりふり構わず駆け込んできた。


「なんだ騒々しい。今、エレノアと極めて重要な儀式を行っている最中だぞ」


レオンは不機嫌そうに眉をひそめた。


「そ、それどころではございません! 北方領土の『永久氷壁』に異変が発生いたしました! 氷壁の一部が融解し、封印されていた古代魔獣の群れが国境を破って侵入を開始しております!」


「なに……? 氷壁が融解しただと? 馬鹿な、あれは千年間一度も溶けたことがない絶対の結界のはずだぞ!」


「それが……原因は不明ですが、結界の魔力が急速に衰退しておりまして……!」


レオンは苛立ちを隠さず、チッ、と舌打ちをした。


「まったく、管理に不備があったのではないか? まあよい、エレノア。お前の『原初の光』で、チャチャッと結界を修復してきてくれ」


「えっ……?」


エレノアの顔が、一瞬で引きつった。


「あの……レオン様? 結界の修復、ですか……?」


「そうだ。お前は本物の聖女だろう? アルマができる程度の作業、お前にできぬはずがなかろう」


「あ、う……もちろん、できますわ! ですが……私、今は少し『神様からのパワー』が溜まっていない時期でして……ほら、聖女も休息が必要でしょう?」


エレノアは滝のような汗をかきながら、必死に笑みを作った。


「ふむ、なるほど。神託の力を充填する時間が必要というわけか。ならば仕方ない。近衛騎士団を派遣し、物理的に魔獣を食い止めさせよ!」


「は、ははっ! 直ちに!」


宰相は急いで部屋を飛び出していった。

レオンは「まったく、骨の折れることだ」と呟き、再びワインを口にした。


しかし、これはほんの始まりに過ぎなかった。


アルマが毎日行っていたのは、単なる「結界の維持」ではない。

北方の永久氷壁への魔力供給、南方の広大な農地を不作から守る「大地活性の陣」の維持、王都の地下水脈を清浄に保つ「浄化の結界」、そして国境全体を覆う「魔物除けの大結界」。

これら無数の巨大魔法陣を、アルマは一人で、毎日、休むことなく魔力を注ぎ続けることで維持していたのだ。


聖女の指輪を返還し、アルマが国を去った瞬間から、それらの結界への魔力供給は完全に途絶えていた。

蓄積されていた予備の魔力が底を突き始めた今、王国全土で「世界の綻び」が一斉に噴出し始めていたのである。


翌日には、南方の穀倉地帯で突如として黒い腐敗病が発生し、数万トンにおよぶ小麦が一夜にして全滅した。

その翌日には、王都の地下水脈から濁水が湧き出し、住民たちが激しい下痢と発熱を訴え始めた。


さらには、王家が長年貯蔵していた「聖水」の在庫も、アルマの浄化魔法による補給がなくなったことで底をつきつつあった。


「どういうことだ! なぜ次々と災厄が起きる! エレノア、お前の神託はどうなっているのだ!?」


王宮の会議室で、レオン殿下は激昂していた。

目の前に座るエレノアは、怯えたように身体を小さくしている。


「あ、あの……神様が……神様が『今は耐え忍ぶ時だ』とおっしゃっていて……」


「言い訳はいい! 今すぐその『原初の光』で農地を浄化し、水を綺麗にしろ!」


「は、はい……!」


エレノアは必死でピンク色の光を農地に注ぎ込んだ。

しかし、結果は悲惨だった。

ピンクの光を浴びた作物は何の効果も得られず腐り続け、それどころか光の持つ「甘い香り」に誘われた有害な害虫の群れが大量発生し、被害は倍増したのだ。


「ひぃぃぃ! 虫が! 虫が飛んできますわぁぁぁ!」


悲鳴を上げて逃げ惑うエレノア。

それを見た重臣たちや貴族たちの間に、決定的な「疑念」が走り始めた。


(……もしや、あの少女は……本物の聖女などではないのでは?)

(アルマ様がいた頃は、こんな災厄など一度たりとも起きたことがなかったぞ……)


だが、一度「偽聖女」として盛大に追放した手前、レオン殿下も今更自分の間違いを認めるわけにはいかなかった。


「黙れ! エレノアは聖女だ! これは神が我が国に与えた試練に過ぎん! 騎士団を出動させ、害虫も魔獣もすべて切り伏せろ!」


王国の崩壊は、すでに歯止めの利かない勢いで加速していた。


第4章:冒険者アルマの無双スローライフ

王国の混乱など露知らず、アルマはルクシオンの森を満喫していた。


「ふう、今日の採取も大収穫だわ!」


アルマは背中のカゴいっぱいに詰まった薬草を見つめ、満足そうに微笑んだ。

依頼されていたのは「ヒール草」10束の採取だったが、森の奥深くに入ったアルマは、滅多にお目にかかれない超レアな高位薬草「エリクサー草」や「月光花」を大量に発見し、ついでに採取しておいたのだ。


「アルマちゃん、本当にすごいね……! その歳で、こんな森の奥まで一人で入って、怪我一つないなんて」


隣で驚きに目を見張っているのは、今日パーティを組んだFランク冒険者の少女・サクラだ。彼女は弓使いで、まだ15歳と同年代だった。


「ふふ、野草の知識には少し自信があるの。さあ、ギルドに戻って換金しましょう!」


二人がギルド「赤き獅子亭」に戻ると、受付のミーナさんが目を見開いて出迎えてくれた。


「アルマさん……これ、全部『月光花』ですか!? 伝説級のポーションの原料になる最高級の素材ですよ!? 一体どこで……」


「森の奥の陰になった岩場にたくさん生えていましたよ? 誰も摂っていなかったので、全部持ってきました!」


「だ、誰も行かないのはそこがAランク魔物『シャドウウルフ』の縄張りだからです! 遭遇しなかったのですか!?」


「あ、そういえば黒い大きなワンちゃんがいましたね。『あっちに行ってね』って少し魔力を込めて追い払いましたけど」


「……追い払った……?」


ミーナさんは頭を抱えた。

シャドウウルフは一国のアサルト部隊でも苦戦する凶暴な魔物だ。それを「ワンちゃん」と呼び、魔力で追い払ったというのだから開いた口が塞がらない。


「と、とにかく素晴らしい功績です! 買取額は……金貨30枚になります!」


「き、金貨30枚!? そんなに!?」


庶民の一年分の生活費に相当する額だ。

王宮時代、どれだけ働いても「聖女としての務め」として無給同然で扱われていたアルマにとって、自分の労働が正当な対価として評価されることは、衝撃的な喜びだった。


「すごいよアルマちゃん! これで美味しいお肉が食べられるね!」


「ええ! サクラちゃん、今日は一番高いお店でご馳走するわ!」


その夜、二人は街で一番人気の酒場で、ジューシーなオーク肉のステーキと冷えた果実酒(アルマは葡萄ジュース)で乾杯した。


「おいしい……! こんなに美味しいごはん、食べたことがないわ!」


「えー? 王都から来たんでしょ? 王都にはもっと美味しいものがあるんじゃないの?」


「ううん。王宮の料理は豪華だったけれど、マナーばかり気にしなきゃいけなくて、味なんて全然しなかったの。みんなで楽しく食べるご飯が、一番美味しいわ」


アルマは心からの笑顔を見せた。


冒険者になって一週間。

アルマのランクはあっという間に「Cランク」へと昇格した。

彼女が引き受ける採取依頼は常に最高品質の素材が揃い、時々持ち帰ってくる魔物の討伐部位は、どれも一撃で仕留められた綺麗な状態だったからだ。


さらに、アルマは街の治療院にも顔を出し、格安で病や怪我に苦しむ町医者たちを手伝っていた。

アルマの使う「生活魔法(と本人は主張している)」は、どんな重病も一瞬で完治させ、傷跡すら残さない。


「アルマ様は神の落とし子だ!」

「いや、まさに本物の聖女様だ!」


街の人々は口々にアルマを称賛した。

アルマ本人は「聖女」と呼ばれることに苦笑いしつつも、自分の力が誰かの役に立ち、直接「ありがとう」と感謝される毎日に、かつてない充足感を感じていた。


「自由って、こんなに素晴らしいことだったのね」


夜、宿屋の部屋の窓から月を見上げながら、アルマは呟いた。


もう二度と、あの冷たい王宮には戻らない。

私は私の足で、この広い世界を歩いていくのだと、心に強く誓っていた。


第5章:崩壊する王国と、暴かれた嘘

アルマが自由を謳歌している頃、エルディア王国はまさに「終わりの時」を迎えていた。


追放から一ヶ月。

王国の状況は悲惨の一言に尽きた。


北方の壊滅:永久氷壁が完全に崩壊し、侵入した魔獣の群れによって北方領土の半分が占領された。派遣された近衛騎士団は全滅に近い被害を受けた。


大飢饉の発生:腐敗病と害虫の大量発生により、王国の食料自給率はゼロに転落。国民の暴動が各地で頻発している。


疫病の蔓延:王都の地下水脈の汚染により、「黒死病」に似た高熱の疫病が蔓延。病院は溢れかえり、街には死体が転がっている。


「どうしてだ……! なぜこんなことになるんだ!?」


玉座の間で、レオン殿下は髪をかきむしりながら叫んでいた。

かつての威厳ある王子の面影はなく、目の下には深い隈ができ、顔色は土気色だった。


国王も病に伏せり、実質的な指揮権はレオンにあったが、彼には何一つ有効な手立てが打てなかった。


そこへ、ボロボロになった大司教が駆け込んできた。


「殿下! 大変にございます! 古文書を読み解いた結果、驚くべき真実が判明いたしました!」


「真実だと……!? 一体なんだ!?」


大司教は震える手で、古びた羊皮紙を広げた。


「我が国を千年間守ってきた『大結界』と『永久氷壁』……これらは、代々の『聖女』が自らの莫大な神聖魔力を毎日注ぎ込むことによってのみ維持される『動的結界』だったのです!」


「な……なに……!?」


「そして……先代の記録によれば、その結界を一人で維持できるほどの魔力を持つ者は、数百年に一人現れるかどうかの『真なる神の愛し子』のみ……。アルマ様こそが、その真の聖女だったのです!」


レオンの頭の中に、雷が落ちたような衝撃が走った。


「ば、馬鹿な……! アルマの魔力は地味で、大した効果もなかったはずだ! 現にエレノアの光の方が——」


「エレノア様の光は、単なる魅惑の属性魔法です!」


大司教は悲痛な叫びを上げた。


「あのような華やかなだけの光には、結界を維持する力も、大地を浄化する力も一切ございません! アルマ様が使われていた『透明な光』こそが、余計な属性を持たない、最も純度が高い『原初の神聖魔力』だったのです!」


「ひっ……!?」


レオンの視線が、部屋の隅でガタガタと震えているエレノアに向けられた。


「エレノア……お前……私を騙していたのか……!?」


「違っ……違いますレオン様! 私、神様の声を聞いたんです! 本当なんです!」


「黙れ!!」


レオンはエレノアの髪を掴み、床に叩きつけた。


「貴様のような偽物のせいで……我が国は……我が国は滅びかけているのだぞ! どうするのだ! この責任をどう取る気だ!?」


「きゃあああっ! ごめんなさい! ごめんなさいぃぃ!」


エレノアは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣き叫んだ。

しかし、いくら彼女を責めたところで、失われた結界も、死んだ兵士たちも戻ってはこない。


宰相のゴルドーが、重い口を開いた。


「……レオン殿下。残された道は、ただ一つにございます」


「なに……? まだ方法があるのか!?」


「アルマ様をお捜しし、お詫び申し上げ、再び聖女として王宮にお戻りいただくのです。アルマ様の慈悲深いお心ならば、崩壊寸前のこの国をお救いくださるはず……!」


レオンの顔に、藁にもすがるような希望が浮かんだ。


「そうか……! アルマだ! あいつは私を愛していた! 私が頭を下げて『戻ってきてくれ』と言えば、泣いて喜んで戻ってくるに決まっている!」


レオンは現金な笑みを浮かべ、即座に命じた。


「今すぐ精鋭の捜索隊を編制せよ! 国境を越えてでもアルマを見つけ出すのだ! 彼女を連れ戻せば、すべてが元通りになる!」


こうして、王国の命運を賭けた「アルマ捜索隊」が出発した。

彼らは自分たちがどれほど恐ろしい思い違いをしているか、この時はまだ誰も気づいていなかった。


第6章:深緑の脅威と、冒険者たちの絆

ルクシオンの街に秋の気配が漂い始めた頃、アルマの冒険者ランクは既に「Bランク」へと到達していた。登録からわずかひと月余りという異例の昇格スピードであったが、彼女の実力を知る者からすれば、それすら遅すぎるほどだった。


「アルマちゃん、今日もよろしくね!」


ギルドの前に待っていたのは、すっかり相棒となった弓使いのサクラと、新たにパーティーに加わった重戦士のガルド、そして魔導士のルイだった。


「はい! 今日の依頼は『深緑の渓谷』での魔物討伐と素材回収ですね」


ガルドは大剣を背中に背負いながら、豪快に笑った。

「おうよ! あの渓谷には最近、狂暴化したベアウルフが出没するらしい。だが、アルマの補助魔法があれば百人力だ!」


一行が向かった「深緑の渓谷」は、切り立った岩壁と鬱蒼とした原生林が広がる険しい地域だ。

道中、アルマは自然体で仲間たちに補助魔法をかけていく。


「『軽歩(エアフット)』と『剛力(アームズ)』です。それから、疲れにくくなるように『活力(バイタリティ)』もかけておきますね」


「……おいおい、相変わらずアルマの補助魔法はイカれてるな」

魔導士のルイが、自分の手を見つめながら呆れ顔で呟いた。

「普通、補助魔法ってのは発動までに数秒の詠唱が必要で、効果もほんの気休め程度だ。なのにアルマの魔法は無詠唱な上に、身体が羽みたいに軽くなって、魔力の回復速度が三倍以上になってるぞ……」


「え? これってただの初級生活補助魔法ですよ?」

アルマは首をかしげる。


「んなわけあるかーい!」と三人同時にツッコミが入る。

王宮では「地味で使い物にならない」と蔑まれていたアルマの魔法だが、実際の戦闘においてこれほど恐ろしいサポートはない。味方の能力を数倍に引き上げ、傷を負った瞬間に超高速で自動回復(リジェネ)がかかるのだ。アルマと組んだパーティーは、事実上の「不死身」と化す。


渓谷の奥深くに進むと、突然、空気が重く湿り気を含んだものに変わった。


「来たぞ……ベアウルフだ!」


ガルドが鋭い視線を森林の奥に向ける。

草むらをかき分けて現れたのは、通常の倍以上の巨体を持つ、黒毛の巨熊のような魔物だった。その目は血走っており、口からは不気味な紫色のよだれが垂れている。


「なっ……なんだあの禍々しい気配は!? ただのベアウルフじゃないぞ!」

ルイが青ざめた顔で杖を構える。


アルマはその魔物の異変を一目で見抜いた。

(あれは……王国の結界が破れたことで、あふれ出した『障気』に侵されているんだわ。王国から漏れ出た悪意と魔素が、こんな遠くにまで影響を及ぼしているなんて……)


「ガルドさん、ルイさん、下がっていてください。あの魔物は正気を失っています。下手に攻撃すると周囲に毒が撒き散らされます!」


アルマは静かに前に出ると、両手を優しく広げた。


「おい、アルマ! 危険だ!」

ガルドが止めようとするが、アルマの全身から溢れ出た光を見て、言葉を失った。


それは、太陽の暖かさと朝露の清らかさを混ぜ合わせたような、透き通った純白の光。

アルマが囁くように詠唱する。


「『光よ、迷える魂に平穏を——大浄化(ハイ・ピュリフィケーション)』」


ドォォォン……!


光の波が押し寄せ、渓谷全体を包み込んだ。

巨熊の身体からドス黒い紫色の煙がモクモクと立ち上り、空中で消滅していく。

暴れていたベアウルフは、まるで憑き物が落ちたかのようにその場にドサリと崩れ落ちると、穏やかな寝息を立て始めた。


「あ……ベアウルフが寝ちゃった……?」

サクラが呆然と弓を下ろす。


「障気を浄化して、興奮を鎮めただけです。怪我も治しておきましたから、目が覚めたら静かに森の奥へ帰るはずですよ」


アルマはニコッと微笑んだ。


ガルドとルイは、顔を見合わせ、それから床に膝をつく勢いで脱力した。


「……なあルイ。俺たち、とんでもない怪物……いや、本物の『女神様』とパーティーを組んでるんじゃないか?」

「ああ……俺もそう思い始めていたところだ。王宮の連中は、一体どんな目を持っていたらこのお方を手放せるんだ……?」


「もう、二人とも大袈裟ですよ! さあ、目的の薬草を摘んで帰りましょう!」


アルマの屈託のない笑顔に、仲間たちは思わず顔を見合わせて吹き出した。

王宮で抑圧されていた少女は、いまや信頼できる仲間たちに囲まれ、自分の力で誰かを守り、感謝される喜びを存分に噛み締めていた。


第7章:哀れな使節団と、崩壊の序曲

一方その頃。

ルクシオンの街の正門には、不釣り合いなほど豪奢な馬車が到着していた。


馬車から降り立ったのは、エルディア王国の近衛騎士団長ヴィンセントと、数人の高位貴族たちである。彼らの表情には焦燥と疲労が色濃く刻み込まれていた。


「ここがラズワルド公国の開拓都市ルクシオンか……。アルマ様がこのような辺境におられるとは」


ヴィンセントは剣の柄を握りしめ、苦々しい溜息をついた。

王宮を出発してから半月。道中の王国領内はまさに「地獄絵図」であった。

街道は襲撃してくる魔物で溢れかえり、立ち寄る村や街は飢饉と疫病で壊滅状態。かつて繁栄を誇ったエルディア王国の面影は、もはやどこにもなかった。


「団長、一刻も早くアルマ様を連れ戻さねば……王都の予備結界もあと数日で完全に枯渇します!」

副官の青年が蒼白な顔で訴える。


「分かっている! レオン殿下からは『何としても連れて帰れ。拒むようなら力ずくでも構わん』とお言いつけだが……」


ヴィンセントはかつて見たアルマの姿を思い出していた。

いつも伏し目がちで、大人しく、王子の理不尽な命令にもただ「はい」と答えていた華弱な少女。

力ずくで連れ戻すことなど造作もない——そう高をくくっていた。


使節団は横柄な態度で冒険者ギルド「赤き獅子亭」へと乗り込んだ。


バァン! とド派手に扉を開け放ち、ヴィンセントが甲高い声で宣言する。


「エルディア王国近衛騎士団長ヴィンセントである! このギルドに『アルマ』という娘がいるはずだ! 直ちにこちらへ引き渡してもらおう!」


喧騒に包まれていたギルドが一瞬で静まり返った。

酒を飲んでいた荒くれ者の冒険者たちが、一斉に不快そうな視線を騎士たちに向ける。


カウンターの奥から、受付嬢のミーナが冷ややかな視線を投げかけた。


「……エルディア王国の騎士様方が、何の御用でしょうか? 当ギルドの所属冒険者に対して、不当な要求をされるのであれば、公国法に基づき排除いたしますが」


「黙れ! アルマは我が王国の聖女であり、レオン殿下の婚約者だ! 国の危機に際し、彼女を呼び戻しに来たのだ!」


その言葉を聞いた瞬間、ギルド内に大きな「嘲笑」が巻き起こった。


「ハハハ! 聖女だって?」

「おいおい聞いたか? 追放したときは『偽聖女』だの何だの言っておいて、国がヤバくなったら『戻ってきてくれ』だそうだぜ!」

「ダサすぎるだろエルディア王国!」


あちこちから上がる爆笑と罵声に、ヴィンセントは顔を真っ赤にして怒脈を浮かべた。


「貴様ら無礼な冒険者どもめ! 我が王国の内政に口を挟むか! 剣を抜け!」


騎士たちが一斉に抜剣しようとしたその時——


「——そこまでにしてください」


凛とした、しかしどこか冷たさを含んだ声がギルドの奥から響いた。


人集りを割って現れたのは、質素だが手入れの行き届いた軽装鎧を身にまとった少女。

アルマだった。

彼女の後ろには、ガルドやサクラ、さらにはギルド中のBランク、Aランクの冒険者たちが殺気立った様子で控えている。


「あ……アルマ様!」

ヴィンセントは一瞬、目の前の少女が誰だか分からなかった。


かつての王宮にいた、今にも消えてしまいそうだった影の薄いアルマではない。

今の彼女は、肌に健康的な赤みが差し、その瞳は強い意志と活力に満ち溢れていた。一目見ただけで、彼女が今どれほど幸福な時間を過ごしているかが分かった。


「お久しぶりですね、ヴィンセント騎士団長」

アルマは静かに挨拶をした。


「アルマ様! お探しいたしましたぞ! さあ、直ちに王都へお戻りください! レオン殿下もお待ちです! 貴女が戻り、再び結界を張り、災厄を収めれば、殿下は以前の罪を許し、再び側室として手元に置いてくださると——」


「お断りします」


間髪を入れず、あっさりと放たれた一言。


「……え?」

ヴィンセントは耳を疑った。


「お断りしますと言いました。私はすでにエルディア王国の人間ではありません。貴族籍も剥奪され、国外追放処分を受けたただの冒険者です。あの国へ戻る理由も、義理もありません」


「な……何を仰るのですか! 国民が苦しんでいるのですよ!? 聖女たる者が、見捨てるというのですか! 貴女に慈悲の心はないのですか!」


ヴィンセントは叫んだ。

それは、かつて王宮の人間たちがアルマを都合よく縛り付けるために使っていた「呪いの言葉」だった。

『聖女なら我慢しろ』『国民のために捧げろ』『それがお前の義務だ』。


だが、今のアルマにその言葉は一切通じなかった。


「慈悲、ですか」

アルマは悲しそうに、けれど毅然とした目で見つめ返した。


「私が毎日睡眠時間を削り、血を吐くような思いで結界を維持していた時、あなた方は何と言いましたか? 『地味だ』『何の効果もない』『怠けている』と言って私を踏みにじりましたね。そして、華やかな光を放つだけの偽物を本物と崇め、私を追い出しました」


「そ、それは……誤解でして……!」


「誤解ではありません。あなた方は私という『人間』を見たのではなく、自分たちに都合の良い『便利な道具』しか見ていなかった。……国が滅びかけているのは、私を捨て、自分たちの欲望と怠慢に溺れた結果です。自業自得という言葉をご存じですか?」


アルマの言葉には、怒りすら含まれていなかった。

ただ淡々と、動かしがたい「真実」を述べているだけだった。それがかえって、ヴィンセントたちの胸に突き刺さる。


「くっ……ええい、無駄話は終わりだ! 力ずくでも連れて行く! 捕まえろ!」


ヴィンセントが痺れを切らして手を突き出した瞬間——


ドォン!!


猛烈な圧力が騎士たちを襲った。


「がはっ……!?」


ヴィンセントたちは、まるで目に見えない巨大な足で踏みつけられたかのように、大理石の床に激しく叩きつけられた。


「我がギルドの冒険者に手を出すなと言ったはずですが?」


声を掛けたのは、ギルドの奥からゆっくりと歩み出てきた巨大な男。

ルクシオン冒険者ギルドの支部総長であり、元Sランク冒険者の「鬼神」バルトロだった。

彼の放つ圧倒的な威圧感(覇気)だけで、騎士たちは指一本動かすことすらできない。


「それにな……」

バルトロは地鳴りのような低音で続けた。


「アルマはこの公国にとって、かけがえのない大切な恩人だ。お前らみたいな腐れ国家の身勝手な都合で連れて行かれてたまるか。……命が惜しくば、三分以内にこの街から失せろ」


周りの冒険者たちも一斉に武器に手をかけ、殺気を跳ね上げる。

数百人のベテラン冒険者たちの殺気を一身に浴び、ヴィンセントは恐怖で尿を漏らしそうになりながら、惨めな声を上げた。


「ひ、ひぃぃぃっ! 退却! 退却だぁぁぁ!」


騎士たちは這うようにしてギルドから逃げ出し、蜘蛛の子を散らすように街から走り去っていった。


その背中を見送りながら、アルマは小さく息を吐いた。


「アルマちゃん……大丈夫?」

サクラが心配そうに覗き込んでくる。


アルマは仲間たちに向き直ると、最高の笑顔を浮かべて答えた。


「ええ、大丈夫よ! ごめんなさい、みんな。私のことで迷惑をかけちゃって」


「なに言合ってんだ! 迷惑なもんかよ!」

ガルドが胸を叩く。

「お前は俺たちの仲間だ。あのバカ王子にも、腐った国にも渡さねえよ!」


「そうよ、アルマちゃんは私たちの宝物なんだから!」


仲間たちの暖かい言葉に、アルマの胸の奥が熱くなった。

かつて王宮でどれだけ求めても得られなかった「温もり」と「絆」が、ここにはあった。


「みんな……ありがとう!」


その頃、惨敗して逃げ帰った使節団を待っていたのは、更なる絶望だった。

王都ルミナスは既に、北方の魔獣と地下から溢れ出た暗黒の魔素によって完全に包囲され、最後の崩壊へのカウントダウンを開始していたのである。


第8章:自滅の果てに(前編)

使節団が全滅に近い醜態を晒して戻ってきた報せを聞き、レオン殿下は発狂せんばかりに暴れ回った。


「使えないゴミめ! なぜ力ずくで引きずってでも連れてこなかったのだ! ヴィンセント、貴様など不敬罪で打ち首だ!」


「で、殿下……お言葉ですが、アルマ様のご決意は固く、それにラズワルド公国の冒険者たちが……」


「言い訳を聞く耳を持たん! 衛兵、こいつを連れて行け!」


もはや正気を失ったレオンの命令に従う衛兵すら、日に日に減っていた。給金は滞り、街は地獄絵図。兵士たちも次々と脱走していたのだ。


王宮の豪華な庭園は枯れ果て、かつて美しい音色を奏でていた噴水からは黒く濁った泥水が噴き出している。


「レオン様ぁ……お腹が空きましたわ……」


ボロボロのドレスを着たエレノアが、痩せこけた体で縋り付いてきた。

かつての愛くるしい桃色の髪はボサボサに傷み、顔は垢で汚れている。


「うるさい! 鬱陶しいぞ浮気女め!」

レオンはエレノアを蹴り飛ばした。


「お前さえ……お前さえ現れなければ! アルマは今も私の傍らで私を癒やし、国を守っていたのだ! すべてはお前のせいだ!」


「そんな……っ! レオン様だって、私の光を『素晴らしい』って褒めてくれたじゃないですか! アルマ様を追い出そうって言ったのはレオン様じゃないですかぁ!」


「黙れ黙れ黙れぇ!!」


醜い責任の擦り付け合い。

だが、そんな不毛な争いを嘲笑うかのように、地鳴りのような重低音が王都全体を揺らした。


ズズズズズ……ッ!!


「な、なんだ!? 地震か!?」


王宮の天井からパラパラと土沙が落ちてくる。

給仕の者が血相を変えて飛び込んできた。


「で、殿下ぁぁぁ! 大結界が……大結界が完全に霧散いたしました! 外囲の魔導障壁が崩壊し……結界の外に集まっていた数万の魔獣の群れが、王都内へ雪崩れ込んできましたぁぁぁ!」


「ヒィッ……!?」


レオンの膝がガクガクと震え、その場に崩れ落ちた。


「馬鹿な……嘘だ……! 我がエルディア王国が……千年の歴史を誇る我が国が、こんなあっけなく……!?」


悲鳴と怒号、炎の爆発音が王都のあちこちから上がり始めた。

アルマという「唯一の柱」を失った欠陥建築は、柱を抜かれてから一ヶ月という短い期間で、跡形もなく崩れ去ろうとしていた。


「レオン様! 助けて! 助けてください!」

エレノアが足元に縋り付くが、レオンは彼女を振り払い、一人で王宮の地下隠し通路へと逃げ出した。


「私は王子だ! こんなところで死んでたまるか! アルマ……アルマさえいれば……! くそっ、なぜ私を助けに来ないのだあの女はぁぁぁ!」


自分の犯した罪の重さにも、身勝手さにも、最期まで気づくことのないまま。

レオンは暗い地下通路へと駆け込んでいった。しかし、その通路の先にも既に、暗闇を好む魔物たちが牙を剥いて待ち構えていることを、彼は知る由もなかった。


王国の命運は、ここに完全に潰えたのである。


第9章:崩壊の終曲と、置き去られた者たち

エルディア王国の崩壊は、あまりにも急速で、かつ悲惨な幕切れを迎えた。


王都ルミナスを包んでいた大結界が跡形もなく消滅したその瞬間、外縁部に留まっていた無数の魔獣が一斉に市街地へと雪崩れ込んだ。北方の極寒地帯から流れてきた古代魔獣や、障気に侵されて狂暴化した魔物の群れは、防壁を軽々と破り、王都の街並みを踏みつぶしていく。


「逃げろ! 魔物だぁぁぁ!」

「結界はどうした!? 聖女様は何をしているんだ!」


悲鳴と怒号が街に充満する。しかし、混乱を収めるべき騎士団は既に統率を失っていた。給与の未払いや戦力補給の絶望から、多くの騎士や兵士たちは真っ先に武器を捨て、自分の家族や財産を抱えて逃亡を図っていたからだ。


「助けて……レオン殿下! エレノア様!」


助けを求める庶民の声は、虚しく炎の中に消えていく。

かつてアルマが夜を徹して魔力を注ぎ込み、平和を保っていた街並みは、ほんの数時間で黒煙と炎に包まれる地獄絵図へと変貌した。


一方、地下の隠し通路へと逃げ込んだ第一王子レオンは、暗闇の中で激しい息を吐きながら必死に足を動かしていた。


「ハァ、ハァ……私だぞ、この国の王となるべきレオンだぞ! なぜ私がこんな惨めな目に遭わねばならないのだ!」


金銀財宝を詰め込んだ重い袋を両手に抱え、つまずきながらも先を急ぐ。この隠し通路は、王家にのみ語り継がれる緊急脱出路であり、城の外の森林へと繋がっているはずだった。


「そうだ、外に出さえすれば……公国へ逃げ延び、身分を隠して金で冒険者でも雇えばいい。そしてアルマを見つけ出し、私に服従させれば……また国を再建できる!」


土壇場に至ってもなお、レオンは己の過ちを理解していなかった。

アルマが追放された後も、ただの「便利な道具」が手元から失われたとしか思っておらず、自分の言葉ひとつで彼女が再び自分に平伏すると思い込んでいた。


その時だった。


通路の先から、カチカチという気味の悪い不快な音が聞こえ始めた。


「……ん? なんだ……?」


レオンが松明の火を前にかざすと、そこには無数の「赤い目」が暗闇の中に浮かび上がっていた。


「ひっ……!?」


それは、結界の消失によって地下水脈から侵入してきた、体長二メートルを超える暗黒大蜘蛛(ダーク・スパイダー)の群れだった。本来なら強力な浄化結界によって地下深くへ封印されていた魔物たちだ。


「来るな! 来るな! 私は王族だぞ! 控えよ!」


レオンは腰の剣を抜き、狂ったように振り回した。しかし、長年実戦から遠ざかり、贅沢に甘んじていた彼の剣筋など、魔物には何の脅威でもなかった。


シュッ——!


闇の中から放たれた粘着質の糸が、レオンの手首に絡みつく。


「あギャッ!?」


剣がカランと音を立てて床に落ちた。続いて放たれた無数の糸が、瞬く間にレオンの全身を縛り上げていく。


「やめろ……放せ! 助けてくれ! アルマ! アルマぁぁぁぁぁっ!」


絶望の悲鳴は、地下通路の湿った壁に虚しく響き渡り、やがてゴソゴソという肉を食む不快な音とともに完全に途絶えた。


時を同じくして、王宮の庭園に一人取り残されていた偽聖女エレノアもまた、惨めな結末を迎えていた。


「どうして……どうしてこんなことに……」


泥と埃に塗れた桃色の髪を振り乱し、エレノアは地面に這いつくばっていた。

彼女はかつて、素朴な村娘に過ぎなかった。しかし、生まれつき持っていた「人を魅了するピンクの光」を神託の力だと偽り、贅沢な暮らしと権力を手に入れようと画策したのだ。


本物の聖女であるアルマを追い落とした時は、自分の知恵と魅力で世界を手に入れたのだと絶頂感に浸っていた。しかし、待っていたのは「本物の聖女がこなしていた常軌を逸した仕事量」と、それをこなせないことによる「国家の破滅」だった。


「誰か……誰か助けて……! 私、聖女なのよ……? 可愛くて、みんなに愛される聖女なのよ……!?」


彼女の目の前に、影が落ちた。

見上げると、そこには巨大な肉食魔獣——ベアウルフが、血走った目で自分を見下ろしていた。


「あ……あ……」


エレノアが必死に両手を掲げ、甘い香りのするピンクの光を放つ。


「好きになって……私を助けて……っ!」


しかし、空腹と障気で狂暴化した魔獣に、そんな魅惑の魔法が通じるはずもなかった。ベアウルフは鬱陶しそうに巨大な前脚を振り下ろした。


ドカッ!!


「ギャッ——!?」


吹き飛ばされ、崩れた石柱に激突したエレノアは、そのままピクリとも動かなくなった。

彼女が最期に目にしたのは、かつてアルマをあざ笑った大聖堂のステンドグラスが、黒煙とともにガラガラと崩れ落ちていく光景だった。


エルディア王国は、一日と持たずに完全に機能停止した。

王族は全滅し、街は魔物の巣窟となり、国家としての形を完全に失ったのだった。


第10章:光あふれる明日へ

エルディア王国が滅亡したという衝撃的なニュースは、瞬く間に大陸全土へと駆け巡った。

しかし、国境を隔てたラズワルド公国の開拓都市ルクシオンでは、いつもと変わらない活気あふれる日々が続いていた。


「はい、お会計は銀貨三枚になります!」


街の広場に建てられた新しい治療院で、アルマは笑顔で患者に応対していた。

エルディア王国から命からがら逃げ延びてきた難民たちも、このルクシオンへと多く流れてきていたが、公国政府と冒険者ギルドは素早く彼らを受け入れ、アルマたちの協力のもとで迅速な救済措置をとっていた。


「アルマ様、本当にありがとうございます……! この子の熱が、一瞬で下がるなんて……」


幼い子供を抱いた母親が、涙を流しながら深々と頭を下げる。


「いいえ、もう大丈夫ですよ。この街なら魔物に脅かされることもありません。ゆっくり休んでくださいね」


アルマは優しく微笑み、子供の頭を撫でた。


「おい、アルマ! そっちの治療は終わったか?」


治療院の入口から顔を出したのは、冒険者パーティーの仲間である重戦士ガルドと弓使いのサクラ、そして魔導士のルイだった。


「ガルドさん! はい、これで午前の診察は終わりです!」


「よし、じゃあ約束通り、ギルドの食堂でメシにしようぜ! 今日の日替わりは、最高級の『トウロック牛のステーキ』だそうだ!」


「わあ、本当ですか!? サクラちゃん、急いで片付けちゃいましょう!」


「うんっ! アルマちゃん、私もお手伝いするね!」


楽しそうに笑い合う少女たちの声が、秋の心地よい風に乗って空へと溶けていく。


かつて王宮にいた頃のアルマは、「聖女」という重圧と責任感に押し潰され、自分自身の幸せなど考えたこともなかった。毎日を他人のために捧げ、削り取られ、最終的には「偽物」と侮辱されて捨てられた。


しかし、今のアルマには、背中を任せられる信頼できる仲間がいる。

自分の努力を正当に評価し、感謝してくれる人々がいる。

そして何より、自分の意思でどこへでも行ける「自由」があった。


昼食時、活気あふれる「赤き獅子亭」の大きなテーブルを囲み、アルマたちは賑やかに乾杯した。


「アルマのAランク昇格と、治療院の完成に……乾杯!」

「乾杯ー!」


冷えた果実ジュースをゴクゴクと飲み干し、ジューシーなステーキ肉を頬張る。


「おいしい……! 本当に、ここでのご飯は毎日最高ですね!」


「ハハハ! アルマが美味そうに食う姿を見るのが、俺たちの1番の楽しみだからな!」

ガルドが満足そうに髭を擦った。


すると、受付嬢のミーナが書類を抱えて近寄ってきた。


「アルマさん、公国の首長様から直々の依頼が届いていますよ。隣国の街道に発生した大規模な障気の浄化と、新ルートの開拓支援です。……もちろん、受けるかどうかはアルマさんの自由ですが」


アルマは差し出された書面を受け取り、瞳を輝かせた。


「隣国の新ルート……! まだ見たことのない街や、新しい植物がたくさんありそうですね!」


「ええ、とても広大な土地だと聞いています」


「受けます! みんな、一緒に行ってくれますか?」


アルマが振り返ると、仲間たちは当然と言わんばかりにニヤリと笑った。


「当たり前だろ! 俺たちはアルマの護衛兼、専属パーティーなんだからな!」

「どこまでもついて行くわよ、アルマちゃん!」

「僕の知識も、新しい土地で役に立つといいんだけどね」


仲間たちの頼もしい言葉に、アルマの心は温かい光で満たされた。


自分を裏切り、虐げたエルディア王国がどうなったか、アルマは風の噂で知っていた。しかし、そこに何の未練も、後悔も、復讐の快感すら感じなかった。

ただ「自分とは無関係の、遠い過去の出来事」として、静かに胸の奥に片付けられていた。


人は、自分を大切にしない場所にとどまる必要はない。

奪われた光は、自分自身の手でいくらでも取り戻すことができるのだから。


「さあ、明日からの冒険の準備を始めましょう!」


青空の下、眩しい笑顔を浮かべた元聖女の少女は、仲間たちとともに、まだ見ぬ広い世界へと向かって元気に駆け出していった。


エピローグ:滅びのあとに生える草

エルディア王国が存在していたかつての広大な領土は、今や「黒の廃墟」と呼ばれている。


城壁は崩れ落ち、街は森へと呑まれ、かつて繁栄を極めた王都の跡地には、ただ冷たい風が吹き抜けるばかりだ。魔物たちも、食い尽くすものがなくなると自然と他の地域へと去っていき、そこには静寂だけが残された。


しかし、完全な死の地となったわけではなかった。


王都の中心部——かつてアルマが「ただの生活魔法」として、密かに大地に分け与えていた神聖魔力の残り香が、土壌の底深くに残っていたのだ。


数年後。

その廃墟の真ん中に、ぽつんと芽生えた一輪の小さな白い花があった。


それは、かつてアルマが好んでいた、野に咲く名もない小さな花だった。

国が滅び、傲慢な王族も、嘘つきの偽聖女も姿を消したあとで、アルマが遺した本物の「生命の光」だけが、ひそやかに大地を癒やし始めていた。


だが、その恩恵を教授する者は、もうその国には誰一人として存在しなかった。


遥か遠くの青空の下で、今日も元気に笑っている「自由な冒険者」の少女の姿を思い描く者は、もはや誰もいなかったのである。


殿下の言葉に呼応するように、周囲を囲む近衛騎士たちが一斉に槍の柄を床に突き立てた。重く鈍い音が聖堂内に響く。


「……レオン殿下。私が偽聖女とおっしゃる根拠を、いま一度伺ってもよろしいでしょうか」


私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。

過去五年間、私はこの国のために休むことなく働き続けてきた。

北方の極寒地帯の結界を維持し、南方の疫病を浄化し、王国の農地を潤す神聖魔力を注ぎ込み続けてきた。睡眠時間は一日数時間。食事も満足にとれず、ただ国民の笑顔のために身を粉にして捧げてきたのだ。


それを、「偽り」の一言で片付けられるとは。


「ふん、白々しい! エレノアが示してくれたのだよ。真の聖女しか扱えぬ『原初の光』の輝きをな!」


殿下の合図とともに、エレノアが前に踏み出た。

彼女が両手を掲げると、その掌から眩いばかりのピンク色の光が放たれた。華やかで、甘い香りが漂うような光。大聖堂に集まった貴族たちから「おお……!」と感嘆の声が上がる。


「見よ! これこそが真の聖女の証! 貴様の地味で薄汚い透明な光とはまるで違う!」

「……殿下。聖魔力の本質は色の華やかさではなく、その密度と純度です。その光は——」


「黙れ!」


レオン殿下は私の言葉を遮り、冷酷な視線で見下ろした。


「言い訳は無用だ。エレノアの光に触れた者はみな心が安らぎ、体力が回復すると言っている。現に、私の長年の肩こりも一瞬で吹き飛んだのだ! それに引き換え、貴様の魔力はただ温かいだけで何の効果も感じられんかった!」


(それは……私が毎日、殿下がお気づきにならないよう、極限まで負担をかけない穏やかな出力で体調管理の浄化をかけ続けていたからなのですが……)


喉まで出かかった言葉を、私は呑み込んだ。

何を言っても無理だ。殿下の目はすでにエレノアという新たな毒に侵され、真実を見る力を失っている。


エレノアが、悲しそうな上目遣いで私を見つめてきた。


「アルマ様……ごめんなさい。でも、神様が私に言ったんです。『偽りの聖女から、奪われた地位を取り戻しなさい』って……。アルマ様が私を憎むのは当然です。でも、国のためなんです……っ」


ぽろぽろと涙をこぼすエレノア。レオン殿下は優しく彼女の肩を抱き寄せ、睨みつけるように私を見た。


「健気なエレノアをこれ以上傷つけるな! アルマ、お前の聖女の証である『聖杯の指輪』を返還し、直ちにこの国から去れ。二度と我が国の土を踏むことは許さん!」


指輪——王家に代々伝わる、聖女の魔力を増幅するための霊具。

私は静かに左手の薬指から、鈍い光を放つ銀の指輪を外した。


「わかりました。……この指輪、お返しいたします」


指輪を大理石の床に置くと、カランと虚しい音が響いた。


「アルマ、最後に言い残すことはあるか? 悔い改め、命乞いをするならば、辺境の修道院で一生を終える慈悲くらいは与えてやってもいいぞ」


レオン殿下は勝ち誇った顔でそう言った。

彼はきっと、私が泣き叫び、縋り付いてくると思っていたのだろう。


だが、私の心の中にあったのは、深い絶望でも激しい怒りでもなかった。

胸の奥から湧き上がってきたのは——圧倒的な「解放感」だった。


(ああ……これで、やっと休める)


毎朝早朝に起きて、国中の結界を点検する必要もない。

我儘な貴族たちの怪我を癒やすために連日連夜引きずり回されることもない。

殿下の浮気癖や横暴さに目を瞑り、完璧な婚約者として振る舞う必要もないのだ。


私はすっと立ち上がり、ドレスのスカートを軽く払った。


「いいえ。何もございません。殿下、そしてエレノア様。どうぞお幸せに」


「……なに?」


拍子抜けしたような殿下の顔。

私は深々と一礼し、一度も振り返ることなく大聖堂を後にした。


背後でエレノアの「アルマ様、どうかお達者で……」という嘘くさい声と、殿下の「ふん、強がりを」という鼻で笑う声が聞こえたが、どうでもよかった。


青空の下に出た瞬間、冷たい風が私の頬を撫でた。

私は聖女の重い衣装を脱ぎ捨てるように、身に着けていたアクセサリーをすべて聖堂の階段に置き、ただの麻のワンピースと旅用のブーツに着替えた。


「自由だ……!」


私は生まれて初めて、心からの笑顔を浮かべた。


追放? 結構じゃない。

私はこれから、ずっと憧れていた「冒険者」になって、自分のために生きるのだ。


国がどうなるか?

知ったことではない。彼らが「偽物」と呼び、不要だと捨て去ったのは私なのだから。


こうして、私——アルマの、自由気ままな冒険者生活が幕を開けた。

そして同時に、聖女を失った王国の、終わりのカウントダウンが始まったのだった。

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