冷凍庫の眠り姫
うちの研究室には、給湯室の主がいる。
冷蔵庫には番人がいる。
そして冷凍庫には、たぶん、眠っているものがいる。
そう言うと、たいていの人は「もう研究室ではなく民俗資料館では」と言う。失礼な話である。
研究室は、もともと半分くらい民俗資料館みたいなものだ。誰が持ち込んだかわからないマグカップ、何代前の先輩が残したかわからないUSBケーブル、誰も使い方を覚えていない測定機器。由来不明のものが平然と居座っている場所で、冷凍庫だけが無垢であるはずがない。
異変に最初に気づいたのは、今回は佐伯くんではなかった。
田村さんだった。
田村さんは、今年の春に研究室へ来た修士1年だった。
「高槻さん」
田村さんは、冷凍庫の前で両手を合わせていた。
祈っているようにも見えたし、謝っているようにも見えた。研究室でその姿勢を見たとき、たいていの場合、謝っているほうである。
「どうしました」
「冷凍庫が開きません」
「凍っているのでは」
「冷凍庫なので、それはそうなんですけど」
田村さんは困った顔で、冷蔵庫の下段を指さした。うちの研究室の冷凍庫は、引き出し式である。普段は保冷剤とアイスと、誰かが学会でもらってきた謎の冷凍土産で雑然としている。
私は取っ手に手をかけた。
開かなかった。
少し力を入れた。
開かなかった。
もう少し力を入れた。
冷凍庫の奥で、低く何かが鳴った。
コオオ。
「いま、鳴りましたよね」
田村さんが小さな声で言った。
「冷凍庫ですから」
「でも、普通の音じゃなかったです」
「普通の冷凍庫の音を厳密に定義したことがありません」
「高槻さん、現実から逃げています」
逃げたいときもある。
そのとき、背後から声がした。
「冷凍庫ですか」
振り返ると、佐伯くんがいつの間にか立っていた。
彼は冷凍庫を見る目をしていた。
正確には、怪異を発見したときの目をしていた。
「佐伯くん」
「はい」
「まだ何も言っていません」
「でも、冷凍庫が開かないんですよね」
「はい」
「そして低く鳴った」
「はい」
「それはもう、かなり言っています」
田村さんは不安そうに佐伯くんを見た。
「冷凍庫が言っているんですか」
佐伯くんは厳粛な顔で答えた。
「起こすな、と」
「冷凍庫を?」
「中のものをです」
田村さんの顔色が変わった。
「中のもの……」
私は田村さんを見た。
「田村さん」
「はい」
「何を入れましたか」
「冷凍チーズケーキです」
「それは、名前を書きましたか」
田村さんは目をそらした。
「書こうとは思っていました」
「つまり、書いていないんですね」
「はい」
「日付は」
「それも、書こうとは思っていました」
「つまり、書いていないんですね」
田村さんは小さくうなずいた。
佐伯くんが、冷凍庫をじっと見た。
「なるほど」
「何がなるほどですか」
「冷蔵庫の番人は、名前と期限に厳しかった」
「はい」
「冷凍庫も、そこは見ているんですね」
「冷凍庫なのに?」
田村さんが不安そうに言った。
佐伯くんは真剣な顔で答えた。
「冷凍したからといって、存在が曖昧になっていいわけではありません」
妙に正しいことを言った。
私は冷凍庫の取っ手に手をかけたまま、ため息をついた。
「つまり、無記名の冷凍チーズケーキが、冷凍庫の機嫌を損ねた可能性があると」
「はい」
「ただの管理不備ですね」
「研究室では、管理不備がいちばん怪異に近いです」
それは否定できなかった。
冷蔵庫の番人は、期限を見ていた。
誰のものか、いつまでのものか、それをはっきりさせろと言っていた。
冷凍庫は、たぶん少し違う。
期限を過ぎたものを責めるというより、いつまでも眠らせたまま忘れることを嫌うのだと思う。
田村さんは、冷凍庫の前で小さく手を合わせた。
「すみません。今週中に食べます」
その瞬間、冷凍庫の奥で、低く霜が鳴った。
ピシッ。
佐伯くんがうなずいた。
「聞いていますね」
「冷凍庫が?」
「冷凍庫が」
「聞いているなら開いてほしいです」
田村さんが言った。
それも、かなり正しいことだった。
私はもう一度、冷凍庫の取っ手を引いた。
今度は、少しだけ開いた。
白い冷気が、床にこぼれるように流れた。その隙間から、付箋が1枚、ひらりと落ちた。
佐伯くんが拾い上げる。
そこには、きれいな字でこう書かれていた。
『名を持たぬもの、眠り続けるべからず』
田村さんは泣きそうな顔になった。
「私のチーズケーキのことですか」
「チーズケーキだけではないでしょうね」
私は冷凍庫の奥を見た。
手前には、田村さんのものらしい冷凍チーズケーキがあった。その横には保冷剤がいくつも積まれている。奥には冷凍ご飯、さらにその奥に緑色の袋が見えた。
「田村さん」
「はい」
「あれは何ですか」
「……ずんだ餅です」
「いつのですか」
「去年の学会です」
佐伯くんが息をのんだ。
「眠っていますね」
「寝かせすぎです」
「発酵ではなく、凍結です」
「どちらにしても、食べ物で時間を稼がないでください」
田村さんは耳まで赤くなった。
「あとで食べようと思っていたんです」
「そのあとで、が長すぎました」
「はい」
「ほかには」
「冷凍ご飯が2つと、アイスが1つと、たぶん私の保冷剤が3つくらいです」
「たぶん」
「保冷剤って、途中から誰のかわからなくなりませんか」
「なりますが、そこで諦めると研究室が保冷剤に支配されます」
「もうされている気もします」
否定はできなかった。
私たちは、冷凍庫の中身を順番に取り出した。
田村さんの冷凍チーズケーキには、いつの間にか付箋が貼られていた。
『仮眠』
「仮眠って書かれています」
田村さんが言った。
「まだ許されていますね」
佐伯くんが言った。
「冷凍庫は寛容です」
「寛容というより、猶予ですね」
私はチーズケーキを田村さんに渡した。
「名前と日付を書いてください」
「はい」
田村さんはすぐにマジックを取り出した。
『田村 5月13日 今週中に食べる』
佐伯くんが横から見て、うなずいた。
「覚悟がありますね」
「覚悟がないとチーズケーキも食べられないんですか」
「この研究室では、ときどきそうなります」
次に、ずんだ餅を取り出した。
袋には霜がついていて、文字が読みにくかった。賞味期限は、去年の秋だった。
田村さんが小さく手を上げた。
「それも、たぶん私です」
「たぶん」
「学会から帰ってきた日に、あとで食べようと思って」
「あとで、が半年以上続いたんですね」
「研究計画みたいですね」
「自分で傷を広げないでください」
ずんだ餅には、赤い付箋が貼られていた。
『夢、長すぎ』
佐伯くんが感心した顔をした。
「冷凍庫、言葉が少し詩的ですね」
「長く眠るものを相手にしているからでしょうか」
「高槻さんも、だいぶ受け入れていますね」
「受け入れないと進まないんです」
さらに奥から、冷凍みかんが出てきた。
それは、みかんというより、小さな化石だった。透明な袋の中で、丸いものが白く霜をまとっている。名前はない。日付もない。ただ、袋の隅に古い付箋の跡だけが残っていた。
田村さんが言った。
「それは、私じゃないです」
佐伯くんも首を振った。
「僕でもありません」
私は冷凍みかんを見た。
「教授に聞きましょう」
教授はすぐ近くの机で、何かの書類を読んでいた。私が冷凍みかんを見せると、教授は少し懐かしそうな顔をした。
「ああ」
「ご存じですか」
「たぶん、先々代の博士課程の子のものだね」
田村さんが固まった。
「先々代」
佐伯くんがつぶやいた。
「伝承ですね」
「食べ物を伝承にしないでください」
教授は冷凍みかんを見つめた。
「彼女、修了の日に、あとで食べますって言っていた気がする」
「食べていないじゃないですか」
「忙しかったんだろうね」
「修了後もずっと?」
「人生はいろいろあるから」
教授はしみじみと言った。
その言い方をされると、冷凍みかんをただ捨てるのも、少しだけ申し訳ない気がした。
そのとき、冷凍みかんの袋に新しい付箋が貼られていることに気づいた。さっきまではなかったはずだ。
『起こすべき時あり』
田村さんは冷凍みかんを見た。
「これ、どうすればいいんですか」
佐伯くんは厳粛に言った。
「解凍でしょう」
「食べるんですか」
「食べるとは限りません。起こすんです」
「みかんを?」
「みかんを」
私はため息をついた。
「では、解凍して、状態を確認して、食べられなければ処分しましょう」
「高槻さん」
佐伯くんが言った。
「はい」
「それはとても現実的ですが、少し寂しいです」
「研究室の衛生は、寂しさより優先されます」
「名言ですね」
「名言にしないでください」
その日の夕方、私は冷凍庫の扉に新しい紙を貼った。
『冷凍庫利用規程
1、名前を書くこと。
2、日付を書くこと。
3、いつ食べるかを書くこと。
4、冷凍は永遠ではないこと。
5、奥に押し込んだものは、消えたのではなく、未来の自分に送られたものであること。
6、未来の自分は、だいたい困ること。』
しばらく沈黙があった。
冷凍庫は何も言わなかった。
ただ、奥のほうで小さく霜が鳴った。
ピシッ。
それは、不満ではなく、了承の音に聞こえた。
田村さんは、名前を書いた冷凍チーズケーキを大事そうに戻した。
「今週中に食べます」
「必ず食べてください」
「はい」
佐伯くんが横でうなずいた。
「田村さん、これは誓約です」
「そんなに重いんですか」
「冷凍庫への誓約は重いです」
「冷たいだけに?」
田村さんが言った。
沈黙が落ちた。
佐伯くんが少し考えてから言った。
「今のは、冷凍保存しておきましょう」
「やめてください」
田村さんは言った。
「後日解凍されたくないです」
その夜、帰る前に給湯室を確認すると、冷凍庫の扉に小さな付箋が増えていた。
『眠らせるなら、迎えに来い』
私はそれをしばらく見つめた。
それから、自分の机に戻り、明日やろうと思っていた書類を1つだけ開いた。
冷凍庫に入れたわけではない。
それでも、未来の自分に押しつけていたことには変わりなかった。
翌日、田村さんは昼休みに冷凍チーズケーキを解凍して食べた。
佐伯くんはそれを見届けた。
私はなぜか、完了確認の印鑑を押したい気持ちになった。
冷凍庫は静かだった。
ただ、チーズケーキの空き箱に、1枚だけ付箋が貼られていた。
『起床確認』
田村さんはそれを見て、少し笑った。
「ちゃんと起こせてよかったです」
佐伯くんは真剣にうなずいた。
「冷凍庫も安心したと思います」
私は冷凍庫を見た。
白い扉は、何も答えなかった。
けれど、低く、静かに、いつもより少しだけ穏やかな音を立てていた。
コオオ。
研究室では、眠らせておきたいものがたくさんある。
食べ物も、書類も、返事も、少し気まずい記憶も。
けれど、どれも本当は、いつか起こしに行かなければならない。
たぶん冷凍庫は、そのことを誰よりも冷静に知っている。
そして私は、冷凍庫の扉に貼られた利用規程の下に、小さく1文を書き足した。
『調停者も、先延ばしを冷凍しないこと。』
その瞬間、背後で佐伯くんが言った。
「高槻さん」
「はい」
「いま、自分で自分に付箋を貼りましたね」
「言わないでください」
佐伯くんが、小さく笑った。
冷凍庫も、ほんの少しだけ、笑ったように鳴った。




