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もう恋愛はいいので私の隠居生活を邪魔しないでください と言ったのに  作者: 月雅


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第9話「名前の重さ」

もう、嘘はつけない。


夜明け前の離宮。俺は客間の寝台の上で天井を見つめていた。


ハインツ経由で、兄上からの言葉が届いたのは昨日のことだった。信頼できる騎士が一人、離宮の裏門に現れ、口頭で伝えた。


「弟に伝えよ。影の任は解く。しかし、宮中は安全ではない」


口頭伝達。書面は残さない。影武者に関わる物的証拠を残さないのは、王家の鉄則だ。兄上らしい判断だった。


影の任を解く。


その言葉の意味を、俺はまだ飲み込めずにいた。


生まれてからずっと「影」だった。公的な記録には存在しない人間。兄の代わりに毒を飲み、兄の代わりに刃を受け、兄の代わりに暗闇の中で生きてきた。それが俺の存在意義だった。


その任が、解かれた。


俺は自由だ。同時に、王宮の庇護を失った。戻る場所はない。


だが、ここにはフィーネがいる。


毒入りの菓子を前にしても取り乱さなかった人。「この家を守るのに力を貸して」と言った人。俺の正体を知らないまま、俺を信じて共に動いてくれた人。


その人に、まだ嘘をつき続けるのか。


あの毒の件以来、フィーネは俺を「普通の人じゃない」と分かった上で、それでも隣にいることを選んでくれた。「心強い」と言ってくれた。


だからこそ、これ以上は隠せない。隠し続けることは、あの人の信頼を踏みにじることだ。


正体を明かせばフィーネを政治的な危険に巻き込む。その恐怖は消えない。だが、黙っていることの方が、もっとあの人を傷つける。


俺は寝台を降りた。


窓の外が白み始めている。今日、話す。


朝の薬草園。


フィーネはいつも通り、ラベンダーの畝を確認していた。朝露に濡れた紫の花穂を指先で触り、収穫の時期を見極めている。


「フィーネ様」


「何? あ、カモミールの乾燥、昨日のうちに終わらせてくれたのね。ありがとう」


「……少し、話があります」


俺の声の調子に気づいたのだろう。フィーネの手が止まった。


振り向いた目が、真っ直ぐにこちらを見た。


「改まった顔ね。何?」


「中で話したい。マルタさんとヨハンさんがいない時に」


フィーネが少し眉を動かした。だが、頷いた。


「分かった。二人は街に出てる。戻りは昼過ぎよ」


居間。


向かい合って座った。暖炉には火を入れていない。朝の光だけが窓から差し込んでいた。


フィーネは膝の上で手を組み、待っている。急かさない。問い詰めもしない。ただ、目だけが「聞く準備はできている」と語っていた。


俺は息を吸った。


「俺の本当の名は、リヒト・フォン・ヴァイスリヒト」


フィーネの表情が凍った。


「国王陛下の、双子の弟だ」


沈黙が落ちた。


窓の外で鳥が鳴いている。薬草園の方から、風に揺れるラベンダーの葉擦れの音がする。


フィーネは動かなかった。瞬きすらしていないように見えた。


やがて、唇が動いた。


「……ヴァイスリヒト」


「ああ」


「国王陛下の、弟」


「双子の弟だ。公的な記録には存在しない。影武者として育てられた」


フィーネの目が、ゆっくりと細くなった。何かを処理している顔だった。怒りでも悲しみでもなく、膨大な情報を一つずつ組み立てている顔。


「……道理で、やけに剣が強いと思った」


乾いた笑いが漏れた。


だが、すぐに笑いは消えた。


「影武者。つまり、あなたは公的には存在しない人間で、私は知らずにその人を匿っていた」


「はい」


「近衛騎士団長が来たのも、毒入りの菓子も、全部あなたの存在に関わっている?」


「……毒の件は、俺の存在が直接の原因かどうかは分からない。だが、関係している可能性が高い」


フィーネが椅子の背に身を預けた。天井を仰ぐ。


「記憶が断片的、というのは」


「嘘だった。記憶ははっきりしている。正体を隠すために、そう偽った」


「匂いで毒を見分けたのも」


「影武者としての訓練だ。毒物の判別は基礎技能だった」


フィーネの目が天井から戻り、俺を見た。


その目に、怒りがあった。静かな、しかし確かな怒り。


「嘘をついていたのね。ずっと」


「はい」


否定しなかった。できるはずがない。


「すべてを話した上で、それでもここにいたい」


声が震えそうになるのを抑えた。


「俺にはもう、戻る場所がない。影の任は解かれた。王宮には戻れない。だが、それ以上に——ここにいたいと思った。それは本当だ」


フィーネが立ち上がった。


「少し、一人にして」


短い言葉だった。怒鳴りもしない。泣きもしない。ただ、声が硬かった。


俺は何も言えず、頭を下げた。


フィーネが居間を出ていく足音を聞きながら、胸の奥が軋むのを感じた。


翌朝。


一晩、フィーネと顔を合わせなかった。


俺は客間にいた。眠れなかった。夜明けの光が窓に差す頃、廊下に足音が聞こえた。


居間の扉が叩かれた。


「リヒト。起きてるなら来て」


フィーネの声だった。硬さは残っていたが、昨日とは違う響きがあった。


居間に行くと、フィーネが窓辺に立っていた。腕を組み、庭を見ている。振り返った顔は、一晩眠れなかったことを物語っていた。


「一つ確認する」


「はい」


「あなたがこの離宮で薬草の水やりをしていた人間であること。毒を見抜いて私を守ってくれたこと。夜中に外壁を見回っていたこと。それは、嘘じゃなかった?」


「嘘じゃない。それだけは」


フィーネの目が、俺を測るように見つめた。長い沈黙があった。


やがて、フィーネは腕を解いた。


「あなたが王族だろうが影武者だろうが、この離宮で薬草の水やりをしていた人間はあなたでしょう。それは嘘じゃなかった」


胸の奥で、何かが弾けた。


「ただし」


フィーネが指を立てた。


「これからは対等に話して。隠し事は、もうなし。できる?」


「……はい」


「それから、呼び方。あなたの身分がどうあれ、私はあなたを名前で呼ぶ。リヒトはリヒトよ。身分じゃなくて、名前で」


「フィーネ様——」


「様はいらない」


フィーネが遮った。


「あなたが王族なら、本来は私の方が敬語を使うべきでしょう。でも、あなたは公的には存在しない人間で、私はあなたを居候として拾った。その関係を今更変える気はないわ。だから、様はいらない」


その理屈は無茶苦茶だった。身分制度の根幹を無視している。


だが、フィーネらしかった。


「……フィーネ」


名前を、呼んだ。「様」をつけずに。


その二文字が口から出た瞬間、フィーネの肩がわずかに跳ねた。


頬に、薄く赤みが差した。


「……驚いただけよ」


フィーネが早口で言い、窓の方に顔を向けた。


嘘だ。驚いただけではない。俺にはそれが分かった。


だが、今はそれでいい。全てが明らかになった。嘘はもうない。この離宮で、この人の隣で、自分の名前で生きていい。


窓の外で、朝の光が薬草園を照らしていた。


その頃、王宮の宰相府。


ゲオルク・フォン・シュタールは、部下が持ち帰った報告に目を通していた。


王家関連施設の系統的調査。その一環で行われた離宮の周辺調査。


「離宮に、王族の特徴を持つ男がいるとのことです。銀に近い淡い髪、灰青色の瞳」


ゲオルクは報告書を卓に置いた。


口元に、微かな笑みが浮かんだ。目は笑っていなかった。


「離宮の元令嬢と、王の影か。面白い」


宰相の指が、卓の上で静かに動いた。

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― 新着の感想 ―
王太子は国王の息子なんですよね?それだとリヒトさんが二十代代前半で国王の双子の弟っておかしくないですか? それぞれこまかい年齢記載なかったですけど、さすがに無理があるのでは。
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