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もう恋愛はいいので私の隠居生活を邪魔しないでください と言ったのに  作者: 月雅


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第8話「毒の贈り物」

私は箱の蓋を開けた。


朝、離宮の門前に届けられた木箱。白い布に包まれ、蝋で封がしてあった。封の上に小さな札が添えてある。


「王太子殿下より、アールグレイ嬢へ」


マルタが札を読み上げた。


「クラウス殿下から……?」


箱の中には菓子が並んでいた。砂糖をまぶした焼き菓子が、油紙の上に丁寧に並べられている。王宮御用達の菓子屋のものだろう。見た目は上等だった。


だが、妙だった。


婚約を解消して以来、クラウスからの接触は一切なかった。贈り物どころか、書簡すら来ていない。それが突然、菓子を送ってくる理由が思い当たらない。


「お嬢様、召し上がりますか?」


「……いいえ。少し待って」


私は箱を台所の卓に置き、蓋を閉じた。


手をつける気になれなかった。理由は明確ではないが、前世の経験が警告を発している。唐突な好意には、裏がある。会社員時代、嫌というほど学んだことだ。


「リヒト」


庭にいたリヒトを呼んだ。


リヒトは台所に入り、卓の上の箱を見た。札に目を通す。


「王太子殿下からの贈り物ですか」


「そう書いてあるわ。ただ、妙なの。今まで何の連絡もなかった人が、急に菓子を送ってくるかしら」


リヒトの表情が変わった。わずかに目を細め、箱に顔を近づけた。蓋を開け、菓子の一つを手に取る。鼻に近づけ、匂いを嗅いだ。


次に、焼き菓子の表面をほんの少しだけ爪で削り、その粉を指先で擦り合わせた。


その動きは、明らかに何かを確認する手順だった。知識に基づいた、訓練された動作。


「フィーネ様。これを食べてはいけない」


「どういうこと?」


「砂糖に混ぜ物がしてある。微かだが、苦い匂いがする。体が覚えている——これは、毒だ」


毒。


その一言で、台所の空気が変わった。


マルタが息を呑んだ。私は箱を見下ろした。白い砂糖をまぶした焼き菓子。見た目は何の変哲もない。


「確か?」


「間違いない。致死量かどうかは分からない。だが、口にすれば確実に体を壊す」


リヒトの声は低く、平静だった。毒物について語る口調が、あまりにも淀みなかった。


記憶が断片的な人間が、毒物を匂いで判別できる。その事実が何を意味するか——考えるのは後だ。


「マルタ、この箱に触らないで。誰にも食べさせないこと」


「は、はい」


マルタが青い顔で頷いた。


私は箱の蓋を閉じ、油紙で全体を包み直した。札も一緒にしまう。


「証拠として保全する。箱も札も、このまま保管するわ」


前世の知識が動いている。証拠は残す。処分すれば、何があったかを証明する手段がなくなる。


「フィーネ様、王太子殿下に抗議を……」


マルタが言いかけたのを、私は首を振って止めた。


「王太子名義の贈り物を『毒が入っている』と告発して、証拠がこの箱だけ? 相手にされないわ。逆にこちらが王家への不敬を問われかねない」


毒入りだと訴えても、それを立証する手段がない。この世界には、前世のような毒物検査の技術はない。匂いで判別した、では証拠にならないだろう。


「でも、お嬢様——」


「分かってる。放っておくつもりはない。ただ、今は騒がないこと」


リヒトと二人、居間で向かい合った。


マルタには台所の片付けを任せ、ヨハンには今日の街への納品は通常通り行うよう伝えた。日常を崩さないことが、今は最善だ。


「リヒト。あなた、普通の人じゃないのは分かってた」


リヒトが目を伏せた。


「でも、今はそれでいい。この家を守るのに力を貸して」


リヒトが顔を上げた。


その目に、ハインツが訪ねてきた日と同じ揺れがあった。だが、今度はそこに決意のようなものが加わっていた。


「分かりました。俺にできることは、何でもやります」


「まず、裏門の施錠を確認して。それから、敷地の外壁に侵入できそうな箇所がないか、一通り見て回って」


「すぐに」


リヒトが立ち上がった。迷いのない動きだった。


私は一人になった居間で、保管した箱のことを考えた。


王太子名義。だが、クラウスが本当にこれを送ったのだろうか。あの男は自尊心の塊だが、毒を盛るような回りくどい手段を使う人間ではない。少なくとも、私が知っているクラウスは。


では、誰が。


王太子の名を騙り、離宮に毒を送りつけた人間がいる。目的は何だ。私を殺すことか。それとも——別の何かか。


答えは出ない。情報が足りない。


だが、一つだけ確かなことがある。離宮は、誰かに目をつけられている。


夕方、リヒトが外壁の点検を終えて戻ってきた。


「裏門の錠は問題ない。ただ、外壁の北西側に蔦が絡んで足場になりそうな箇所がある。蔦を切るか、何か対策が必要です」


「分かった。明日、ヨハンと一緒にやりましょう」


「それから、敷地の東側。森との境界に低い石垣がありますが、あそこは乗り越えられる高さです。夜間の見回りを増やした方がいい」


リヒトの報告は簡潔で正確だった。軍人か、それに近い訓練を受けた人間の報告の仕方だ。


もう、隠す気もないのだろう。少なくとも、この状況では。


「見回りは、あなたがやるの」


「俺がやります。夜は俺の方が目が利く」


夜目が利く。それもまた、普通の人間の特技ではない。


だが、今はそれが頼もしかった。


「マルタに、街の薬屋への納品ルートを変えてもらう。しばらくは同じ道を使わないように。離宮への来訪者も制限する」


「賢明です」


リヒトが頷いた。


私たちは、互いに全てを知らないまま、それでも共にこの離宮を守る方に動いていた。亀裂は消えていない。リヒトの正体は依然として分からない。だが、毒の入った菓子を前にして、「信じるか信じないか」は棚上げにされた。


代わりに生まれたのは、不完全だが実質的な共闘だった。


「リヒト」


「はい」


「……この人がいてくれて助かった。とは思ってるわ」


口に出してから、しまった、と思った。素直すぎた。


リヒトが少し目を見開いた。それから、小さく笑った。離宮に来てから、初めて見る笑顔だった。


「ありがとうございます」


「心強い、という意味よ。それ以上の意味はないから」


「分かっています」


分かっているなら、なぜそんな顔をするのか。


私は自分の頬が少し熱くなっているのを感じたが、それは夕日のせいだと結論づけた。


その頃、王宮では。


近衛騎士団長ハインツ・ヴェルナーは、ようやく安全な報告経路を確保していた。宰相府を経由しない、直接国王に届く手段。信頼できる騎士を一人選び、口頭で伝達させる。


「陛下にお伝えせよ。御子息はご無事だ。所在は確認した」


騎士が深く頷き、王宮の奥へ消えた。


同じ頃、王太子の私室。


側近がクラウスの前に跪いていた。


「殿下、離宮にお届け物をされましたか」


「何の話だ」


「離宮に、殿下のお名前で菓子が届けられたとの情報がございます」


クラウスの眉が寄った。


「私はそのような指示を出していない」


椅子の肘掛けを掴む指に、力がこもった。


自分の名が、知らぬ間に使われている。それが何を意味するのか——クラウスの目に、初めて不審の色が浮かんだ。

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