第7話「師の訪問」
「まだ生きていたか」
その声を聞いた時、私は離宮の裏庭で薬草の収穫をしていた。
声は離宮の表側から聞こえた。低く、短く、感情を抑えた声。聞き覚えはない。だが、門前に繋がれた馬の鞍には近衛騎士団の紋章があった。
私は籠を置き、表に回った。
離宮の玄関先に、二人の男が立っていた。
一人はリヒト。もう一人は、長身の男だった。鍛え抜かれた体に簡素な外套を羽織り、腰には剣を佩いている。髪は短く刈り込まれ、顔には古い刀傷があった。年齢は四十前後。全身から漂う気配が、ただの騎士ではないことを告げている。
リヒトの顔色が変わっていた。昨日、門前の馬を見た時と同じ——いや、それ以上の緊張がその表情にあった。だが同時に、どこか安堵のようなものも混じっている。
「……ハインツ殿」
リヒトがその名を呼んだ。声が微かに震えていた。
「殿はよせ。お前に殿と呼ばれる筋合いはない」
男——ハインツは、リヒトの顔を見据えた。その目には厳しさがあったが、同時に、長い時間をかけて積もった何かがあった。
私は足を止めた。
近衛騎士団の紋章。リヒトが名前で呼ぶ相手。そしてリヒトの、あの反応。
この二人は、知り合いだ。しかも、ただの知り合いではない。
「お取り込み中かしら」
声をかけると、二人が同時に振り向いた。
ハインツの目が私を捉えた。値踏みするような視線だった。だがすぐに、形式的な——しかし正確な一礼をした。
「失礼いたしました。アールグレイ公爵令嬢でいらっしゃいますか」
「フィーネ・アールグレイです。あなたは」
「近衛騎士団長、ハインツ・ヴェルナーと申します。本日は私用にて。ご無礼をお許しください」
近衛騎士団長。王宮の安全保障の最高責任者が、わざわざこの離宮に。
私用、と言ったが、その言葉を額面通りに受け取る気にはなれなかった。
「リヒトに用事?」
単刀直入に訊いた。
ハインツが一瞬だけリヒトを見た。リヒトは微かに顎を引いた。何かの確認のように。
「ええ。この男と少し話がしたいのですが、お時間をいただけますか」
「どうぞ。居間を使ってください」
私はそう言って、二人を離宮の中に通した。
薬草園に戻り、収穫の続きをした。
だが、手が動かない。
近衛騎士団長が、身元不明の居候を訪ねてきた。しかもリヒトは、その名前を知っていた。記憶が断片的なはずの人間が。
疑念は、最初からあった。洗練された身体の使い方。夜間の見回り。毒物の——いや、それはまだ先の話だ。とにかく、この男が「ただの記憶を失った旅人」ではないことは、もう明らかだった。
ただ、私は訊かないと決めた。その選択を、今も変えるつもりはない。
問題は、訊かないまま、どこまで付き合えるのか、ということだ。
しばらくして、居間の扉が開く音がした。
ハインツが玄関に向かって歩いてくる。私は薬草園から表に回り、門の前で合流した。
リヒトは居間に残っているようだった。
ハインツは馬の手綱を取りながら、私を見た。
「アールグレイ嬢」
「はい」
「あの男を傍に置くなら、覚悟を」
短い言葉だった。それ以上の説明はなかった。
私は黙ってハインツの顔を見た。近衛騎士団長の目は冷静だったが、その奥にある種の切迫があった。この人は、リヒトのことを本気で案じている。そして、私にリヒトを任せることの危険を、本気で警告している。
「覚悟、というのは具体的にはどういう意味ですか」
「それは申し上げられません。ただ、あの男の傍にいることが、あなたにとって安全とは限らない」
「理由も教えてもらえないのに、覚悟だけしろと?」
声に怒りが混じったのを、自分でも感じた。
何も知らされないまま危険だけ背負わされる。それは、理不尽だ。
ハインツは一瞬だけ目を伏せた。
「……お気持ちは分かります。しかし、事情があるのです」
「事情があるのは分かっています。近衛騎士団長が私用で離宮を訪れるような事情が」
ハインツは答えなかった。馬に跨がり、手綱を握った。
「あの男のことは、あの男自身に訊いてください。私からは、これ以上は」
そう言って、ハインツは離宮を後にした。
馬の蹄の音が、街道の方に消えていく。
居間に戻ると、リヒトが窓辺に立っていた。
背をこちらに向けている。窓の外を見ているようで、何も見ていないような目だった。
「リヒト」
振り向いた顔は、穏やかだった。いつもの顔だ。だが、その下に何かを押し込めているのが分かった。この数ヶ月、毎日この人の隣にいたのだ。それくらいは、分かる。
「あなたは何者なの」
初めて、直接訊いた。
リヒトの目が揺れた。
長い沈黙があった。暖炉の火は入れていない。昼の光だけが部屋を照らしていて、リヒトの影が床に長く伸びていた。
「今はまだ、言えません」
「……そう」
「でも、あなたを危険にさらすつもりはない。それだけは」
リヒトが一歩前に出た。その目は真っ直ぐにこちらを見ていた。嘘のない目だと、思いたかった。
「信じてほしい、とは言いません。ただ——」
「言わなくていい」
私はリヒトの言葉を遮った。
信じるとも、信じないとも言えなかった。
昨夜の雨の中で「あなたはあなたでいい」と言った自分と、今「何者なの」と問い詰めた自分が、同じ人間の中にいる。どちらも本当だ。だからこそ、どちらか一方に振り切れない。
「今は、それでいいわ」
それだけ言って、私は居間を出た。
廊下を歩きながら、指先が冷たいことに気づいた。
信頼と秘密の間に、亀裂が入った。
小さな、しかし確かな亀裂だった。
夕方、マルタが街から戻ってきた。
「お嬢様、薬屋の旦那から伝言です。『離宮のお薬の評判が、どうも王宮の方にまで届いているらしい』と」
「王宮に?」
「ええ。街の商人の間で、あちこち話が広まっているようで」
私は黙って聞いた。
薬草事業が大きくなることは望んでいた。だが、王宮にまで届くとなると、話が変わる。
あの場所には、私が二度と関わりたくない人間がいる。
そして今、この離宮には、近衛騎士団長が訪ねてくるような秘密を抱えた人間がいる。
静かな隠居は、もう遠い。
それでも、薬草園の苗は毎朝水を求めるし、街の薬屋は納品を待っている。やるべきことは変わらない。
変わったのは——隣に立つ人間のことを、何も知らないままではいられなくなった、ということだけだ。




