第6話「雨の夜の告白」
雨が、離宮の屋根を叩いていた。
午後から降り始めた雨は、夕刻には本格的な嵐に変わった。風が窓を揺らし、庭の木々が大きくしなる。薬草園の苗が心配だったが、この風では外に出られない。
マルタとヨハンは街への買い出しで外泊していた。週に一度の仕入れの日で、天候が悪くても宿を取って翌朝戻るのがいつもの段取りだ。
離宮には、私とリヒトの二人だけ。
居間の天井から、ぽたり、と水滴が落ちた。
「……雨漏り」
見上げると、天井の漆喰のひび割れから雫が伝っている。築年数を考えれば当然だが、この嵐で一気に悪化したらしい。
「桶を持ってくるわ」
台所に向かおうとした時、リヒトが先に桶を手に戻ってきた。
「ここですか」
「そう。そこに置いて」
桶を据えると、規則的な音で水滴が溜まり始めた。
「他にも漏れている箇所がないか、見て回った方がいい」
「そうね。二階も確認しましょう」
二人で離宮の中を回った。二階の廊下に一箇所、客間の窓枠の隙間から一箇所。それぞれに布や器を置いて応急処置をする。
一通り確認を終えて、居間に戻った。
暖炉に火を入れる。離宮にいてこれが一番ありがたい設備だった。古いが、まだちゃんと機能する。
「お茶を淹れるわ。カモミールでいい?」
「ありがとうございます」
リヒトが暖炉の前に座った。炎の明かりが、その横顔を照らしている。
傷はもう完治していた。離宮に来た頃の蒼白な顔色は消え、日に焼けた肌に変わっている。毎日庭で働いているのだから当然だ。
カモミールの茶を二つの杯に注ぎ、一つをリヒトに渡した。向かい合って座る。
外は嵐。中は暖炉の火と、雨漏りの桶に落ちる水滴の音。
「すごい降りね」
「ええ。薬草園は大丈夫でしょうか」
「カモミールの畝には昨日のうちに覆いをかけたから。ラベンダーは多少の雨には耐える。明日、状態を確認すればいいわ」
「さすがですね」
「何が」
「いえ、事前に手を打っておくところが。……いつもそうですが」
褒められている、のだろうか。よく分からない。私は黙ってカモミール茶を啜った。
雨音が強まった。風が離宮の壁を打つ。
沈黙が、不思議と居心地悪くなかった。
しばらくして、リヒトが口を開いた。
「フィーネ様は、なぜ婚約を解消されたんですか」
唐突な問いだった。だが、不快ではなかった。この嵐の夜、二人きりの離宮で、ようやく訊いてきたか、という感覚が近い。
「されたんじゃなくて、自分からしたの」
「……自分から」
「ええ。理由はいくつかあるけれど、一番は——もう恋愛はいいと思ったから」
リヒトが黙って杯を両手で包んでいた。先を促しもせず、遮りもしない。
「一人で静かに暮らしたかった。それだけよ。大した理由じゃない」
嘘ではない。でも全部でもない。前世の記憶のことは言えない。乙女ゲームの断罪イベントを回避するために先手を打ったなどと、どう説明すればいいのか。
「今は、後悔していませんか」
「していない。離宮の庭に薬草を植えて、それが街の人の役に立って、毎日ちゃんと眠れる。それで十分」
リヒトが小さく頷いた。
暖炉の火が爆ぜた。
「……リヒトは?」
気づいたら、訊いていた。
深入りしないと決めたのに。この人の過去は訊かないと決めたのに。
「俺も、戻れない場所がある」
リヒトの声は静かだった。杯の中のカモミール茶を見つめている。
「誰かの代わりとしてしか、生きてこなかった。自分が何者かなんて、考えたこともなかった」
言葉の一つ一つが、重かった。記憶が曖昧なはずの人間の口から出る言葉にしては、あまりに確かだった。
嘘だ、とは思わなかった。少なくとも、この言葉は嘘ではないと、直感が告げていた。
「誰かの、代わり」
「ええ。俺には、俺自身の名前で生きた時間がほとんどない」
暖炉の炎がリヒトの灰青色の瞳に映っていた。その瞳に、静かな痛みがあった。
踏み込むべきではない。この先を聞けば、もう引き返せなくなる。
それは分かっていた。
なのに、口が動いた。
「ここにいる間は、あなたはあなたでいい」
リヒトが顔を上げた。
「誰の代わりでもなく。離宮の庭師見習いのリヒト。それだけでいいでしょう」
自分でも、なぜこんなことを言ったのか分からなかった。合理的な判断ではない。ただ、あの目に浮かんだ痛みを見て、何かを言わなければいけないと思った。
リヒトが、しばらく動かなかった。
杯を持つ指がわずかに震えているのが、暖炉の明かりの中で見えた。
やがて、リヒトは視線を落とした。
「……ありがとうございます」
その声は、出会った日の「ありがとうございます」よりも、さらに重かった。
何かが伝わってしまった気がした。何を伝えたのか、自分では分からないのに。
雨音が、二人の沈黙を包んでいた。
雨が上がったのは、明け方だった。
目を覚ますと、窓の外が白く明るかった。嵐の後の朝の光は、どこか洗い流されたような清潔さがある。
着替えて階下に降りると、台所に人の気配はなかった。
窓から庭を見た。
リヒトが、薬草園にいた。
いつもより早い。夜が明けてすぐに出たのだろう。嵐で倒れた苗を一本ずつ起こし、流れた土を手で寄せ戻している。
その背中を見た時、胸の奥が妙にざわついた。
昨夜の会話のせいだろうか。「誰かの代わりとしてしか生きてこなかった」と言ったこの人が、朝一番に薬草園の世話をしている。誰に命じられたわけでもなく。
「……なんだろう、この感じ」
首を傾げた。
心当たりがない感覚だった。前世でも、この人生でも、こんなふうに胸がざわつくことはなかった。
深く考えるのは、やめにした。考えても答えが出ないことは、放っておくに限る。
私は台所に向かい、湯を沸かし始めた。リヒトが戻ってきた時のために、カモミール茶を用意する。それだけのことだ。
それだけのことのはずだった。
その日の昼過ぎ、離宮の門前に、見慣れない馬が一頭繋がれていた。
鞍の脇に、紋章入りの布が掛けてある。
近衛騎士団の紋章だった。
私が門の方を見た時、庭にいたリヒトの顔色が変わった。
一瞬だった。だが、あの穏やかな表情が消え、代わりに張り詰めた何かが全身を走ったのが分かった。
「リヒト?」
声をかけたが、リヒトは答えなかった。門の方をじっと見つめている。
その目には、私がこれまで見たことのない色があった。




