第5話「王太子の苛立ち」
フィーネ・アールグレイは、泣かなかった。
婚約破棄の場。王宮の謁見の間。居並ぶ廷臣たちの前で、私はあの女に最後の通告をするつもりだった。エルゼへの非礼を咎め、婚約者としての不適格を宣告する——はずだった。
だがフィーネは、私が口を開くより先に一歩前に出た。
背筋を伸ばし、深く、しかし媚びのない一礼をして、こう言った。
「殿下。婚約の解消を、私の方からお願いしたく存じます」
謁見の間が静まり返った。
私は言葉を失った。怒りでも悲しみでもなく、ただ、予想していなかったのだ。この女が自分から身を引くなどということを。
そしてフィーネは、泣きもせず、取り乱しもせず、声を一切震わせることなく続けた。
「では、慰謝料の件ですが」
あの瞬間の屈辱を、私はまだ飲み込めていない。
王宮、王太子の私室。
数週間が経った今も、あの日の光景が頭から離れない。
私は執務机に肘をつき、側近が持ってきた報告書に目を通していた。領地経営の数字、社交行事の予定、外交文書の草案。どれも以前ならフィーネが下読みをして要点をまとめてくれていた。
今はそれがない。
側近たちは頑張っている。だが、フィーネのように一読で核心を見抜き、私の判断が必要な部分だけを選り分けてくれる人間はいなかった。あの女が婚約者時代に何をしていたのか、いなくなって初めて分かることが増えていく。
「殿下、本日の社交会の件ですが」
側近が声をかける。
「エルゼを呼べ」
「は。ミュラー令嬢をお呼びします」
しばらくして、エルゼが部屋に入ってきた。
薄桃色のドレスに柔らかな巻き毛。大きな瞳を潤ませ、小さく微笑む。かつてはその姿を見るだけで心が弾んだ。
「殿下、お呼びいただきありがとうございます」
エルゼは両手を胸の前で組み、控えめに頭を下げた。
「今夜の社交会だが、侯爵家の夫人方への挨拶の段取りは分かっているか」
「あ……えっと、マルグリット侯爵夫人と、それから……」
エルゼが言い淀んだ。指先が落ち着かなく動いている。
フィーネなら、こんな質問をするまでもなかった。出席者の一覧を事前に確認し、各家との関係と注意点を簡潔にまとめた書面を用意していた。私はそれに目を通すだけでよかった。
「……もういい。側近に確認しておけ」
「は、はい。申し訳ございません、殿下」
エルゼの声が震えた。泣きそうな目がこちらを見上げる。
以前なら、その表情に心が動いた。守ってやりたいと思った。
今は、何も感じない。
いや、感じてはいる。ただそれは、庇護欲ではなく、苛立ちだった。
「下がっていい」
「殿下……」
「下がれと言った」
エルゼが怯えた顔で退室した。
扉が閉まった後、私は椅子の背に身を預けた。
何をしている。エルゼに当たってどうする。あの女は何も悪くない。
いや——悪くないのか。本当に。
フィーネが婚約者だった頃、エルゼは確かに輝いて見えた。控えめで、可憐で、フィーネにはない柔らかさがあった。しかしそれは、フィーネという対比があってこその輝きだったのではないか。
堅実で有能な婚約者の隣に、守ってやりたい無垢な令嬢がいる。その構図があったから、エルゼは特別に見えた。
対比対象がいなくなった今、エルゼは——ただの、実務のできない男爵令嬢だ。
その考えを振り払った。認めたくなかった。
「側近を呼べ」
控えていた従者に命じる。
側近が戻ると、私は一つの命令を下した。
「フィーネの離宮について調べろ。薬草事業とやらの実態を、詳しく」
数日後、報告が上がってきた。
私は執務室で、側近の言葉を聞いた。
「フィーネ・アールグレイ様は、離宮の庭に薬草園を造成し、加工した薬を街の薬屋に卸しておられます。現在、街の三軒の薬屋と取引があり、品質の高さから評判が広がっております」
「品質が高い、というのは」
「街の薬屋の主人が『この辺りでは見たことのない質の薬草だ』と。止血用の粉薬と解熱の煎じ薬が特に人気で、一般の薬より効きが良いと民衆の間で話題になっております」
薬草の質。フィーネが公爵令嬢の教育の中で薬草に触れたことはあっただろうが、それだけでここまでの品質が出せるものなのか。
「また」
側近が声を落とした。
「民衆の間では、こう言われているとのことです。『元王太子のお妃候補だったお方が、婚約を解かれた後も自らの手で生計を立て、民のために薬を作っている』と。美談として広がりつつあります」
私の指が、机の上で止まった。
美談。
つまりそれは、裏を返せばこう読める。「王太子は、これほど聡明で民思いの令嬢を手放した」と。
「……それは、私の判断が誤りだったと言いたいのか」
「滅相もございません。ただ、事実をご報告しているまでです」
側近は深く頭を下げた。だが、その言葉の裏にある意味は明らかだった。
フィーネの成功は、私の失敗の証拠になりつつある。
手出しはできない。離宮の管理権は父上——国王陛下の勅令による正式譲渡だ。フィーネの事業は合法であり、妨害する法的根拠がない。勅令に反する行為は、王令への不敬と同義になる。
「……放っておけ。いずれ飽きるだろう」
「は」
側近が退室した。
一人になった部屋で、私は窓の外を見た。
王宮の庭園が眼下に広がっている。整然と手入れされた花壇。計算された美しさ。
フィーネの薬草園は、きっとこんなものとは違うのだろう。泥にまみれた、実用一辺倒の庭。だが、そこから生まれた薬が民を助け、民がフィーネを慕い始めている。
私がフィーネに与えなかったものを、フィーネは自分の手で作り上げている。
その事実が、何より苛立たしかった。
夜、晩餐の席でエルゼと向き合った。
エルゼはいつものように微笑み、料理の感想を言い、私の好みの酒を気にかけた。
会話は穏やかだった。だが、内容がない。
「殿下、昨日の社交会、とても楽しゅうございました」
「そうか」
「マルグリット侯爵夫人がお美しくて。わたし、あんなドレスを着てみたいですわ」
フィーネなら、侯爵夫人のドレスの話はしない。侯爵家との外交上の関係や、夫人の発言の政治的含意を手短に教えてくれた。
比べるな。比べても仕方がない。
「殿下? どうかなさいましたか」
エルゼが首を傾げた。
「いや。——フィーネの離宮のことだが」
名前を出した瞬間、エルゼの表情が変わった。微笑みが一瞬だけ凍り、すぐに柔らかさを取り戻す。だが、その一瞬の変化を、私は見逃さなかった。
「あの方のことなど、もうお忘れになってくださいませ。殿下のお傍にはわたしがおりますわ」
声は甘い。しかし、その下にある焦りが透けて見えた。
フィーネがいなくなったことで安心しているはずのエルゼが、フィーネの名前に怯えている。
消えた相手が、まだ影を落としている。
「……そうだな」
私は酒杯を口に運び、それ以上は何も言わなかった。
エルゼは笑顔を保っていたが、その笑顔が以前ほど眩しく見えないことに、私は気づいていた。気づいていて、認めたくなかった。
あの女は、なぜこうも私の思い通りにならない。
王太子の万能感が、一人の去った令嬢によって、静かに罅を入れられていく。
翌日。
側近が追加の報告を持ってきた。
「殿下。離宮についてもう一点」
「何だ」
「若い男が出入りしているとの情報がございます。庭師見習いとのことですが、詳細は不明です」
私は報告書を手に取り、目を通した。
元婚約者の離宮に、若い男。
胸の奥で、名前のつけられない感情がざわついた。




