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もう恋愛はいいので私の隠居生活を邪魔しないでください と言ったのに  作者: 月雅


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第4話「毒と薬」

この場所は、本来いるべき場所ではない。


それは分かっている。分かっていて、朝の薬草園に立っている。フィーネ様が選定した畝の間を歩き、昨日の水やりで傾いた苗を直し、虫食いの葉を一枚ずつ確認する。


自分はここに、いていいのだろうか。


胸の傷はほぼ塞がった。腕の切り傷も、もう痛みはない。体が動くなら、出ていくべきだ。ここにいれば、この人に迷惑がかかる。


それなのに、朝が来るたびに庭に出てしまう。フィーネ様が台所の窓から「今日はラベンダーの畝をお願い」と声をかけるのを聞くと、足が動く。


任務でも恩義でもない何かが、自分をここに繋ぎ止めている。


その正体を、まだ名前で呼べずにいた。


王宮の奥、近衛騎士団長の執務室。


ハインツ・ヴェルナーは机の上に広げた地図を見つめていた。


王都から離宮まで、馬車で半日。街道の途中で森に入る小道がある。離宮はその奥に位置し、人目につきにくい。


暗殺未遂の夜、隠し通路の鍵を渡した。あの状態で、どこまで逃げられたか。


生きていてくれ。


その祈りに近い思いを押し殺し、ハインツは地図の一点を指で押さえた。


王家の別邸、保養所、離宮。リヒトが任務で記憶していた施設の配置。逃走経路から逆算すれば、辿り着ける可能性があるのは——。


ハインツは地図を畳み、外套を手に取った。


離宮では、種から蒔いたカモミールが最初の花を咲かせていた。


白い小花が朝露に濡れて、薬草園の一角を淡く染めている。ラベンダーの苗も順調に育ち、数週間後には収穫できるだろう。


「リヒト、カモミールの花を摘んで。開ききる前のものを選んで。こう、花弁がまだ少し閉じかけているくらいの」


「これくらいですか」


「そう。上手ね」


自生薬草の加工品に加え、種から育てた薬草が収穫時期を迎えたことで、街への納品量を増やせる目処が立った。マルタ経由で薬屋に卸している薬は、今や街の三軒の薬屋から引き合いが来ている。安定した収入が生まれ始めていた。


経済的に、離宮の運営が成り立つ。維持費は自力で賄える。誰にも頼らずに。


その手応えを、静かに確かめていた時だった。


夕食後、マルタが居間に来た。


「お嬢様、またあの噂の件なんですが……」


マルタは手を膝の上で組み、落ち着かない様子だった。


「前と同じ話?」


「少し、変わってきているんです。『婚約破棄された令嬢が男を囲っている』という言い方になっていて……」


庭師見習いという説明は、一定の効果はあった。だが、噂というものは事実より面白い方向へ転がる。元王太子婚約者の令嬢と若い男。それだけで、話に尾鰭がつくのは避けられない。


「放っておきなさい。庭師見習いとして働いているのは事実だし、それ以上のことは何もないわ」


「それはそうなんですけど、お嬢様のお名前が……」


マルタの心配は分かる。だが、噂を潰そうとすれば逆に注目を集める。無視するのが最善だ。


「大丈夫よ。ありがとう、マルタ」


マルタが去った後、廊下でリヒトの気配がした。聞こえていたのだろう。


しばらくして、リヒトが居間の入口に立った。


「フィーネ様」


「何?」


「……俺がここにいることで、ご迷惑をかけています。出ていった方がいいのではないかと」


リヒトの顔は平静だった。ただ、その目だけが少し揺れていた。


「出ていって、どうするの」


「……それは」


「行く当てはあるの? 記憶は戻ったの?」


リヒトが黙った。


「あなたが出ていっても、噂は消えないわ。『逃げた』と解釈されて、余計に面倒になる。それに——」


言葉を切った。


「それに?」


「庭の水やりを一人でやる気力はないの。あの畝の数を、分かってる?」


我ながら、ひどい理由だと思った。


でも、本音を言えるわけがない。この居候がいなくなったら困る、などという言葉を、この口から出すわけにはいかない。なぜ困るのかも、自分では分かっていないのだから。


リヒトがしばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐いた。


「……分かりました。ご迷惑でなければ、もう少しだけ」


「好きにしなさい」


そう言って、私は窓の外に目を向けた。


リヒトが部屋を出ていく足音を聞きながら、胸の奥で何かが少しだけ緩んだ気がした。


安堵、だろうか。合理的な判断として引き止めただけなのに、安堵する理由が分からない。


分からないので、考えるのをやめた。


翌朝。


薬草園にリヒトの姿があった。いつもより早い。カモミールの花を丁寧に摘み、籠に入れている。


「おはようございます、フィーネ様」


「……おはよう」


何事もなかったかのように、日常が続く。


リヒトは「ここにいていいのか」と問い、私は「好きにしなさい」と答えた。すれ違いのようでいて、互いの居場所が定まった瞬間だったのかもしれない。


そんなことを考えている自分に気づき、頭を振った。


馬鹿馬鹿しい。居候が居候であることを確認しただけだ。それ以上の意味はない。


私は籠を手に取り、エルダーフラワーの木に向かった。花が盛りを迎えている。今日のうちに摘んで乾燥させれば、来週の納品分に間に合う。


薬草事業は軌道に乗り始めていた。離宮での生活は安定し、収入も確保できている。


静かな隠居。自分の手の届く範囲の生活。


——それだけでいいはずだった。


その頃、王宮では。


近衛騎士団長ハインツ・ヴェルナーが、王都郊外の街道を一人で馬を走らせていた。


目指す先は、王都と街道の中間にある森。その奥に位置する、かつて王族の保養施設だった離宮。


現在はアールグレイ公爵家の令嬢に管理権が移った場所。


ハインツは手綱を握り締めた。


同じ頃、王宮の広間では、王太子クラウスの側近が一つの報告を耳に入れていた。


「殿下、あの離宮から街に薬草が卸されているとのことです。元フィーネ様の事業と思われますが、かなりの評判のようで」


クラウスは玉座の肘掛けに頬杖をつき、側近の言葉を聞き流していた。


だが、その名前だけが耳に引っかかった。


「……フィーネ、か」


側近が続ける。


「離宮で薬草園を営み、街の薬屋に卸しているとのことです。品質が高く、民からの評判が——」


「もういい」


クラウスが片手を上げ、側近を黙らせた。


あの女が何をしようと、もう関係ない。自分から出て行った女だ。


そう思おうとして、思い切れない苛立ちが胸の底に溜まる。


「……それから」


側近が言い添えた。


「離宮に、若い男が出入りしているという話もございます」


クラウスの指が、肘掛けの上で止まった。

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