第3話「庭師見習い」
「この列の雑草を抜いて。根から。途中でちぎると、また生えてくるから」
「分かりました」
リヒトが膝をつき、薬草の畝に手を伸ばした。
傷が癒えるまで二週間ほどかかった。最初の数日は起き上がるのがやっとだったリヒトも、一週間を過ぎた頃には離宮の中を歩けるようになり、二週間目には「何か手伝えることはありませんか」と自分から申し出てきた。
居候するなら働いて。そう言ったのは私だ。
だから、薬草園の手伝いを任せた。対外的にも「庭師見習い」と説明すれば筋が通る。人手は足りていない。合理的な判断だ。
ただ——。
リヒトの手つきが、妙に気になる。
雑草を抜く動きが、速い。無駄がない。根を掴む指の力加減が的確で、薬草の根を傷つけずに隣の雑草だけを引き抜いていく。
庭仕事の経験がある手つきではない。もっと根本的な、体の使い方そのものが洗練されている。
「……あなた、庭仕事はしたことある?」
「いえ。たぶん、ないと思います」
「その割に上手ね」
「体が覚えているのかもしれません。記憶にはないのですが、手が勝手に動くようです」
淡々とした答え。嘘とも真実とも判別がつかない。
私はそれ以上追及せず、自分の作業に戻った。
リヒトが離宮に来てから、庭の整備は目に見えて進んだ。
一人では三日かかっていた区画の整地が、二人なら一日で終わる。リヒトは黙々と働いた。指示したことは正確にこなし、判断に迷えば必ず私に確認してから動く。
「フィーネ様、この草は残しますか」
「それはカモミールの芽。残して。隣の細い葉のは雑草だから抜いていい」
「承知しました」
丁寧語が自然だった。身元不明の怪我人にしては、言葉遣いがきちんとしすぎている。教育を受けた人間の話し方だ。
気になることは他にもあった。
ある朝、私が早起きして庭に出ると、離宮の外壁沿いをリヒトが歩いているのが見えた。ゆっくりと、しかし確実に、敷地の境界を一周している。
見回り。
あれは散歩ではない。周囲を警戒する人間の歩き方だ。
「朝から散歩?」
声をかけると、リヒトは振り返った。
「ええ。体を動かしたくて。朝の空気が気持ちいいので」
嘘だ、とまでは言い切れない。でも、全部が本当でもない。
私はそう感じながらも、それ以上は踏み込まなかった。
詮索しない。それが、この奇妙な共同生活を成り立たせている暗黙のルールだった。
カモミールの種を蒔いてから数週間が経ち、小さな芽が土を割り始めていた。だが収穫はまだ先だ。
その間、自生していたヤロウとエルダーフラワーの加工を本格化させた。乾燥させたヤロウを粉末にし、小さな布袋に詰める。エルダーフラワーは花を丁寧に乾燥させ、煎じ用に小分けにした。
「マルタ、これを街の薬屋に持って行ってくれる? 止血用と解熱用で分けてあるから、そのまま渡して」
「分かりました。お値段はどうしましょう」
「薬屋の店主に任せていいわ。最初は相場より少し安くして、品質で判断してもらう」
マルタが包みを抱えて街に向かった。
その日の夕方、マルタは目を丸くして帰ってきた。
「お嬢様、全部売れました。薬屋の旦那が『こんな質のいい薬草はこの辺では見たことがない』と。もっと持ってこいと言われましたよ」
「そう」
短く答えたが、内心では手応えを感じていた。
前世の知識で正しく処理すれば、この世界の一般的な薬草加工品とは段違いの品質になる。乾燥の温度、保管方法、粉末の粒度。どれも些細な違いだが、積み重ねれば効果は大きく変わる。
「安定供給できるなら、定期的に仕入れたいとのことです」
「分かった。まずは自生分で対応して、種から育てた分が収穫できれば量も増やせる」
薬草事業の最初の一歩が、形になった。
リヒトが黙って聞いていた。口は挟まない。ただ、翌朝から薬草園での作業量が少し増えた。私が何も言わなくても、乾燥用の薬草を刈り取り、台所の窓辺に吊るしてあった。
「……頼んでないんだけど」
「すみません。余計なことでしたか」
「いいえ。助かるけど」
礼を言うべきだったのかもしれない。でも、居候に礼を言うのはなんだか負けた気がして、私はそっぽを向いた。
夕食後、マルタが困った顔で私のところに来た。
「お嬢様、ちょっとよろしいですか」
「何?」
「街で少し、噂になっているようなんです」
マルタが声を落とした。
「離宮に若い男がいる、と」
予想していなかったわけではない。ヨハンが薬草を買いに行った時、マルタが薬を卸しに行った時、街の人間の目はある。離宮に出入りする人間が増えれば、当然気づかれる。
「庭師見習いを雇った、と言って」
「そう伝えてはいるんですが……元婚約破棄された——いえ、婚約を解消されたお嬢様のお屋敷に、若い男がいるというのは」
マルタの言葉は途切れたが、言いたいことは分かった。
未婚の女性が、若い男と同じ屋根の下にいる。それだけで醜聞になりかねない。まして私は元王太子婚約者だ。世間の目は厳しい。
「分かってるわ。でも、事実として庭師見習いなんだから、それ以上でも以下でもないでしょう」
「お嬢様がそうおっしゃるなら……」
マルタは引き下がったが、心配は消えていない様子だった。
私は少し考えて、リヒトのいる客間に向かった。
「リヒト」
「はい」
リヒトは窓辺に座って外を見ていた。振り返った顔は穏やかだが、どこか警戒の色がある。来客の気配に反応する速度が、普通ではないのだ。
「明日から、庭仕事をもう少し目立つようにやって。正門から見える位置で。あなたが庭師見習いとして働いているところを、街からの来客に見せられるようにしたいの」
「……なるほど。対外的な辻褄を合わせるのですね」
理解が早い。記憶が曖昧な人間にしては、社会的な体裁を読む力がある。
また一つ、疑問が増えた。
だが、問い詰めはしない。
過去を訊かれたくない人間の気持ちは分かる。私だって、前世の記憶のことは誰にも言えない。それと同じだ——同じかどうかは、分からないけれど。
「リヒト。あなたの素性がどうであれ、この離宮にいる間は庭師見習いよ。それでいい?」
「はい。ありがとうございます」
リヒトが頭を下げた。
その「ありがとうございます」は、あの日、初めて目を覚ました時と同じ声の重さを持っていた。命を救われた時と同じ重さで、居場所を与えられたことに礼を言っている。
私はその重さに気づかなかった。
ただ、「素直な居候で助かる」とだけ思い、部屋を出た。
翌日、マルタが街から戻ってきた時、もう一つの報告があった。
「薬屋の旦那から伝言です。『安定して納品できるなら、量を倍にしてほしい。街の他の店からも問い合わせが来ている』と」
「倍……」
今の自生薬草だけでは追いつかない。だが、種から蒔いたカモミールとラベンダーが順調に育てば、数週間後には最初の収穫ができる。
薬草園を、もう一段広げる必要がある。
「リヒト」
庭で作業していたリヒトが顔を上げた。額に薄く汗をかいている。
「庭の東側の区画も整地するわ。手伝って」
「分かりました」
リヒトが立ち上がる。胸の傷はもう塞がっているが、激しい動きをすれば痛むはずだ。それでも顔には出さない。
この男は、痛みを隠すのが上手すぎる。
「無理はしないで。傷が開いたら元も子もないから」
「大丈夫です。これくらいは」
その言葉が、庭仕事ではなく、もっと別の何かについて「これくらい」と言い慣れている響きを持っていたことに——私は、気づかないふりをした。
街の薬屋からの需要が増えている。離宮の薬草園は、もう趣味の延長では済まなくなりつつあった。
静かな隠居のはずが、少しずつ、輪郭が変わり始めている。




