第2話「血まみれの居候」
私は青年の腕を自分の肩に回し、引きずるようにして離宮の中へ運び込んだ。
重い。背丈は私より頭一つ分高く、意識のない体は余計に重かった。玄関の床に横たえた時には、私の寝間着も血で汚れていた。
「お嬢様! 何事ですか!」
悲鳴のような声とともに、マルタが階段を降りてきた。ランプを掲げ、床に倒れた青年を見た瞬間、顔から血の気が引く。
「裏門の前に倒れていたの。刃物の傷が複数。出血がひどい」
「危ないですよお嬢様! 素性も分からない男を——」
「分かってる。でも放っておいて死んだら寝覚めが悪いでしょう」
口をついて出たのは、合理的な言い訳だった。
本音は違う。倒れている人間を見て、動かずにいられなかった。それだけのことだ。でも、そんな理由を口にするのは性に合わない。
ヨハンも起きてきた。青年の姿を見ても、取り乱しはしなかった。長年王家に仕えた老人は、血を見ることに慣れているらしい。
「ヨハン、お湯を沸かして。きれいな布もありったけ持ってきて。マルタ、私の部屋の窓辺に吊るしてあるヤロウの乾燥葉を全部」
二人が動く間に、私は青年の外套を剥ぎ、傷の状態を確認した。
胸に一箇所、深い切り傷。腕に二箇所、浅い切り傷。背中に打撲の痕。額にも擦過傷がある。
出血は——胸の傷が一番ひどい。だが、幸いにも臓器には達していないように見えた。刃が肋骨に当たって逸れたのかもしれない。
前世の知識が、冷静に処置の手順を組み立てる。
まず止血。次に消毒。それから傷口を覆い、感染を防ぐ。
マルタが乾燥ヤロウを持ってきた。私はそれをすり鉢で粗く砕き、沸かした湯で煎じた。ヤロウの煎じ汁には止血と消毒の作用がある。
布を煎じ汁に浸し、胸の傷口を押さえた。
青年が微かにうめいた。
「動かないで。今、手当てしてるから」
意識があるのかないのか分からない。だが、呼吸は続いている。
止血を確認してから、傷口をヤロウの煎じ汁で洗浄し、清潔な布で巻いた。腕の傷も同様に処置する。
発熱している。額に触れると、掌が焼けるように熱い。
「エルダーフラワーの花も持ってきて。解熱に使う」
マルタが駆け足で取りに行く。ヨハンが黙って傍に立ち、布を替えるたびに汚れた布を下げてくれた。
エルダーフラワーの花を煎じた液を、少しずつ青年の口に含ませる。意識がないのに、喉が微かに動いて嚥下した。
生きようとしている。この体は。
夜が明けるまで、傍を離れなかった。
一日が経ち、二日が経った。
青年の熱は一度下がりかけて、また上がった。傷口の化膿が怖い。手持ちのヤロウとエルダーフラワーでは足りなくなりつつあった。
「ヨハン、街の薬種屋で薬草を買ってきてほしいの。ヤロウの乾燥葉と、もしあればカモミールの花。量は、あるだけ」
「何に使うとお伝えしますか」
「私が使う、とだけ言って。それ以上は聞かれても答えなくていいわ」
身元不明の怪我人を匿っている、と知られるわけにはいかない。離宮に若い男がいるというだけで、余計な詮索を招く。
ヨハンは黙って頷き、馬車で街に向かった。
その間も、私は青年の傍についていた。
布を替え、煎じ薬を飲ませ、額の汗を拭く。意識が戻りかけるたびに、青年は目を見開き、体を起こそうとした。
「逃げ、なければ——」
「逃げなくていいから、寝てなさい」
肩を押さえて横にする。力は弱い。あれだけの傷を負っているのだから当然だが、それでも起き上がろうとする意志の強さが異常だった。
何から逃げているのか。誰に追われているのか。
聞きたいことは山ほどあった。でも、今は傷を治すことが先だ。
二日目の夜、容態が急変した。
熱が跳ね上がり、青年の全身が震え始めた。呼吸が荒く、浅い。うわ言のように何かを呟いているが、聞き取れない。
「お嬢様、もう手に負えないのでは——街のお医者様を」
マルタが蒼い顔で言う。
医者を呼べば、この男の存在が外部に知れる。
けれど、このまま死なれたら。
私は奥歯を噛み締めた。
「まだやれることがある」
ヨハンが買ってきたカモミールの花を煎じ、濃いめの液を作った。カモミールには抗炎症作用がある。エルダーフラワーと合わせて交互に飲ませ、冷たい布で首と脇の下を冷やし続けた。
三日目の明け方。
東の窓から朝の光が差し込んだ時、青年の呼吸が穏やかになっていた。
額に触れる。熱が引いている。
「……下がった」
自分の声が掠れていた。三日間、ほとんど眠っていない。
安堵が、足元から全身に広がった。膝が少し笑ったが、こらえた。
その日の昼過ぎだった。
私が台所でスープを温めていると、客間から物音がした。
急いで戻ると、青年が目を開けていた。
天井を見つめている。まだ焦点が定まっていないのか、瞳がゆっくりと動いた。
やがて、視線が私を捉えた。
「ここは……どこだ」
かすれた声。低い。だが、思いのほか落ち着いている。三日間死にかけていた人間の声とは思えなかった。
「私の離宮よ」
私は椅子に腰を下ろし、青年の顔を見た。
整った顔立ちだった。汚れと血を拭いた今、それがよく分かる。銀に近い淡い髪が額にかかり、灰青色の瞳がこちらを見ている。
年齢は分からない。
「あなたは裏門の前で倒れていたの。三日間、熱を出して寝込んでいた。傷の手当てはしてあるけど、まだ動かないで」
「三日……」
青年は自分の体を見下ろした。胸に巻かれた包帯、腕に巻かれた布。それから、私が着せた寝間着——ヨハンの予備だ。
「あなたが、手当てを」
「他に誰もいないでしょう。使用人は老夫婦が一組だけ。医者は呼んでいない」
「……なぜ」
「放っておいて死んだら寝覚めが悪いから」
同じ台詞を繰り返している自分に気づいた。だが、他に言いようがない。
青年が、わずかに目を伏せた。
「……ありがとう、ございます」
静かな声だった。感情を抑えているのか、それとも出す力がないのか、判別がつかない。ただ、その一言に含まれた重さだけが、妙に胸に残った。
「お礼はいいから、まずは名前を教えて。あなた、自分が誰か分かる?」
青年は少し黙った。
その沈黙が、考えているのか、本当に思い出せないのか、私には測れなかった。
やがて、青年は口を開いた。
「リヒト、と……たぶん。それ以外は、はっきりとは思い出せない」
「リヒト。それだけ?」
「名前は……確かだと思う。だが、それ以外のことが曖昧で。断片的にしか」
記憶が断片的。怪我の衝撃でそうなることはあり得る——前世の知識がそう判断した。嘘をついている可能性も、もちろんある。
でも、今はどちらでもいい。
「分かった。リヒトね。私はフィーネ。ここは私が管理している離宮で、あなたは私が拾った居候。体が治るまではここにいなさい。ただし——」
私は指を一本立てた。
「治ったら働いてもらうから。人手が足りてないの」
リヒトが、一瞬きょとんとした顔をした。
それは三日間の看病の間に一度も見なかった表情で、死にかけていた人間にしてはどこか間の抜けた顔で——。
私は思わず視線を逸らした。
「……なんで助けたんだろう、こんな厄介そうなの」
独り言が、口から漏れた。聞こえていないことを祈る。
窓の外で、鳥が鳴いていた。
離宮の、長すぎる三日間が終わり、奇妙な共同生活が始まろうとしていた。




