第10話「離宮の春」
「リヒト、そっちの列の水やりお願い」
「分かった」
朝の薬草園。いつもと同じやり取り。いつもと同じ声の調子。
でも、何かが違う。
リヒトが「分かった」と答える。「分かりました」ではなく。敬語が消えたわけではない。ただ、薬草園での短いやり取りの中で、言葉が少しずつ柔らかくなっている。
私が「様はいらない」と言ったからだ。リヒトは律儀にそれを守っている。
正体を知ってから数日が経った。国王の双子の弟。影武者。公的には存在しない人間。
その事実は、頭では理解した。だが、目の前で如雨露を持って畝の間を歩いている男は、相変わらずリヒトだった。水をやる時にほんの少し腰をかがめる癖も、苗の状態を確認する時に目を細める仕草も、何一つ変わっていない。
王族だろうが影武者だろうが、この人はこの人だ。
そう思えることが、少し不思議だった。
薬草園は、満開の季節を迎えていた。
カモミールの白い花が畝を埋め尽くし、ラベンダーの紫が風に揺れている。エルダーフラワーの木は今年も花をつけ、甘い香りを庭に漂わせていた。
あの荒れ放題だった庭が、ここまでになった。
種を蒔き、水をやり、雑草を抜き、虫を取り、嵐の後には倒れた苗を起こし、何度も何度も繰り返して、ようやくここまで来た。
一人では、たぶん無理だった。
「フィーネ、今日の収穫分はこれで全部か」
「ええ。カモミールの花を乾燥棚に並べてくれる? それが終わったら、ラベンダーの束も作りたいの」
「了解した」
リヒトが籠を持って台所に向かう。
その背中を見ながら、私はふと考えた。
この離宮は、もう「ただの隠居先」ではない。
薬草園があり、街との取引があり、守るべきものがある。そして、隣にはリヒトがいる。
静かに、誰にも迷惑をかけず、一人で生きる。それが目標だった。
いつの間にか、「一人で」の部分が崩れている。崩れていることに、もう抵抗がない。
「……まあ、人手は多い方がいいし」
誰にでもない独り言を呟いて、私は次の畝に移った。
昼前、私はマルタとヨハンを呼んだ。
「今日、街に薬を届けに行くわ」
マルタが目を丸くした。
「お嬢様が、直接? いつもはあたしが——」
「今日は私が行く。リヒトも一緒に」
これまで、街への納品はマルタとヨハンに任せていた。貴族令嬢が直接店頭に立つのは好ましくないという理由もあったが、それ以上に、外に出ること自体を避けていた。
隠居とは、そういうものだと思っていた。
でも、薬草園が育ち、街の人たちが薬を待っている。私が作った薬を使ってくれている人がいる。その人たちの顔を見ないまま、籠の中に閉じこもり続けるのは——もう違う気がした。
「お嬢様がそうおっしゃるなら。でも、リヒトさんが一緒なら安心ですね」
マルタがちらりとリヒトを見た。リヒトの正体をマルタは知らない。知っているのは「庭師見習いの青年」ということだけだ。
「リヒト、いい?」
「もちろん」
リヒトが頷いた。だが、一瞬だけ目が鋭くなったのを私は見逃さなかった。街に出れば、リヒトの顔が外部の人間の目に触れる。それが何を意味するか、リヒトは分かっている。
「大丈夫よ。庭師見習いが荷物持ちを手伝っている、それだけのこと」
「ああ。そうだな」
リヒトは外套の襟を立てた。
街までは、馬車で小一時間。
ヨハンが御者を務め、私とリヒトは荷台の横に座った。乾燥カモミールの袋、ラベンダーの束、ヤロウの粉薬の包み。数ヶ月前には自生薬草をかき集めて試作品を作っていたのが嘘のような量だ。
街に着くと、薬屋の店主が表で待っていた。
「アールグレイのお嬢様! 今日はご自身でおいでですか」
「ええ。たまには顔を出さないと」
「いやあ、ありがたいことです。うちの薬、すっかりお嬢様のおかげで繁盛しておりまして」
店主が手を揉みながら、荷を受け取る。
その時、店の奥から若い女が出てきた。腕に小さな子供を抱いている。
「あの——アールグレイのお嬢様ですか」
「ええ」
女が頭を深く下げた。
「お嬢様のお薬のおかげで、この子の熱が下がりました。街の他の薬じゃ全然効かなくて、でもお嬢様の解熱の煎じ薬をいただいたら、一晩で……本当に、ありがとうございます」
子供は母親の腕の中で眠っていた。頬の色は良い。
「……そう。良かった」
短い言葉しか出なかった。
薬を作ったのは私だ。前世の知識を使って、エルダーフラワーの煎じ方を最適化して、カモミールとの配合を調整して。それが、この子供の熱を下げた。
離宮の庭で黙々と作っていた薬が、知らない誰かの命に届いている。
その実感が、胸の奥に静かに広がった。
「また何かあれば、薬屋を通じて言ってちょうだい」
「はい。ありがとうございます、お嬢様」
女が何度も頭を下げながら去っていった。
リヒトが隣で黙って立っていた。何も言わなかったが、私の方を見る目が穏やかだった。
「……何よ」
「いや。いい顔をしていた」
「何の話」
「フィーネが。今」
意味が分からない。私は顔を逸らした。
離宮に戻ると、午後の日差しが庭を暖かく照らしていた。
リヒトは庭の奥で、剣の鍛錬を始めた。
木の枝を剣に見立てて型を繰り返している。正体を明かしてから、リヒトは鍛錬を隠さなくなった。その動きは美しかった。無駄がなく、流れるように一つの型から次の型へ移る。
守りたいもののために強くなる。リヒトがそう言ったわけではない。だが、あの動きを見れば分かった。
台所で夕食の支度をしていると、マルタが隣に来た。
「お嬢様」
「何?」
「いい人を見つけましたね」
手が止まった。
「リヒトさん、よく働くし、礼儀正しいし。お嬢様のことを大事にしているのが、見ていて分かりますよ」
ヨハンが台所の入口から顔を出した。
「わしもそう思う」
「二人とも、何を言って——違うから。あの人は庭師見習いで、私は管理人で、それだけよ」
頬が熱い。
マルタとヨハンが顔を見合わせて、にこにこしている。こういう時のこの老夫婦は、何を言っても聞かない。
「違うったら違うの」
声が上ずったのが自分でも分かった。最悪だ。
マルタが「はいはい」と笑いながら鍋をかき混ぜている。ヨハンが無言で頷いている。二人とも、全く信じていない顔だった。
夜。
自室の窓から庭を見下ろした。
月明かりの中、リヒトが外壁沿いを歩いている。夜の見回り。正体を明かす前から毎晩続けていた習慣だ。
あの人がここにいる。
その事実が、もう日常になっている。朝の水やり、昼の収穫、夕方の乾燥作業。隣にリヒトがいることが、当たり前になっている。
「心強い」。前にそう言った。
でも、今はもう、それだけでは収まらない。
何なのか、分からない。分かりたくない。前世の経験が警告している。恋愛は面倒事しか生まない。ゲームの悪役令嬢だった自分が、誰かに好かれるはずがない。そもそも、もう恋愛はいいと決めたのだ。
決めたのに。
リヒトが見回りを終え、離宮の中に戻っていく。その足音が遠ざかるのを聞きながら、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「……隠居したいだけなのに」
呟いた言葉は、もう何度目か分からない。
ただ、その言葉の響きが、最初の頃とは変わっていた。諦めでも決意でもなく——どこか、困ったような、でも嫌ではない、奇妙な温かさを帯びていた。
窓を閉め、寝台に入る。
明日も朝から薬草園だ。水やりをして、収穫をして、乾燥させて、街に届ける。リヒトが隣にいて、マルタが余計なことを言い、ヨハンが黙って頷く。
その日常が、もう少しだけ続けばいい。
そう思った。
街道沿いの建物の影に、一人の男が立っていた。
夕刻、離宮から街に向かう馬車を見ていた。荷台に座る二人の姿を、男は注意深く観察していた。淡い髪の青年と、栗色の髪の令嬢。並んで歩き、並んで馬車に乗り、並んで離宮に帰っていった。
男は外套の内側——宰相府の紋章が裏返しに縫い付けてある——に手を入れ、報告用の羊皮紙を取り出した。
離宮の外で、影が動き始めている。
(完)
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