第1話「離宮の新しい主」
馬車の窓から差し込む午後の光が、フィーネの膝の上に淡い四角を描いていた。
街道の轍を拾うたび、車体が軋む。その音にも、もう慣れた。王都を出て半日。長い旅路の終わりが近い。
木立の隙間から、灰色の屋根が見えた。
「あれが、離宮……」
思ったより小さい。王宮の一角を切り取ったような壮麗さは欠片もなく、むしろ古い田舎の屋敷という方が正しかった。外壁を覆う蔦は手入れを放棄されて久しく、門柱の紋章は風雨に削られて判読もできない。
それでも、ここが私の場所だ。
馬車が門前で止まると、軋んだ扉の向こうから二人の人影が現れた。
白髪を後ろで束ねた痩身の老人と、丸い体を揺らしながら小走りに駆けてくる婦人。
「お嬢様! よくぞおいでくださいました!」
マルタが両手を広げてこちらへ歩いてくる。目尻には涙すら滲んでいた。その後ろで、ヨハンが深く腰を折る。
「お待ちしておりました」
ヨハンの声は低く、短い。だが、その一礼には長年王家に仕えた者の矜持がにじんでいた。
「マルタ、ヨハン。今日からお世話になるわ」
私は馬車を降り、二人に軽く頭を下げた。
マルタが目を丸くする。
「お嬢様、頭をお下げにならないでください。あたしたちは使用人でございますよ」
「管理人夫婦がいなければ、この離宮は動かないでしょう。頼りにしているの」
これは社交辞令ではない。使用人はこの二人だけ。実家からの援助はない。ここでの生活は、三人で回すしかないのだ。
マルタが鼻をすすり、ヨハンが無言で荷物を受け取る。
私は門をくぐり、離宮の敷地に足を踏み入れた。
正面玄関を抜けると、埃っぽい廊下が続いていた。天井の漆喰は一部が剥がれ、壁のタペストリーは色褪せている。調度品にはすべて白い布が被せてあり、長い不在を物語っていた。
「何年くらい使われていなかったの?」
「七年ほどでございます。先の王太后様がお使いになったのが最後で」
ヨハンが淡々と答える。
七年。建物が朽ちるには短いが、庭が荒れるには十分な時間だ。
私は廊下を抜け、裏手に回った。
庭、という言葉はもう似合わない。膝丈まで伸びた雑草が敷地を覆い、かつて花壇だったらしい石組みは半ば土に埋もれている。小さな泉水は枯れてはいないが、水面は落ち葉に覆われて緑色に濁っていた。
「ひどいものでしょう。わしとマルタの二人では、建物の維持で手一杯で……」
ヨハンが申し訳なさそうに言う。
「いいの。庭はむしろこの方が都合がいい」
私はしゃがみ込み、足元の雑草をかき分けた。
土に触れる。冷たくて、少し湿っている。指の間から崩れる感触を確かめ、鼻に近づけて匂いを嗅いだ。
腐葉土の層が厚い。水はけは悪くない。日当たりも、この方角なら午前中は十分に陽が当たる。
前世の記憶が、静かに答えを返してくる。
この土壌なら、いける。
私は立ち上がり、庭の奥へ歩いた。雑草をかき分けながら進むと、石組みの花壇の端に、見覚えのある葉が群生していた。
細く尖った葉が放射状に広がり、白い小花をつけている。
「ヤロウ……」
思わず声が漏れた。セイヨウノコギリソウ。止血と消毒に使える薬草が、雑草に紛れて自生している。
さらに奥に目をやると、クリーム色の小花が房状に垂れ下がっている木があった。
エルダーフラワー。解熱に有効な花だ。
どちらも前世で読んだ薬草図鑑に載っていた。この世界では体系的にまとめた書物がないだけで、植物自体は存在する。
「お嬢様、何をなさっているんです。お召し物が汚れますよ」
マルタが後ろからおろおろと声をかけてくる。
「マルタ、この庭を薬草園にするわ」
「は、薬草園でございますか?」
「ええ。まずはこの自生している薬草を活かす。それから新しい種も蒔く。カモミール、ラベンダー……土壌さえ整えれば育つはずよ」
マルタがヨハンと顔を見合わせる。二人の表情には困惑があった。
公爵令嬢が土に触れ、庭を耕すと言っている。しかも婚約破棄されたばかりの——いいえ、自分から婚約破棄を申し出た令嬢が。
心配してくれているのだろう。この老夫婦は、善い人たちだ。
「大丈夫よ、マルタ。私はこういう生活がしたかったの」
嘘ではない。
前世で過労死した私は、静かに暮らすことだけが望みだった。誰にも迷惑をかけず、自分の手の届く範囲で生きる。それだけでいい。
王宮の煌めきも、王太子の腕も、もう必要ない。
「お嬢様がそうおっしゃるなら……あたしは止めませんけど。でも無理はなさらないでくださいね」
「わしも手伝いましょう」
ヨハンが短く言った。
「ありがとう。助かるわ」
その日のうちに、私は庭の一角の整地に取りかかった。
まずヤロウの群生地の周囲の雑草を刈り、エルダーフラワーの木の根元の落ち葉を除ける。自生している薬草を傷つけないよう慎重に、それでいて手早く。
前世の会社員時代に鍛えられた段取り力が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
ヤロウの葉を数束刈り取り、離宮の台所に持ち帰った。風通しのいい窓辺に紐で吊るし、乾燥させる。エルダーフラワーの花も同様に。乾燥させた後に煎じれば、止血剤と解熱剤の原型になる。
精製技術はこの世界にもあるが、体系化されていない。正しい温度で、正しい時間、正しい方法で処理すれば、効果は何倍にもなる。それを知っているのは——この世界では、おそらく私だけだ。
数十年分の技術的優位。前世でたまたま読んでいた薬草の本が、まさかこんな形で活きるとは。
「これでまず、試作品を作って……マルタに街の薬屋まで持って行ってもらえないかしら」
「薬屋でございますか? お嬢様が薬を売ると?」
「直接は売らないわ。卸すの。マルタとヨハンの名前で」
貴族令嬢が店頭に立つのは好ましくない。だが、管理人夫婦が離宮で採れた薬草を薬屋に卸す形なら、体裁は保てる。
マルタは「はあ」と曖昧な返事をしたが、反対はしなかった。
庭の一角に、カモミールとラベンダーの種を蒔いた。
土を被せ、水をやる。
芽が出るまで数週間。収穫はさらにその先。自生薬草の加工でしのぎながら、種からの薬草が育つのを待つ。
気の長い話だ。でも、急ぐ理由もない。
ここには、私しかいないのだから。
夕暮れ、台所でマルタが用意してくれた夕食をとった。パンとスープと、少しの干し肉。王宮の食卓とは比べものにならないが、不満はない。
食後、自室に戻り、窓を開けた。
虫の声が聞こえる。遠くで梟が鳴いている。
静かだ。本当に、静かだ。
……これでいい。
これが、私の望んだ暮らしだ。
ベッドに腰を下ろす。古い寝具は少しかび臭いが、明日干せば済む。
目を閉じると、前世の記憶がちらつく。
終電の蛍光灯。デスクに積まれた書類。誰もいないアパートに帰る足音。
あの時も、静かだった。でも、あれは——。
「……寂しいとか、思ってないから」
誰にでもない独り言が、暗い部屋に落ちた。
これでいいのだ。誰にも迷惑をかけない。自分の手の届く範囲で生きる。それだけで。
夜が更けた。
離宮は深い静寂に沈んでいる。
ふと、裏門の方から物音がした。
最初は風かと思った。だが、二度目の音は明らかに何かがぶつかるような重い響きだった。
私はベッドから起き上がり、窓際に寄った。
月明かりの下、裏門の前に何かが倒れている。
黒い塊。いや——人だ。
心臓が跳ねた。
ランプを手に取り、階段を降りる。裏口の扉に手をかけた時、マルタを起こすべきかと一瞬迷った。
でも、もしあれが本当に人なら。
倒れている人間を放置して、朝まで待つなんてことは——できない。
扉を開け、裏庭を横切り、門に近づく。
ランプの光が、倒れた人影を照らした。
若い男だった。
外套は泥と、それから——血で汚れていた。
腕に、胸に、複数の切り傷。呼吸は浅く、顔は蒼白で、意識があるようには見えない。
「……何よ、これ」
私の手は震えていなかった。
前世の知識が冷静に状態を判別する。刃物による切傷、複数。出血量——多い。体温が下がっている。このまま放置すれば、朝までもたない。
見捨てる、という選択肢が頭をよぎった。
見知らぬ怪我人を匿うリスク。身元も分からない男を離宮に入れる危険。
全部分かっている。
なのに、体が動いていた。
「……ヨハン! マルタ! 起きて!」
月明かりの下、血まみれの青年は微かにうめいた。
その声は、何も語らなかった。名前も、理由も。
ただ、ここに辿り着いたという事実だけが、裏門の前に横たわっていた。




