二度目の結婚式はハッピーエンドで
大聖堂に敷かれた青い絨毯の上を、純白の婚礼衣装に身を包んだ姫君が進んでいく。重々しい足取りで歩む彼女は、ソレイユ王国の第一王女ソフィア・ドゥ・ソレイユ。成人したばかりのソフィアは今、敵国の王太子の元へ嫁ごうとしていた。
全身の震えが止まらない。恐怖が足をすくませる。見知らぬ国の、それも長年争ってきた敵国の王妃になるなんて無理だ。和平条約のためとはいえ、あまりにも恐ろしすぎる。
ソフィアの赤い瞳が涙で濡れた。顔を上げて前を見れば、夫となる者――ルミナス王国の王太子ディラン・エセリアル・グロウが、祭壇の前でソフィアを待っている。青みがかった銀髪と青い瞳が印象的な彼は、申し訳なさそうに目を伏せていた。
誰も祝福していない。夫となる人も悔いている。一体誰がこんな結婚を望んだの?
それでもソフィアは進み続ける。供物のように捧げられる花嫁として。
虚しい讃美歌が響く中、あと少しでディランの元へ辿り着く……その直前、不意に銃声が鳴り響いた。驚きの声と悲鳴、そしてディランの歪んだ顔。彼の白い婚礼衣装が、じわじわと真っ赤に染まっていった。続けて二発、三発と銃声が続き、ディランが床に崩れ落ちる。呆然とその光景を眺めていると、腕を掴まれた。はっと振り向けば、兄――アルベール・ドゥ・ソレイユが怒りに満ちた顔をして、ディランを睨んでいた。
「私の家族を生贄にするつもりはない」
ぞっとするほど、憎しみのこもった声だった。あっという間に騎士に囲まれて、ソフィアはアルベールに引っ張られる。
「早く逃げるぞ。とっくに戦争は始まった。あの野蛮な国と徹底的に争って、真の平和を取り戻すのだ」
理解が追い付かない。一体何が起きたというのか。ふとアルベールの右手を見たソフィアは、背筋が凍りつく。そこには煙を上げる短銃が握られていた。すべてを理解したソフィアは、血の気が失せてめまいを覚える。
兄を狂わせてしまった。和平交渉は決裂。戦争はもう止められない。どちらかが滅ぶまで続くだろう。
――私が役割を放棄したせいだわ。
視界が回る。足がもつれて力が抜けていく。最後に見たのは、大聖堂の天井に描かれた楽園の絵だった。
はっと目を覚ましたソフィアは、息を吸い込む。まるで呼吸をずっと止めていた時のような息苦しさ。体中に脂汗が浮かび、肌をじっとりと濡らしている。
「……夢?」
それにしてはとても現実的だった。結婚に至るまでの記憶だって、はっきりと残っている。戸惑いながら周囲を眺めたソフィアは、さらに混乱した。大聖堂にいたはずが、いつの間にか王城の客室にいる。服も婚礼衣装ではなく、深い赤色のドレスだった。その赤色を見ていると、ディランの血を思い出してしまってぶるっと震える。
すると、部屋の片隅にいた侍女が水を運んできた。
「殿下、体調はいかがですか? まだ顔色が優れませんが……」
ソフィアはカウチから起きあがって、水を受け取る。口に含むと、ほっと緊張が緩んだ。そして違和感を覚える。あれだけの騒動があったのに、侍女は落ち着き払っていた。戦争中とは思えない態度である。
「状況はどうなっているの? お兄様はどこ?」
「アルベール様でしたら、先ほど様子を見に来られてからずっと、お戻りになっておりません。お客様をもてなしていらっしゃるのでしょう」
どうにも話が噛み合わない。一体何の話をしているのか。その答えはすぐに分かった。
「殿下もおいたわしいことです。和平のためにルミナスへお輿入れなさるなんて、まるで人質のようではありませんか。和平交渉もそうですが、急に婚約を申し出るなんて。あの国は一体何を企てているのか……」
この言葉を知っている。ソフィアは身を固くして、息を呑んだ。
半年前に決まった婚約を祝して、舞踏会が開催されたあの日……ディランと過ごすのがあまりにも恐ろしくて、体調不良を理由に休ませてもらった。あの時と同じことが今、目の前で起きている。
――まさか、巻き戻った?
侍女に悟られないよう、こっそりと手首の皮膚をつねる。確かに痛みがあった。これは夢ではなく、現実らしい。
「ご気分が優れないなら、このままお休みくださいませ。殿下のお気持ちは、痛いほど分かりますから」
気遣ってくれる侍女を見て、ソフィアは考える。以前、この言葉を聞いたソフィアは、素直に甘えてしまった。長年睨みあってきた関係を終わらせ、友好関係を築くという使命を忘れて。今のソフィアなら、それがどんなに愚かな行為なのかがよく分かる。
――お兄様に人殺しをさせるわけにはいかない。
ソフィアの行動次第で未来が変わるなら、どんなことだってやろう。もうあんな結婚式はしたくない。戦争の火種になることも嫌だ。和平交渉を左右する者として、今度こそ責務を果たそう。そうすればきっと、あの悲惨な結末を変えることが出来るはずだ。
ソフィアは密かに決意すると、顔を上げて「行くわ」とはっきり言葉にする。
「本当によろしいのですか?」
「ええ、もちろん。私は王女だもの。外交をないがしろにするわけにはいかないわ」
臆病で怖がりなお姫様の役は、もうおしまい。国を代表する王女として、和平の鍵を握る者として、運命に立ち向かわなくては。
赤いドレスを翻し、大広間へ戻ったソフィアは、来賓に挨拶をしながら突き進んでいく。未来の夫、ルミナス王国の王太子ディランの元へ。
ようやく見つけた彼はソフィアの兄、アルベール王太子と談笑しているところだった。この二人が一緒にいる光景は心臓に悪い。すくみそうになる足を決意で進めると、ソフィアに気づいたディランが振り向いた。彼の優しい微笑みに、ソフィアも笑顔で応える。
「ディラン王太子、お兄様。席を外してしまい、大変申し訳ありませんでした」
気づいたアルベールが、労うようにソフィアの肩に触れる。
「ああ、ソフィア……気にすることはない。体調はもういいのか?」
「はい。ご心配をおかけしました」
健やかであることをアピールするために、満面の笑みを浮かべて見せる。するとディランが「それはよかったです」と柔らかに表情を崩した。改めて見ると、彼の態度はとても柔和で優しい。どうして気づかなかったのだろう、と過去の自分を恥じてしまった。
するとアルベールがソフィアの肩を抱き寄せる。傍に置き、ディランから遠ざけようとしているのか。そんなアルベールの思惑を察したのか、ディランが困ったような笑顔を浮かべている。
――このままじゃ、同じことの繰り返しよ。
ソフィアは意を決して、口を開いた。
「あら、ちょうど次の曲が始まる頃ですね」
楽団が演奏の準備をしているのを、ちらりと眺めて確認する。続いてディランを見上げれば、彼の表情が明るくなった。どうやら気づいてくれららしい。恭しく礼をすると、ディランがソフィアに手を差し伸べる。
「でしたら、私と一曲踊っていただけませんか。未来の妻と親睦を深めたいのです」
「喜んで」
いくらアルベールでも、妹が婚約者と踊るのを止める権利はない。彼の手が離れたところで、ソフィアはディランの手をとった。彼のエスコートでダンスの場に向かうと、周囲の人々がざあっと道を開けてくれる。注目されているのが嫌でも分かった。以前のソフィアなら嫌がる場面だが、今は好都合だ。楽曲に合わせて踊り始めると、ディランが話しかけてくる。
「僕のこと、避けているんじゃないかと思っていました。こうして踊ってくださるなんて、夢のようです」
少し砕けた態度で、ディランがふふっと微笑む。
――こんな風に接してくれる人だったのね。
ソフィアもつられて微笑む。
「ごめんなさい。突然のことで、動揺してしまって」
「いいんですよ。少し前まで争っていた国の王子と結婚だなんて、恐ろしいでしょう。事を急ぎすぎたと反省しています」
そう語るディランは、二十一歳という年相応の顔をしていた。若く勢いがあって、そのせいで失敗もする。垣間見える素直で未熟なところが、少し可愛く思えた。
「もちろん、最初はとても恐ろしかったわ。でもディラン王太子は、想像していたよりずっと親切で可愛らしい方のようですね」
「可愛らしいって、失礼だな」
不服そうな口ぶりだったけれど、ディランは楽しそうに笑っていた。以前は恐ろしくて、まともに会話をした記憶がない。けれど、先入観を捨てて向き合うほどに、印象が変わっていく。
「実は僕も、どう歩み寄ればいいのか悩んでいたんです。とても繊細な方のようでしたから」
でも、と言ってディランがソフィアを抱き寄せる。情熱的な仕草に、心臓が大きく跳ねた。
「惜しいことをしました。素直にお喋りをすれば、こんなにも打ち解けられるなんて。まずはお茶会にお誘いするべきでしたね」
そう言ってディランが片目をつぶってみせる。ソフィアはつい笑ってしまって、ほっと心を和ませた。彼を恐れる気持ちはもう、ない。
「でしたら、ルミナスのことを教えてください」
「祖国のことを、ですか?」
「はい。私たちの振る舞いが、双方の国の未来を担っているのです。国交を開くためにも、まずはお互いのことをよく知るべきでしょう」
「おや、まさかあなたから提案してもらえるとは」
意外そうに目を丸くした後、ディランが笑って華やかなターンを決める。彼に合わせて踊れば、鮮やかな赤いドレスが羽のようにひらりと舞った。
「それじゃあ、数えきれないくらいデートをしましょう。美味しいものを食べて、美しい景色を見て、未知の文化に触れて胸を震わせる。そうしたひとつひとつの思い出が、僕たちの関係をより親密なものへ変えるのです」
「随分と俗っぽい言い方をなさるのですね」
「お嫌いですか?」
「いいえ、ちっとも」
互いに笑うと、心ゆくまでダンスを楽しむ。やがて演奏がフィナーレを迎えた時、周囲から拍手が沸き起こった。誰もがディランとソフィアに注目し、顔をほころばせている。円満な関係を期待しているような雰囲気に、ソフィアはひとまず安堵した。けれど、これだけで未来が変わったとは思えない
その答えは、険しい顔をして二人を見ているアルベールが証明していた。
とはいえ、これで諦めるほど甘い覚悟ではない。ソフィアはすぐディランに相談し、海を隔てた先にあるルミナス王国へ訪問した。国交のない土地への訪問は非常に恐ろしかったが、運命を変えるためなら何だってしよう。その決意を感じ取ったのか、ディランはソフィアのために兵士を配備し、常に寄り添って守ってくれた。
「ルミナスは機械技術と鉄鋼の国と聞いていたけれど、想像以上ね」
港町を走る「蒸気自動車」という乗り物に、ソフィアは興味を持つ。鉄を加工した箱のようなものが、何台も行き交っていた。馬よりも速いようだが、運転手は平気なのだろうか。まじまじと眺めるソフィアに、ディランが堂々と語る。
「蒸気自動車……我々は車と呼びますが、この発明でルミナスはさらに発展しました。運送業が栄え、荷物を届ける日数も短くなり、日ごとに経済成長しています」
道行く人々を眺めたソフィアは、その言葉が正しいことを察する。誰もが整った身なりをしていて、顔つきもよい。明るい未来を確信しているからこその表情だ。ソフィアの来訪に警戒してはいるようだが、露骨に嫌悪感を表すものはいない。国が有する軍事力にも、相当の信頼を寄せていることが分かった。
――ルミナスと戦争になれば、間違いなくソレイユは滅びる。
国交がないゆえに、アルベールは見誤ったのだろうか。これほどまでに発展した国と争ってはいけない。彼らの技術はソレイユを破壊しつくすだろう。戦争などもってのほか、和平交渉に応じて国交を開き、貿易をすべき相手だ。
そう思っていると、ディランが声を低くして言った。
「しかし、我が国には肥沃な土地が少ない。天候も雨や曇りが多く、収穫量も微々たるものです。他国との貿易でどうにか食い繋いでいますが、それも情勢に左右されやすく、食料の価格が全く落ち着きません」
「鉱山が国土の三割を占めているから、ですよね?」
「おや、詳しいですね」
「言ったでしょう、お互いのことを知るべきだと」
ソフィアは自分の判断が正しかったことを知り、誇らしくなる。ルミナスを訪問する前に、貿易商を頼って様々な地図を買い集めたのだ。ソレイユとルミナス、双方が手を取りたくなるような条件は何か。それを知るために、まずは土地を調べようと思い至ったのである。
ソフィアの指摘を受けて、ディランが頷いた。
「あなたのおっしゃる通りです。我が国は鉱山に恵まれたおかげで、様々な国と貿易する機会を得ましたが、石ころで腹は満たせない。他国に与えられる物がなくなった時、ルミナスはどうなってしまうのか……考えるだけでもゾッとしますよ」
「それで、ソレイユとの和平を?」
「ええ、そうです。ソレイユには広大な土地があり、牧畜と農業が盛んで飢え知らず……海の向こう側ではありますが、それほど離れておらず、海路も安定しています。歴代の王は血の気が多く、略奪ばかり考えていたようですが、それではいけません」
そう言ってディランがソフィアに片目をつぶってみせる。
「実は、とっておきの商談があるんです」
「それは楽しみですね」
ディランの案内で車に乗ると、しばらくの間移動する。初めて乗る車の乗り心地は馬車より快適で、景色が目まぐるしく変わっていった。発展した都市を眺めながら過ごしていると、なだらかな丘に佇む農村に到着する。
「車の乗り心地はいかがでしたか?」
「ちょっと目が回ってしまったけれど、楽しかったです」
ディランの手を借りて車から降りると、湿った風がびゅうっと吹き抜ける。目の前に広がる畑を眺めたソフィアは、見慣れない光景に目を丸くした。
「あれは……何ですか?」
「耕運機です。畑を耕す道具ですよ」
村人が手押し車のような形状の機械を畑に下ろし、ゆっくりと前進している。機械が通った後には、ふかふかに耕された土が出来上がっていた。
「鍬を持って耕すのでは、時間がかかりますからね。収穫量が見込めない分、効率をよくしないと」
機械から随分と大きな音が鳴っていたが、村人たちは平気そうな顔で疲れた様子もなく、淡々と作業をしている。確かに、鍬で耕すよりもずっと速く、土の状態もいいようだ。
「他にも様々な農具を開発しているところです。今まで兵器開発ばかりしていましたが、辛抱強く説得して方針を変えさせました。技術は幸福のために使われるべきです」
「一体どうして……」
これほどの技術力があれば、世界を制することも不可能ではないはずだ。ソレイユなど敵ではない。愕然としているソフィアに、ディランが言った。
「侵略はこれまでの生活を奪う行為です。そんなことをしたら、ひどく恨まれるでしょう。報復で暗殺されるなんて、僕は嫌です。それに、領地が増えればやることも増える。厄介事を抱え込むくらいなら、今あるものでどれだけのことが出来るのか試したい。ただそれだけですよ」
それを聞いたソフィアは、静かにディランを見つめた。畑を眺める横顔には、憂うような気配が漂っている。話を聞いた限りでは「厄介事を避けたいから」という印象を受けたが、実際は不必要な争いをしたくないからだろうと察した。
――争えば自国の民にも、これまでの生活を捨てさせることになる。
そう理解したソフィアは、穏やかに微笑んだ。この人はきっと、善い王になるだろう。
「私も同感です」
「気が合いますね」
互いに顔を見合わせて、ふふっと笑う。そして、ディランが真剣な顔をして言った。
「開発している農具をソレイユに輸出すれば、今まで以上の収穫量が期待できるはずです。そこで出来た余剰な食料を、ルミナスへ輸出していただけないでしょうか」
やはりそうきたか。ソフィアは目を伏せて、静かに考える。
「私に決定権はありません。ですが……」
顔を上げると、改めて畑を眺める。太陽に恵まれたソレイユと違って、ルミナスの土はとても痩せていた。こんな土地でも工夫をして、懸命に生きる彼らを、野蛮で恐ろしい一族だとは思わない。彼らは手を差し伸べるべき隣人だ。
「陛下とお兄様に提案することを約束します。これは双方に利のある話です。国交を開くための手掛かりとなるでしょう」
ソフィアの返事を聞いて、ディランがほっと表情を緩めた。そしてソフィアの手を握ると、両手で優しく包んでくれる。
「ありがとう。僕だけではとても成し遂げられそうにない話だったんです」
「時間はかかったでしょうが、いずれ成し遂げられたはずですよ」
するとディランが困った様子で微笑む。
「実は、何度かアルベール王太子にお願いをしていたんです。我が国へお越しになって、話を聞いてほしいと。国王陛下と比べれば、まだ可能性はあるだろうと予想していました。しかし、返事は決まって『信頼に値するものがない』と」
「……それで、和平交渉と私との婚約を?」
「はい。藁にも縋る思いでした。婚姻関係があれば、いずれ来てくださるのではないかと……我ながら甘い考えだとは思うのですが、他にどうすればいいのか分からず」
残念ながら、それは悪手だった。兄、アルベールは自他共に厳しく、感情に左右されない人だ。相手が妹の夫だとしても、個人の信頼関係がなければ意味がない。それは父王も同じだろう。国を統治する王が敵国へ赴くなど、正気の沙汰ではない。
――でも、あの日お兄様はディラン王太子を暗殺した。
ソフィアの知るアルベールは、そんな愚行をするような人ではなかった。何が理由で、兄は狂ってしまったのだろう。いくら考えても答えは出てこない。当然だ。ソフィアはアルベールとは違う。彼の考えていることは、彼にしか分からないことだ。
「アルベール王太子が求める、信頼に値するものとは何でしょうね」
ディランのため息にも似た呟きが、ソフィアの思考に一滴の雫を落とす。
――私の家族を生贄にするつもりはない。
あの言葉の意味。そう、アルベールはずっと、ディランのことを信頼していなかった。そして結婚式はソレイユの王都にある大聖堂で行われた。和平交渉を求めた手前、ルミナスはソレイユに強く出ることが出来ないのだ。ゆえに、先日の舞踏会もソレイユの王城で開催されている。その理由は何か。
――信頼だ。
信頼に値するもの。それを最後まで提示することができなかったため、ディランは暗殺されてしまったのではないか。答えが分かった瞬間、ソフィアは動揺で震えた。
――アルベールの信頼を勝ち取ることが出来れば、未来が変わる。
「ソフィア王女?」
呼びかけられて、我に返った。見れば、ディランが気遣うようにソフィアを見つめている。
「気分を害してしまったなら、申し訳ありません。大切なご家族を貶すつもりはなかったのですが、言葉選びが悪かったですね」
「いえ、そうではないのです」
迷い、ためらい、じっと考える。思いついた計画が通用するのか、ソフィアにも分からない。けれど、何もしないで運命の日を迎えるくらいなら、やるべきだと思う。覚悟を決めると、ソフィアは口を開いた。
「実は、ディラン王太子にひとつ提案があるのです」
「聞きましょう」
彼はソフィアの話を最後まで聞いてくれた。そして聞き終わると、興味深そうに頷いてくれる。その表情は明るく、希望を見出したかのようだった。
「いいですね、その作戦でいきましょう」
「本当によろしいのですか?」
「構いませんよ。なんといっても、アルベール王太子の妹君である、ソフィア王女のご提案です。間違いありません」
「もし失敗したら」
「その時はまた、次の計画を一緒に考えましょう」
ディランの前向きで朗らかな態度を見ていると、不安に揺れる心がゆっくりと落ち着いていく。
――ひとりじゃない。彼と二人で立ち向かうんだ。
そう思うと勇気が湧いて、なんでも出来てしまいそうな気がした。
二日後、帰国したソフィアはアルベールの元へ向かった。部屋の前に到着すると、深呼吸をしてノックをする。
「お兄様、入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
返事を聞いてから入室すると、アルベールがソファに座ってお茶を飲んでいた。彼はソフィアを見て、穏やかに微笑んでくれる。対面の席に着くと、控えていた侍女がお茶を淹れてくれた。
「無事帰国できたようで、安心した。婚約していても、何があるか分からないからな」
言葉の節々から、ディランとルミナスに対する不信感が伝わってくる。けれど、それを咎めることはしなかった。
「ルミナスはとても発展した国でした。一日限りの滞在でしたが、素晴らしい経験をしたと思っております」
「そうか」
淡々とした素振りで、アルベールが茶菓子のケーキを食べ始める。ソフィアは改めて、兄の手ごわさを感じた。彼は続けたくない話を意図的に断ち切ってくる。それでも屈することなく、ソフィアは話を続けた。
「あちらには便利な機械が沢山ありました。国交を開けば、よい取引が出来るでしょう。ディラン王太子も、貿易を強く望んでいらっしゃるそうです」
「口を慎め」
鋭い言葉が飛び、ソフィアは緊張で身を固くした。アルベールが険しい顔で言葉を続ける。
「貿易を望んでいるのはあちら側のみ。ソレイユにその意思はない。食料の備蓄は充分、他国との貿易で物資にも困っていない。だというのに、なぜ危険を冒して国交を開く必要がある? こちらに侵略するための手掛かりを得ようとしているのではないか?」
「……お兄様なら、そうおっしゃるだろうと思いました」
ソフィアは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、意を決して立ち向かう。
「この度の訪問で、ディラン王太子とより親密になることが出来ました。後日改めて、彼もソレイユへ訪問したいとおっしゃっています。お兄様もこの機会に、彼と親睦を深めてみてはいかがでしょう」
するとアルベールが目を伏せて、空になった皿をテーブルに置く。
「父上は何と?」
「歓迎しよう、と」
「なら、私から言うことは何もない。殿下によろしく伝えておいてくれ。彼に会うつもりはない」
強い拒絶を示される。関わるつもりは一切ないようだ。そんなアルベールに、ソフィアは真っ向から告げる。
「私は、この結婚をよりよいものにしたいのです。家族に……お兄様に祝福されたいと思うのは、いけないことなのでしょうか?」
アルベールが驚いた様子で目を見開き、やがて深いため息をつく。
「和平の条件に組み込まれた結婚を、無理に受け入れる必要はない。お前を犠牲にして成り立つ平和に何の意味がある?」
「そんなつもりは」
「話は終わりだ。私を懐柔しようなどと、愚かなことは考えるな」
言葉に詰まり、ソフィアは唇を引き結ぶ。出されたお茶を一杯いただくと、この場は諦めて引き下がることにした。
退室したソフィアは中庭に出て、ベンチに腰掛ける。ディランと考えた計画では、アルベールと面会する約束を取り付けるはずだった。残念ながら失敗してしまったが、想定内だ。彼には別の方法で、ディランに必ず会ってもらう。
そこでふと、昔のことを思い出した。
薔薇が咲く季節、庭を歩いているといつの間にかアルベールがやってきて「棘に気をつけろ」「むやみに触るな」「花が欲しいなら用意させよう」などと言うのだ。お節介な兄の態度にいつも呆れていたけれど、それは不器用な兄なりの愛情表現だった。自然とそう思えるのは、ソフィアのために暗殺を決行した姿を見たからだろうか。
「……お兄様って、昔から頑固で心配性よね」
そうつぶやくと、ソフィアはふふっと笑って活力を取り戻す。まだやるべきことは残っていた。止まって休んでいる暇はない。一息ついて立ち上がると、ソフィアは頭の中で状況を整理しながら、次の計画に取り掛かった。
それからあっという間に時が経ち、ディランがソレイユに来訪した。港で彼を出迎えると、緊張した様子でぎこちなく微笑んでくれる。
「上手くいくか心配で、なんだかお腹が痛いよ。こんな思いをするのは、和平交渉をしに来た時以来だ」
「大丈夫です。私が傍にいますから」
ソフィアも不安で押しつぶされそうだったが、笑ってディランを励ました。すると、彼がソフィアを軽く抱き寄せて囁く。
「ありがとう。君がいると心強いよ」
ぽんと背中を叩いた後、ディランが離れる。初めてのスキンシップに、どきどきと胸が高鳴った。今はそれどころじゃないのに。熱くなる頬を撫でて誤魔化すと、ソフィアはディランと共に王城へ向かった。到着すると、彼を庭園へ案内する。そこにはちょうど、季節の薔薇が咲いていた。色鮮やかな美しい花々に、ディランがほうっと感嘆を漏らす。
「ソレイユには、見事な花が咲いているんですね」
「ルミナスでも花は咲くでしょう?」
「それはそうなんですが、ルミナスでは花の季節が短いのです」
「なら、押し花や標本を贈りましょうか。ハーバリウムという工芸品が人気なんですよ」
「それはありがたい。母上や妹が喜ぶでしょう」
和やかに会話を楽しんだのもつかの間。広々とした庭園に設けられたパーティー会場に到着する。そこには父王と王妃、王太子のアルベールが控えていた。彼らの前に経つと、ディランが恭しく礼をする。
「ごきげんよう、ソレイユを照らす高貴なる方々。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
そう言ってディランが爽やかな笑顔を浮かべた。ソフィアも続いて礼をすると、王が「こうかしこまる必要はない。じきに親族となるのだ、家族と思って気楽に過ごしてほしい」と表情を緩める。王妃も穏やかに微笑んでいて、好感を抱いていることが伝わってきた。
けれど、アルベールだけは違う。硬い表情で、恨めしそうにソフィアを見ていた。彼が不満そうにしているのも無理はない。ディランを歓迎するために、家族だけでガーデンパーティーをしたい……入国許可を得る際、王にそう伝えていたのだ。彼と過ごしたひと時や、ルミナスの現状を伝えると、王も王妃も考えを改めてくれた。ぜひ話がしたいと乗り気になって、腕利きのパティシエを呼び集めたほどである。
妹が婚約者のためにパーティーを開き、両親も喜んで参加する……そんな状況で兄が不参加、というわけにはいかない。事後報告で退路を塞ぎ、結果的に望みを叶えた。それが気に食わないのだろう。面と向かって怒られることはなかったが、明らかに不満そうな態度だ。ソフィアは震える手を重ねて、重圧に耐える。全員が席に着くと、それぞれにお茶が配られた。湯気と共に立ち昇る香りは、シャンパンのように華やかで瑞々しい。
「ふむ、これは随分と素晴らしい香りだな。どこの銘柄だ?」
王が興味を示したところで、ディランが待っていたとばかりに口を開いた。
「これは私からの贈り物です。先ほど、皆様にお出しするようにとお願いをしました。ルミナスが誇る最高級の茶葉を、どうぞお召し上がりください」
それを聞いて王妃が目を輝かせた。
「まぁ、ルミナスもお茶を生産しているの?」
「はい。ルミナスでは一日五杯お茶を飲む、という習慣があります。目覚めの一杯、朝食の一杯、昼食の一杯、午後の一杯、そして夕食の一杯。国民の誰もがお茶を愛し、人生に寄り添う友として扱っています」
「優雅な習慣だわ」
「ありがとうございます。さぁ、冷めてしまう前にどうぞ」
ディランに勧められて、一家全員がお茶を飲む。豊かな香りに負けない、コクのある渋み。けれど飲みやすく、まろやかな余韻が舌の上に残った。
「美味しい」
王妃が上機嫌で微笑む。母は無類のお茶好きだが、これは相当気に入ったらしい。王も満足した様子で頷いていた。アルベールは、と様子を見れば、驚いた様子でお茶を味わっている。ソフィアはまだ緊張しているディランに気づいて、そっとお菓子を勧めた。
「ディラン王太子、こちらをどうぞ。遠慮せず召し上がってくださいね」
「おや、これはありがたい。ではさっそく、ご馳走になります」
ソフィアが取り分けたフルーツタルトを、ディランが美味しそうに食べ始める。瑞々しい果実は、とびきりのご馳走だろう。彼の幸せそうな顔を見ていると、ソフィアまで嬉しくなった。すると、王妃がふふっと笑う。
「いつの間にか親しくなったのね。新婚時代を思い出すわ」
「はは、確かにそうだな」
両親の言葉が照れくさくてコホン、と咳払いをすると、ソフィアは背筋を伸ばして気持ちを切り替える。
「こうしてパーティーを開いたのは、改めてディラン王太子のことを知ってほしかったからです。争っていた国の王太子としてではなく、彼自身の人柄と考えを、直に感じてもらいたいのです」
ディランに目配せをすると、彼が頷いて胸を張る。
「……ソレイユとルミナスは長い間、ずっと争ってきました。ルミナスは食料の問題を解消するために。ソレイユは侵略の脅威に抗うために。ですが、こんな争いを続けている間にも、双方の抱える問題は深刻さを増すばかりです。ゆえに私は、自分の代で争いを終わらせようと決めました。これは父王と国民に是非を問い、慎重に推し進めている政策です」
アルベールがじっとディランを観察している。発言のひとつひとつを、値踏みしているようだ。
「この度の結婚は、繋がりを深めるための手段として提示しました。しかし、それが不信感を煽るというのであれば、諦めます」
王と王妃の顔色が変わる。真意を問う眼差しを、ディランは臆さず受け止めていた。
「私が望んでいるのは、ソレイユとルミナスの恒久的な国交です。貿易や技術の提供で共に繁栄し、苦境に立たされることがあれば手を差し伸べ、脅威が迫る時には共に抗う。そんな関係を、末永く保ちたいのです。ゆえに、ソフィア王女との結婚が問題視されるのであれば、ご意向に従います。ですから……」
ディランがアルベールを見据えて、はっきりと告げる。
「どうか和平条約だけは、締結させてください。そのためなら僕は、自分の想いを殺すことも厭いません」
「私からも、重ねてお願いします」
声が震えても、ソフィアは懸命に言葉を紡いだ。
「ルミナスは素晴らしい技術を持つ国です。ソレイユのよき友となるでしょう。国交を開き、貿易が始まれば、どちらの国も豊かに育まれるはずです。この機を逃してはいけません」
ひと呼吸すると、ソフィアは勇気を振り絞り、本音を打ち明ける。
「私はこの結婚を、自らの意思で受け入れています。ディラン王太子の妻となり、彼と共にソレイユとルミナスのためになることをしたい。それが今の私の、夢です」
以前のソフィアなら、決して願わないことだった。でも今は違う。ルミナスのことを知り、ディランの人柄に心惹かれた。彼と彼の愛する国のために尽力したい。そんな熱い想いが、胸を満たして燃えあがっている。
すると、アルベールが穏やかに笑った。
「……私はずっと、お前が結婚に怯えているのではないかと思っていた。平和の犠牲になり、見知らぬ国で見知らぬ男の妻になり、孤独な人生を歩む……そんな生き方をさせるくらいなら、和平交渉に応じるべきではない。父上と母上にも、そのように訴え続けていた」
王と王妃を見れば、頷いて肯定される。
「もちろん、父上は国同士の付き合いを優先された。それが悔しくてたまらなかった。お前の人生は道具のように扱われるのか、と。しかし……どうやら私の杞憂だったようだ」
そう言うと、アルベールがソフィアとディランを見て、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「今までの非礼を、どうか許してほしい。可愛い妹をどうか、よろしく頼む」
ソフィアもディランも、揃って呆然とする。現実を受け止めきれず「それは、つまり」と言い淀む彼に、アルベールがフンと尊大なため息をついた。
「察しの悪い男だな。認めると言っているんだ、まったく」
「アルベール」
「近々身内になるんです。大目に見てください」
母に咎められてもこの態度だ。ソフィアは呆れてしまったが、意地っ張りな兄に素直な義弟が出来るのかと思うと、なんだか面白くなってきた。
すると、ディランが目に涙を浮かべながら「ありがとうございます!」と声を張る。そんな彼を微笑ましく思いながら、ソフィアはアルベールにたずねた。
「お兄様、本当によろしいのですか?」
「愛し合う者同士を引き裂くわけにはいかないだろう」
思いがけない返答をもらい、ソフィアはそっとうつむく。顔が熱くてたまらなかった。そして同時に、心の底から安堵する。
――未来は変わった。今度こそ、幸せな結婚式を挙げよう。
初夏の爽やかな風が、明るい未来を予感させた。
それから、さらに時が流れて――春。
花が咲き誇る季節に、ソレイユとルミナスの貴賓を招いた結婚式が、ルミナスの大聖堂で執り行われた。
馬車が大聖堂に到着すると、待っていたアルベールがソフィアをエスコートしてくれる。緊張しながら降り立ったソフィアに、兄が「美しくなったな」と言って笑顔を浮かべた。
「あら、それはお世辞ですか?」
「そんなわけないだろう。お前は世界で一番美しい花嫁だ。惜しいな、こんなに可愛い妹が嫁に行ってしまうとは」
「……何もしないでくださいね?」
「妹を未亡人にする趣味はない」
別の未来を知っているだけに、笑えない冗談である。そんな思惑も知らず、アルベールはソフィアと共に大聖堂の扉の前へ移動した。控えている修道女が祈りを捧げた後、重厚な扉がゆっくりと開かれる。
朝日の差し込む講堂には、ソレイユから取り寄せた季節の生花が飾られていた。真っ直ぐ敷かれた青い絨毯の先に、純白の婚礼衣装を着たディランが待っている。清らかな讃美歌と、参列者の優しい眼差しに見守られながら、ソフィアはアルベールと共に歩み続けた。
かつて、独りきりで歩んだ道。恐怖に怯え、震えながら歩いた道。今は大切な兄に導かれ、喜びに震えながら歩いている。ディランの元へ辿り着くと、アルベールがふっと微笑んだ。
「結婚おめでとう、我が友よ」
「ありがとう、アルベール。寂しくなったら、いつでもルミナスへ来てくれ。妻と一緒に歓迎するよ」
三人揃って笑うと、アルベールがそっと離れていく。嫁いだ後は、ルミナスで暮らすことになる。そう思うと寂しくなるが、永遠の別れではない。和平条約が締結された今、ソレイユとルミナスは盟友となり、遠からず気軽に渡航できるようになるだろう。
ソフィアは前を向くと、ディランと共に愛を誓い、婚姻証明書にサインをする。あとは夫婦になったことを示す、誓いの口づけだけだ。二人揃って向かい合うと、改めて互いの姿を見つめる。
光を受けて輝く、金と銀の髪。殺される運命にあった夫は、優しい微笑みを浮かべていた。彼の手がソフィアの頬に触れて、慈しむように撫でてくれる。その仕草が、眼差しが、溢れんばかりの愛情を示していた。言葉はいらない。傍にいるだけで、こんなにも満たされるのだから。
抱き寄せるディランに身を委ねると、ソフィアは彼の胸に手を添えて目を閉じる。
婚礼の儀式を見守っていた人々が、盛大な拍手と共に祝福してくれた。
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過去作はぷらいべったーにまとめているので、そちらもぜひお楽しみください。




