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「すみません、ありがとうございます。もう大丈夫です」
頭はまだ鈍く痛むが、痛みの元は遠ざかっていった感覚があった。意識が前世から今世のものに帰ってくる。オードの手の暖かさに引き寄せられるように。
(……。…………。考えないようにしよう……)
これはこれで突き詰めて考えるとまずいことになりそうなので、リンデは無理やり意識を切り替えた。おかげさまでいっそう気が紛れた。
「お茶を淹れるから、飲め」
「あ……」
それなら私が、と申し出る前にオードは自分で支度を始めた。さっと指を振ってケトルの蓋を開けると、そこへ蛇口から水が飛び込んでいく。蛇口の操作も水の制御も同時に行っているのだ。思わず見とれてしまうリンデの目の前でケトルの蓋が閉じ、たちまち沸騰する。そのわずかな間にポットと茶缶の蓋を開けて茶葉を入れるところまでしてのけている。あとはお湯を注いで――ケトルからお湯の筋が生き物のように飛び込み、湯気がたなびいた――、少し待てば終わりだ。
その一連の動きはすべて神術だ。オードが指を振るだけで、まるで見えない糸で操られているかのように物が動いていく。
神術とは「動かすこと」であるという。手を使わずに物を動かし、豊富な神力があれば大規模だったり繊細だったり同時並行の動きもできたりする。火を熾すのも、目に見えない極小の物質を揺り動かすことから始まるのだという。その仕組みはまだまだ解明されていない――神殿はむしろこの神秘性を暴かれることを嫌うから猶更だ――が、オードのこの使いこなしを見ていると、そういった謎が解けていく日も近いのではないかと思わされる。
「ほら」
「あ……ありがとうございます……」
ぼんやりと考え込んでいたリンデの前にカップが飛んできた。置く場所がないが、研究室の椅子に座った状態なので膝の上にソーサーを置けばいい。オードならソーサーを自分の前に浮かせたままでいることなど造作もないだろうが、リンデのなけなしの神力では無理だ。卑屈になる気はないが、素直にすごいと思ってしまう。
(この、お茶の香り……)
ふわりと立ち上る香りは西洋菩提樹の香りだ。前世のリンデはこのお茶を好んで飲んでいたから懐かしい。今世では好みが違う――というか、こうした高級品に縁がなかったから好みもなにもあったものではない――のだが、もちろん嫌いではない。落ち着く香りだ。
前世のことを思い出してしまって涙腺が緩みそうになるが、そう何度も泣いてはオードを困らせるだけだろう。気を紛らわせるのも兼ねて、リンデはオードに尋ねてみた。
「オード様、このお茶がお好みなのですか? 私の名前を付けてくださったのもオード様ですし……」
リンデの問いに、オードは顔を少し逸らした。早口に答える。
「……この研究所の中庭にリンデの木があるんだ。研究に詰まるとそのあたりを散歩して考えをまとめるし、茶葉にも使うし、馴染みのある木だからな」
答えになっているようないないような返しだが、言いたいことは分かる。このお茶が嫌いでないのも分かる。だが、正直に言うとほんの少しだけ落胆した。オードは馴染みのあるものの名前をくれただけで、そこには他意などなかったのだ。リンデにとっては前世を思い出させるお茶で、名前の響きも前世のそれに少し似ていて運命めいたものを感じて嬉しかったのだが、単なる偶然なのだろう。もちろん、好ましいと思うものの名前を付けてくれたのは有難いことではあるのだが。
少しだけもやもやしたものをお茶と一緒に飲み下す。温かく薫り高いお茶を飲んでいるともやもやも解けていく。落ち着くし、美味しい。
「……? オード様、これ……下さるのですか?」
リンデの手元に何かが飛んできた。個包装のお菓子のようだ。目を瞬かせるリンデにオードはなおも顔をそらしつつ答えた。
「甘いものは脳にいいからな。お茶請けとして食べるといい」
ありがとうございます、とお礼を言って包みを剥ぐと、チョコレートのいい香りがした。もちろん今世のリンデにとっては縁のない高級品だ。前世ではこうしたものも好んで食べていたが、今世では生まれてこのかた口にしたことがない。
「…………頂きます」
意を決してこわごわ口に入れると、オレンジの香りがした。前世の自分が一番好きだった種類だ。
「……っ」
偶然なのだろうが、もう駄目だ。幸せな甘さと幸せな記憶が同時に襲ってくる。涙腺が決壊するのは当然だった。
「ああもう、仕方ない奴だな」
言いながら、オードはリンデの手元のカップを神術で近くのテーブルに移動させた。おかげさまで手が自由になるが、だからといって涙は止められない。顔を覆うことができるようになったくらいだ。
しかも、仕方ない奴だと言うオードの口調が優しい。許された気がして、気持ちが軽くなる。記憶の重荷も、少しなら下ろせるかもしれないという気になる。
「……オード様。私の……前世についてなのですが……」