15
「――どうした?」
「……え……?」
リンデは瞬いた。過去世のことを思い出してしまい、ぼんやりと回想に耽っていた。オードの声に意識が現世へと引き戻される、のだが……
(…………?)
なぜだろう、オードの顔があの少年の顔に印象が被る。もちろん顔立ちは全然違うと思うし、そもそもよく覚えていないのだが――印象に残ったのは、どこまでも暗い目と、痛々しいほど痩せた体だけだったので――、どうして重なって見えるのだろう。不思議だ。
「……オード様……世を儚んでおられたりします……?」
「は……? 話の流れが分からないんだが、そんなことはないぞ。今世で成し遂げたいことがあるから、儚んでいる暇なんてないな」
そう言うオードは生気に満ちていて、あの少年とは似ても似つかない。それなのになぜ連想してしまうのだろう。分からないが、分からないのだから仕方ない。とりあえず目の前の話に戻ることにする。
「それで、マフィンの話ですが。私、オード様に何も言っていないはずです。買い占めてほしいとも、配ってほしいとも。もちろん良いことだとは思うのですが、それはオード様だけの善行です。私にまでお礼を言われる意味が分かりませんし、私がそうさせたと仰った意味も分かりません」
そもそも、リンデにそんな発想ができない。マフィンを買い占めてもオードの懐はまったく痛まないのだろうが、リンデには同じことができない。お給金もまだ頂いていないし――必要なものは別途用意してもらえるので不自由していないが――、自分がお金を使えることに全く慣れていないのだ。
前世では有力者の娘として公共事業や慈善事業に関わったこともあったが、名前を貸して少し顔を出して箔をつけるくらいしか求められなかったし、あまり実際的なところには携われなかった。世間知らずの高飛車なお嬢様に現場を引っ掻き回されたくないという意図があったのだろう。
ともかくも、そんなリンデだから、他人にさせようという発想になるはずもない。訳が分からなくて首を傾げるリンデの前で、オードは穏やかに微笑んだ。不機嫌だったり不敵だったりする表情は知っているが、こんなに穏やかに笑うのを見るのは初めてだ。なかなかに衝撃だった。……いろいろな意味で。
「分からなくてもいいんだ。俺がそうしたかっただけだから。命じられるのとも促されるのとも違うが、お前の存在が俺にこういうことをさせたんだ」
「オード様……」
そんな表情もできるのかとぼんやり視線を返していたら、オードの方から視線を逸らされた。さすがに不躾だったかもしれない。
「まあとにかく、悪いことをしたわけではないし。そろそろ行くか」
「悪いことなんて、そんな。孤児たちにとって少しでも食べられるものにありつければ上出来の日なのに、温かくて美味しいマフィンなんて……誇張抜きに、オード様は子供たちの命の恩人です」
満足に食べられないつらさは身に染みて知っている。孤児たちのつらい境遇も、他人事としてではなく知っている。今世の経験がリンデにそうしたことを教えた。
だが、オードはそんなこととは無縁のように見える。生まれがよさそうで――少なくとも苗字があるし、神術研究所の研究員になれるくらいの頭脳、神力、それに容姿さえ持っている――、そうなると前世も恵まれたものであっただろうと推測がつく。
良い境遇に生まれた者は善い行いをし、次に生まれてくる場合にも良い境遇に恵まれる……というのが一般的な通念だ。国を主導する元老院議員たちは神殿と組み。好んでこの手の風説を広める。そして自分たちの優位性の根拠とする。
だから可能性の低い話なのだが……
「……オード様、もしかして前世の生まれはそこまで高くなかったりします? 孤児たちにそこまで親身になれるなんて、上流階級ではそうそうないことのような気がするのですが……」
「さてな」
オードははぐらかすように笑った。
「前世のことは秘密だ。俺の生まれが高かったか低かったかも秘密だ。…………」
「え?」
「何でもない。とにかく、前世のことは軽々に明かすべきではないしな」
「そうですよね、失礼しました」
オードは特に怒っていなさそうだが、前世のことをしつこく聞くのはマナー違反だ。気にならないと言ったら嘘になるが、オードを不愉快にさせてまで聞き出すことではない。
そんなふうにして納得したリンデは、気づいていなかった。
オードが小さく呟いた言葉を。生まれが高かったか低かったかは秘密だ、と言った後。オードは口の中で、こんなふうに呟いていたのだった。
――自分だけが覚えているのもしゃくだから、そう簡単には教えないぞ、と。
同時にこんな風にも言っていた。
――お前が俺のことを思い出したら……お前はどんな顔をするのだろうな、と。