五 返事をしてしまった花子さん
――私、沖田未桜っていいます。三年B組です。
――同じ図書委員で、一歳下の彼氏と、喧嘩しちゃって。
――お願いです、花子さん。彼と、仲直りをさせてください。
二日前の午後。まだ授業中にこっそりと訪れた相談者だったそうだ。
これに対して花子さんは「わかった」という血文字を個室の扉に浮かび上がらせて返事をしたのだという。
そして沖田というその先輩は。
悲鳴をあげて、トイレから逃げた。
……いや本当に何をしてくれやがったんだ、花子さん。
とかいう文句は昨日、この話を教えてくれた際に半泣きになるまで言ってやったので、まあこれ以上はいいとしよう。
問題は、だ。
「その沖田先輩って人、ぼく知らないんだよな」
「そうなのだ。恥ずかしがり屋なのか、胃腸と膀胱が強いのかトイレにも来ない」
「まあ学校のトイレは嫌だって人かもな……学外のコンビニでも行ってんのかな」
「もし来れば田中にも事細かに教えてやれるんだが。便の具合でわかる健康状態とか」
「教えるな。絶対に」
それを聞いたぼくまで変態になってしまう気がする。
「彼氏の話だとか、どういう素性の人だとか、たとえば部活は何部か、とか。そういう話。花子さんのほうこそ収穫ない?」
「ないな。だって誰もトイレでそんな、三年の沖田未桜が、みたいなピンポイントな話、しないもん。外のことは論外だ。私の世界はトイレの中だけだからな」
「そうか……かと言ってなあ。ぼくが先輩方にいきなり声をかけて探るってのもなあ。あんまり変な人だと思われたくないし」
沖田先輩のお願い――喧嘩の仲裁も、どうにかしてやりたいのだが。
現状、喧嘩してしまった彼氏が誰なのかということも、ぼくに至っては沖田先輩の顔までもわからないのであった。
「美人だぞ。日本人形みたいな白い顔でな。背も高いからモデルさんかお人形さんみたいだった。髪型も黒髪ロングのストレートで、私は好きだな。ただかなり引っ込み思案だな。顔は下を向いて、声が小さくて、緊張していたのかかすれ気味……あああああ!」
「ん? どうした、何か気付いたか?」
手がかりかと思って期待すると、花子さんはぼくの服を掴んで叫ぶ。
「あいつ用を足していない! 願いを叶える条件を満たしていないぞ!」
「返事したのお前だろうが!」
やっぱその条件、消そうよ。言った本人が忘れるレベルじゃん。
「くっそぉ……排尿なり排便なりしていたら、もっと個人情報を絞れるのに……」
ねえ変態、黙って。頭が痛くなる。
「うーん、黒髪ロングのストレートって言っても珍しくないしなあ……和風な感じなんだろうけれど、それだけで探すのも微妙なヒントだし……」
「もしもう一度来たならすぐ田中に教えたいが、田中もそもそも常時トイレにいるわけではないしな。ううむ悩ましい……」
……いやお前のせいでこんなんなってんだけどな。
そうは言ってもアカウントを削除して逃げるというのは不誠実、という意識はぼくにも花子さんにもある。せめて返事をしてしまった沖田先輩には真摯な対応をしたい。
「田中、私は思いついてしまった」
「何だろうか」
「お前、外には犬ェ門とか煎餅のおじさんとかタカ姉とかいう仲良しの幽霊がいるそうだな。うらやましい」
「犬ェ門に関してだけはあれ微妙なんだけどな」
「よく迷子の子供の幽霊をお寺へ連れて行く手伝いをしてあげたり、悪い霊や不良がうろついていれば田中にこっそり教えてくれたりする気のいい連中とのことだが」
何度か雑談でそういう話をしたのだが、覚えていたか。正直ぼくはもういま現在ですら犬ェ門のことだけは忘れたいぐらいなんだがな。
「そいつらの協力が得られたら、個人情報などいくらでも盗めるだろう」
「盗みたくはないが、まあ、どうしようもないときとかはやったかな」
小学生のとき、ふざけた男子が女子のボールペンを隠した事件があった。
見つかるまでクラスのみんなを帰らせない、という担任の先生の作戦はこじれにこじれ、一時間も教室に縛り付けられてうんざりとしたぼくは、筆談をもって犬ェ門に助けを求めたのである。犬ェ門は元々ぼくの願いならキモいながらも聞いてくれるし、招聘された煎餅のおじさんは生前で警察官だったので捜査協力してくれたし、タカ姉も遊び感覚でわくわくしながら手伝ってくれた。
結局、上級生の鞄の中という見つかりにくい上に後で探しようのない場所にあり、結構解決するまで大変だった事案がある。
「その犬ェ門を召喚しよう」
「無理だって。結界が張ってあって校内には入れない」
「だからさ! 私はその、結界の破壊、という提案をしたい」
「そんなヤバいこと絶対やらん」
「だがトイレ以外にも動ける手駒が増える」
「手駒扱いか。っていうか幽霊のいないこの清浄空間が失われるだろうが。絶対に嫌だ」
結界の破壊。
それはすなわち、この高校を取り巻いている結界とやらを外し、犬ェ門たちのような浮遊霊などなどを引き込む行為だ。調査するのなら確かにいい手段かもしれない。人間では探れないことも幽霊なら探れる。犬ェ門なんか嬉々としてやってくれそうだ。
だが当然、この高校にああした連中が大挙して侵入してくる。煎餅のおじさんとタカ姉だけならともかく、その他の連中となると色んな奴がいる。ぼくにとっての平穏が終わる。
「高校で遭遇するお化けや幽霊は花子さんだけでいい」
「む。んむ、そう、か……まあ、田中がそんなに私だけがいいと言ってくれるのなら、まあ、私も無理にとは言わないが」
地味に都合の良い捉え方をしている気がするが、特に波を立てる必要もないので黙って結界破壊の案を棄却した。ふふふんと何故か嬉しそうに笑っている花子さんも了承してくれる。
ただ。
気にはなっていたんだよな。結界のこと。
「結界が張ってあるのに、なんで花子さんって校内にいられるの?」
「ん? いや、だから言っただろ。霊能力者にぶわーってみんな除霊されちゃったときがあって。そのときからだと思うぞ。幽霊やお化けはもうトイレに入ってこなくなったし、怪現象もなくなったし、こっくりさんも普通になっちゃった、とかトイレに来た者が噂していたからな。そのうち建物も変わってしまって、本格的に昔の連中は消えたな。私だけは引っ越し気分だったが」
どうやら当時の校庭にこの建物を立て、古い校舎を潰した後でそこをグラウンドにしたらしい。確かに花子さんだけお引越し気分だろうな。
「いやあ、汲み取り式から下水になり、トイレも綺麗な洋式になって私の城が生まれ変わったときは爽快だったな! まあちょっとホラー的に趣が足りないところはあるが」
「文句言うなよ、綺麗になってんだったら絶対にいいことなんだし……でもそうか、工事の前にもう結界、張っちまったのかもな」
すでに犬ェ門が敷地の外から見つけているのだが、どうも石柱がいくつか地中に埋められているのが結界の構成要素らしい。発見されたのは四つだが、実際は土に埋もれてもう数倍はあると思う。広いもんな。
まさかまだ生き残りのお化けがいるなどとは思っていなかったらしく、そのまま結界を張ってしまったのだろう。当時いた浮遊霊の類は、結界を張られたら外に出られなさそうだと思って出ていったのかもしれない。それなら現状も納得だ。
結果、こうして花子さんだけが新築の校舎の中でも好き勝手に人の排尿排便を覗き見る変態活動を続けているわけだが。
「ま、私は結界なんかなくてもトイレの外は専門外でわからんかったがな!」
「胸を張って威張ることか」
逃げ損ねたというか、そもそもトイレの外へ逃げられるお化けじゃないんだよな。超能力はあっても縛りが強い。便利なんだか不便なんだか。
「しかしなー。そんなにいっぱいあるなら結界も全部壊すのは大変そうだな」
「破壊はせんぞ」
「わかっている。私だけがいいんだものな、田中は。こいつめ、こいつめぇ……あ、でも田中。中庭の石って、あれは結界じゃないのか?」
「あー、あっちも石碑か。うん。あれは違う。あれは除霊に使う道具らしいよ。モニュメントとして不自然にならないように校歌を刻んであるんだろうが……そっか。流儀が近いのか」
「ん?」
「除霊した奴と結界を張った奴は同一人物かもね。得意なんだろ、石を使うのが」
「うーむ、嫌な奴だ。あのむにゃむにゃ呪文野郎め」
がるるる、とか唸っているのも幼くて外見によく似合う。
……なんか昔、呪文くんってあだ名されていたときのこと思い出すから、その呪文野郎という単語はちょっと控えていただきたい所存ではあるが。
「ま、なんにしても結界が張ってあるから、ぼく、この高校は居心地がいいんだよ」
「休日でもよく来てくれるもんな。いっそトイレに住むといい」
「変態と同棲なんて嫌だよ……普通に図書館のほうが空調も効いているしな」
なので当然、図書館にも長時間いる。いても悪目立ちしないし、読書なり勉強なりしていれば時間も有効的に使える。司書の先生にこっそりWiFiを教えてもらっているので、スマホをいじっていても通信費に影響が出ない。
その司書の先生が、ぼくの次の手なのである。
「じゃ、そろそろ行くか」
「お、そうか。しかし図書館にもトイレがあればいいのに」
「隣にあるわ。っていうかなんで一年棟にあるんだろうな、あの図書館は……」
なんか理由があるんだろうけれど。結構しっちゃかめっちゃかな配置である。
トイレを出て、被服室の騒ぎさえ失せた廊下を通り図書館へと歩いていく。
この高校へ来るまで、暗くてひと気のない学校の廊下は浮遊霊の巣窟だった。だから滅多に歩いたことはないし、もし歩いたとしてもそこかしこに幽霊がいて無人という印象などない。
だから知らなかったけれど、寂しいもんなんだな。
生きた人間も、幽霊もいない廊下って。
ようやく図書館にたどり着く。だいたいいつも午後六時までは誰かしら利用者がいる。各学年に数人ほどいる読書家ではなく、勉学するのにいい場所だからと居残っているタイプらしい。なんにせよ大人しい連中なのでいい。
中学校までは犬ェ門が「あの奥! あの奥の棚に犬ェ門が読みたい『男の子のからだ -―思春期と二次性徴―』っていう保健体育の本があるのん! 陽水きゅん、取り出して一緒に読んでくれないカナ? カナ?」と騒ぐので軽い地獄だったが、ここの図書館は非常に良い。静かだ。
タカ姉が読みたがっている恋愛小説ぐらいならぼく、協力してあげられるんだけどな。
……今度、市の図書館にでも付き合ってあげようか。最近タカ姉、本、読めていないだろうし。煎餅のおじさんはそもそも本に興味がないようだが。
しかしこの黄昏高校の図書館にも、たった一つの汚点がある。
「お、陽水。こんな時間にどうした。部活の後か?」
図書館のカウンターで一人、本を読んでくつろいでいた眼鏡の女性は、司書の南村柊先生である。ぼくとは当然ながら顔見知りだ。
くだんの沖田先輩が図書委員であるのなら、この人に聞くのが早いだろう。
とはいえ見も知らぬ先輩のことを尋ねるなど、他の生徒がいる間は嫌だ。そんな理由でひと気が失せるこの時間まで待ったのだ。ごく稀に六時過ぎまでいる生徒もいるが、今日はいないらしいので、ぼくは安心してカウンターに肘を乗せた。
「いえ、大会出場者以外、部活は好きなときに行けばいいんで。今日は休みました」
「ああそうなのか。水泳部だったよな。私も泳ぎたいなあ……泳いで半裸の男子生徒に抱き着かれて責任を取らせたいなあ。責任取ってくれんかなあ、陽水」
「ぼくは責任の生じるようなこと、何もしていませんが」
「何もしていないのに私がこんな興奮するか。こんなお前、人のいない時間を狙ってやって来たからには先生にいやらしいことをする腹積もりなんだろう。言っておくがな、それは犯罪だからな。先生と陽水だから犯罪にならんだけでな」
「いそいそと上着を脱ぐな。ぼくとあんたでも十分に犯罪だ」
そして犯罪者はお前だ、淫行教師。
ちっ、と舌打ちをして南村先生は脱ぎかけていたカーディガンを羽織り直す。
御年三十歳。黙っていれば才女らしいおしとやかな女性にも見えるし、ぼくもクラスの男子も「へー、司書の先生、結構美人じゃん」と色めき立ったことがあったぐらいだが、図書館利用ガイダンスの際、一発目の挨拶で堂々と「誰か結婚してくれ。先生は未成年と寝たいんだ」とのたまったので全員が逃げた。
一部、猛者というか怖いもの見たさで応じた者(隣のクラスの青島くんという)もいたのだが、十分に一回という頻度でスマホにメッセージが飛んできた上、他の女子と仲良くするとすぐに粘着と執着に満ち満ちた内容でなじられるという恐怖の三日間を体験したらしく、最後には泣いて別れ話を切り出したのだという。
そんな狂気の逸話を持つ、というか場合によっては裁かれるべき節操なしの恋愛病、南村柊先生にぼくは時折モーションをかけられている。いや、図書館利用者は男女問わずたいがい同じ憂き目に遭っているらしい。上手いことみんな避けているだけで。
「で、求婚に来たんじゃないなら、交際の申し込みかな?」
「ここは図書館でぼくはいつも貸出と返却をお願いしているはずだが……ああいや、今日はちょっと違うんですよ。尋ねたいことがあって」
「私の給料は安いが父親が地方のスーパーを三店ほど経営していてな、実家がわりと金持ちだ。あと一人娘だから自然、婿が欲しい」
誰がそんな南村柊と結婚するための前情報なんか欲しいんだよ。
「あの、図書委員に沖田さんっていると思うんですよ。三年生で」
「いない」
「おいちゃんと答えてくれ、あと上着を脱ぐな」
「だって陽水、アレだろ。私を嫉妬させて興奮させるために架空の女の話をしたんだろ」
「架空じゃないって。三年B組のはずなんですよ」
「おらんと言うに」
あれ? どうやら本音のトーン、っぽい……ひょっとしてクラスに関しては間違えたのだろうか。花子さんのことだからぼくに伝え間違えたのだろう。となると、ええと、名前は流石に間違えていないと思うんだけれど。
「沖田……未桜、かな。そういう人なんですけど」
「ん? あ、あー。そうか。沖田未桜か。なあんだ陽水。それなら知っているよ」
やっぱりクラス違いか。少しほっとする。
「ちょっとその人について知りたくて。あの、彼氏と喧嘩したって話らしいんですけど」
「そうだよ」
「その彼氏っていうのは、ええと、二年生だったかな」
「三年生。でも絶対、その話はタブーな」
「え? あー、やっぱりその、怒っている?」
「そりゃ彼氏だって怒るだろうよ。沖田未桜の話なんかしたら」
さも当然、というような言い方だ。どんな喧嘩だったんだろうか。
「いや実はぼく、そんなにちゃんとは知らなくて」
「まあ、お前らが入学する前の出来事だからな。詳細は知らないのも当然だろうが……」
となるともう二ヶ月以上もの間、喧嘩が続いているということか。それは確かに藁をも掴む思いで花子さんを頼ろうというものか。
「てことは、二ヶ月も怒るような理由で喧嘩したんですかね?」
「理由は知らんよ。誰もそんなナイーブなことは聞けないからな」
「まあそりゃ、そうですよね……あの、なんかその、沖田先輩がずいぶんと気にしている、という話を聞いたんですけれど」
「……は?」
「え、ああいや、だからその、沖田未桜さんが、彼と仲直りをしたがっている、というような話を聞いたので」
「……誰、から?」
そう来るよなー。
学校の怪談から聞きました、とは言いにくい。なのでぼくは、一応の言い訳を用意した。
「いやなんか、最近ちょっと視聴覚室のところのトイレ、噂なんですよ。願いが叶う、とかなんとか。ぼくも最近知ったんですけど。でもあそこ男子のほうは穴場で。人がいないもんでたまに腹が痛いとき、使うんですよね。そしたら換気のせいか窓が開いていて、女子トイレも窓が開いていたのか、隣からそんな声が聞こえたんですよ。沖田未桜って名乗って、彼と喧嘩したから仲直りがしたいって――」
「…………」
ぼくは口をつぐむ。
南村先生の顔が、みるみる血の気を引いて青ざめていったからだ。ぼくを見る目にやや怯えや恐怖といった感情が見える。
ぼくは、何か失言をしたのか。それとも女子トイレの音声を聞いている変態盗聴犯だとでも思われたのか。いや本当に偶然で、窓が開いていたなんて思っていなくて、などと言い訳をしたのも南村先生は聞いていないようだった。
震える唇で、ぞっとするほど低い声で、つぶやいた。
「死んだんだ」
「え?」
「死んだんだよ……彼女は。沖田未桜は。お前らが入学する前に」
お前が聞いたのは、死者の声だよ。
そして先生は眼鏡を外して目元を押さえて、声を絞り出す。
「受験終わりの解放感からかもしれんが、一部の噂では彼氏と喧嘩したのが原因で自殺したらしい。だから彼氏は――筑波恭二は、いまも塞ぎ込んでいるし、喧嘩の原因を誰にも話さない。誰との会話も拒否したまま、引きこもっている」
やっと知れた情報も、何もかも、指からこぼれていくように現実感がない。
花子さんは一体、誰の声を聞いたんだ?