四 なんでも願いを叶えてくれる花子さん
「……やりすぎたなって思ってはいるんだ」
「ああ。これはやばいな。詳しくない私でもわかるぞ」
一ヶ月後の、放課後。
ぼくと花子さんは職員棟の視聴覚室隣にあるトイレではなく、玄関棟二階の被服室の隣にあるトイレへと来ていた。いつもの視聴覚室隣のトイレに比べると外から人の声がかなり聞こえてきて、話をするのには少し向いていないのだが、声の主は女子ばかりだ。男子トイレには来るまい。
花子さん情報によると放課後の被服室には手芸部が集まるのだという。その手芸部の部員はほとんど全員が女子で、その声が漏れて聞こえているだけらしく、このトイレを使うのもこの時間帯は手芸部員ばかりで男子はいない。ゆえに男子トイレは人の出入りがほとんどない。
そして、その個室の中でぼくと花子さんは二人して頭を抱えていた。
「田中のせいだ」
「……いやー、でも花子さんにもちょっと非があったような」
「でも書き込みとやらをしたのは田中だ。私は何もしていない」
「何もしていないは言い過ぎでしょ。ぼくに『なんでも願いを叶えてやる、ぐらい書いたっていいぞ!』って息巻いていたじゃん」
「だってお前、ねっとは架空の世界って言ったじゃないか!」
「まあ架空の世界ではあるんだけどさ……」
そうなのだ。
SNSにおけるトイレの花子さんアカウントはゴールデンウィーク過ぎまで全く盛り上がっていなかった。連休中、図書館に来て本を返すついでにトイレへ寄ってやると、花子さんは誰も来ないのをつまんながっていたところだったので大喜びし、状況を聞いてがっくりと落胆し。
そして、暴挙に出た。
できもしないのに「花子さんに願い事をするとなんでも叶えてくれる」とかいう嘘を思いつき、ぼくもぼくで「ま、ぶっちゃけ誰も見ねえよな」と悪乗りに乗った。
結果、以下のような自己紹介文が並ぶことになった。
『黄昏高校の視聴覚室隣のトイレに住んでいる学校の怪談、トイレの花子さんです。願いを叶えるので悩み事がある人は一番奥の個室のドアを叩き、「花子さん、遊びましょう」と声をかけてから中に入って願い事をしてください』
そしたら。
視聴覚室前には花子さんを呼び出しては願いを叶えてもらおうと女子たちがわんさかと並び始めた。慌てて「他人に聞かれると意味がない」みたいな言い訳を投稿して行列こそ散らしたのだが、いかんせん、こっそりと訪れる客が後を絶たないのだという。
当然、花子さんには願いを叶える能力などない。
花子さんは血の出る蛇口だとか、個室の壁に浮かび上がる手形だとか、そういう手法で人を驚かせるぐらいしかできないのだ。なんならスルーされることも多い。
いやテレポートとか強力な技は流石にスルーされないだろうけど。
いま欲しいのは願いを叶えるという神様みたいな力のことで、そんな「あれ、勘違いして下の階のトイレに入ったんだ自分」とか思われそうな程度の能力どうしようもない。
霊能力者に感づかれると除霊されるという恐怖も、花子さんにはあるようだし。
「この間まで誰も注目しなかったじゃん……現金だなあ、ちきしょう……」
現金と言えば、SNSでよく「このアカウントをフォローして拡散してくれたら現金百万円プレゼント!」みたいな内容を投稿しては応募者が殺到、最後には「嘘でした、ごめんなさい」して更に炎上するような実話があちこちに転がっているな。
ぼくも気を付けるべきだった。安易な嘘は本当によろしくない。ネット上なんだからいくら嘘をついてもリアル個人を特定するのなんか無理だろ、とか思っていたとしても。
いや、反省はともかく。いま考えるべき問題は。
この大騒ぎを、どうやって収束させるかだ。
「ねえねえ田中。いまのところ、どういう条件にしたんだっけ?」
「一、人に聞かれてはならない。二、花子さんの気に入った願いしか聞き入れられない。三、必ずその際には用を足すこと……これ三番目は変態の所業だと思うんだが」
「おい、いま私を罵ったか?」
「だってこの条件に関しては花子さんの趣味でしょ」
花子さんは言い返すこともできなくなったようで、とにかく、と話の流れを変えた。
「このままだと私は嘘つきお化けになってしまう」
「……いまのうちにアカウント、削除しようか」
炎上を続けてまでおこなうことではないだろうしな。
「さくじょ?」
「簡単にアカウントを消せる。そしたら噂ぐらいは残るだろうけれど、願いを叶えるなんて嘘だった、イタズラだった、って話で終わるよ」
「消す、というのか?」
そうだよ、と言いながらスマホを操作する。アカウント情報を削除するには、ええと、どこを操作すれば良かったんだっけ――
がっ、と腕を掴まれる。どうかしたのかと思って花子さんの顔を見ると。
「消す、のは、ダメだ。田中」
見開いた目。わななく唇。必死の懇願だと、その表情が物語っていた。
ふるふると首を横に振って、花子さんはぼくを止めようとしていた。
いきなり何をこんなに激動しているのかと思ってのけぞっている間にも、ぎゅうう、と花子さんの握力は強くなる。ちょっと、ぼくの顔が引きつるぐらいに。
「消すのは、ダメだ」
「……なんで?」
「可哀想だ」
「いやあの、アカウントってただの身分証みたいなものだから」
「あかうんとじゃなくて!」
ああ、とようやく感づいた。
そしてぼくは途轍もなく、不誠実なことをしたのかもしれないとも。
「願い事をしに来た人が、可哀想だ。そりゃ、大半はどうにもならん願い事だった。でも本気の願い事だってあった。それとも田中は平気か? 人を騙したんだぞ」
「……いや、でもね」
「私も騙した。よく知らなかったとはいえ、悪いことをした」
花子さんの声は痛切だった。視線を落としてぽつぽつと続ける。
「ねっとは、架空の世界だと言っていたけど、そこに生きた人間が接続している以上、やっぱり本当の世界なんだよ、田中。ひょっとしたら令和のみんなは慣れきっているのかもしれんが、私には無理だ。そんな簡単に嘘をついたり、騙したり、消えたり、卑怯だ」
「……いや、あの」
「願いを叶えよう」
「え」
「全部じゃないけど。っていうかお金が欲しいとかいけめんの彼氏が欲しいとか成績あげてくれとか足が速くなりますようにとか、そういうのは無理だけど」
まだ眉尻を下げたまま、花子さんは口角を目一杯広げて綺麗な白い歯を見せた。
「叶えたいと思ったんだ。私は、こんなトイレで人を脅かすぐらいのことしかできないけれど、でも誰かが少しでも喜ぶのなら、それは絶対にいいことじゃないかと思ったんだ」
気圧される。でも少しずつ、ぼくも同じ気持ちになっていく。
ぼくの心に生まれた罪悪感が、それを花子さんに指摘された気恥ずかしさが。
贖罪するように、消えていってくれるような、そんな気がしたんだ。
それに。
この幽霊は、きっと善良なのだろう、とも思った。
「それは……返り咲き隊の、活動として?」
「うん!」
首がもげるかと思うような激しいうなずきをして、そして。
「それにもう返事してしまった件が一つあったしな!」
ぽろっと、口を滑らせたのである。