二 花子さんとはじめての喧嘩
「へんたい?」
「え?」
「ねえ私、変態扱いされているの?」
「……違うのか?」
高校生活も三日目。
日常的につるんでいられる友達グループもできたし、部活も憧れの水泳部があったので入り、先生もいまのところムカつくタイプはいない。なかなか順調に高校生活を続けていた。
何よりこの高校、本当に幽霊がいない。
これまで体育の授業中に落ち武者がバスケットコートにいて邪魔だったし、職員室に行けば人間と幽霊の区別がつかずに何もないところへ話しかけてしまったり(話しかけられた女教師風の幽霊はその後しばらくストーカー化したのでタカ姉にも手伝ってもらいお寺へ送ってあげた)、真面目に授業を受けているのに犬ェ門のブリーフが隣でゆさんゆさん揺れていてぶっ殺したかったり(見かねた煎餅のおじさんが犬ェ門を連れていってくれたこともあるが、それも週に二、三度だった)、大変だった。
だがこの高校に入学してからそうした幽霊トラブルは一切ない。あるとすれば登下校の最中に犬ェ門がからんでくることと、同じく下校中に浮遊霊にまとわりつかれてお寺に連れていってやったことぐらいで、あとはここ、トイレだけだった。
玄関棟、一年棟、二年棟、三年棟、職員棟、部室棟。
黄昏高校はその六つの建物が連結しており、いずれも三階建てだ。各棟の各階に一つずつ男女のトイレがあり、職員棟一階にだけ車椅子でも入れる広い男女共用の個室トイレがある。さらに独立している大講堂と小講堂、屋内プール場にもトイレがある。その上さらにサッカー用と野球用でおおよそ使い分けられているグラウンドの片隅にも野外トイレが建てられていた。
それらすべてのトイレに出没できるという黒いセーラー服の変態美少女は、職員棟三階にあった、確かに綺麗でひと気のないトイレで三日ぶりにぼくと話し、そして愕然としていた。
名前がわからなかったので「おい変態。来たぞ」と軽く言ったところ、この反応である。
ぼくも普通はそんな罵倒をしないのだが、こいつ人の用足しを覗くからな。
「待て田中。私は変態ではないのだ」
「人のおしっこ覗き見る女は痴女とか変態でまったく矛盾せんが」
「違う違う。私はただ人のおしっこを見る女ではないのだ」
「違ったのか」
「大きいほうも見る」
「より変態度が増しているわけだが」
「待つのだ田中。私はな、トイレの花子さんなのだ」
「あ、名前あるのか」
そっかそっか、花子さんか。どことなく古めかしい名前だが、そもそもこの学校にセーラー服があったのも先生いわく相当前らしいからな。わりと古い幽霊なのだろう。
と、そこで花子さんがドヤ顔のままリアクション待ちっぽいのを察した。なんだ?
「トイレの花子さんだ」
「……うん」
「トイレの花子さん、と聞けば田中も相当な驚きであろう。サインが欲しいとか握手したいとか、そういう願いも聞いてやれるぞ」
「なんで?」
「え」
「いや、別にサインも握手も要らんが」
「へ」
亜然と口を開けている。うん、なんだろう。何か言いたいようだが何も伝わってこない。しばしの沈黙を経て花子さんが言う。
「田中。子供のころ、学校のトイレには花子さんが出てくるという都市伝説を聞いたことは当然だが、あるよな?」
「いやないけど?」
「な」
大口を開いて大きな目を見開く花子さんであるが、はっきり言ってこれが初対面だし他にもトイレに花子さんという幽霊がいた覚えはない。からまれた覚えもない。
霊感体質ゆえ、かえって怪談や幽霊話からは遠ざかっていたんだよな。下手に知ると向こうも近付いてくるし。
というか、都市伝説とか言ったな。
「なんだお前、幽霊じゃなくてお化けか」
「ぬ? なんか違うの?」
「んー、ぼくと知り合いの幽霊の間では、一応、分けている。どっちかよくわかんない、みたいなのも確かにいるけど。えーとね」
幽霊は、死んだ人間の魂や想いが生前の形を取ったものだ。
対してお化けは、生きている人間の恐怖心が生んだ化け物だ。
どちらも人の思念から生じ、霊感体質でもない限り見ることができない存在という点では共通であり、ボーダーレスな存在もままある。犬ェ門にしても煎餅のおじさんにしてもタカ姉にしても生前の記憶はあるそうだし、自分がどういう人柄だったかも自覚があるため「たぶん幽霊」ということになっていた。
対してお化けは大体、生前の記憶などはない。いつの間にかここにいた、という感じだ。性格なんかは大体、どういう怪談として語られていたかに依拠するらしいが、調査や確認まではぼくもしていない。
煎餅のおじさんなんかは「実験次第じゃお化けは生めるかもな。たぶん恐怖の数や質に影響されるだろうから、怪談話でも広めたら本当に生まれるかもしれんぞ」などとのたまっていたものだ。
ああ、だから怪談とか聞かなかったんだ。
場合によっては大迷惑な存在が増える行為など、したくもない。
「おお。確かに私は気付けばこの高校のトイレにいたな。生前の記憶がないから、たぶんすっごいいい家のお嬢様だったのだと勝手に思っていたが」
「お嬢様は人のトイレ覗かないと思うけどな」
しかしお化けか。
個人的に見たことがあるのは身長が尋常ではなく高い女のお化け、八尺様。それと煎餅のおじさんがすぐさま顔を覆ったせいで一瞬だけしか見えなかったが、見たら精神崩壊するという怪異、くねくねにも遭遇したはずだ。
そうしたラインナップにトイレの花子さんなる存在はいたかどうか。ネット怪談になると膨大すぎて追えないところがあるし、有名どころと、会った経験があるお化けしかぼくは知らない。
「あー、まあ知名度はちょっと低いみたいだけれど、花子さんも知られたお化けなのか」
「ちょ、ちょっと、低い?」
ひくひくっ、と口の端をおののかせた花子さんの形相に、やばい、と直感的に感じた。何やら地雷を踏んだような気がする。
案の定、頭から勢いよく湯気を吹き出しそうな勢いで花子さんは叫んだ。
「全国中に知られた学校の怪談界の超絶スーパースターである花子さんのことをな! 田中お前はな! ちょ、ちょっと! 知名度が低いなどとなあ!」
「待て待て待て殴るな殴るな、痛いって、なになになに」
「私は学校の怪談界のアイドル! 知らない小学生なんているわけのない学校の怪談随一の美少女アイドル、トイレの花子さんだ! 知らないわけがないだろう!」
「見ての通り高校生でな。小学生の噂話には疎い」
「いやいやいや! 日本全国津々浦々どこの誰でも知っているレベルだぞ!」
「全国津々浦々て……」
知らんもんは知らんのだ。
と、花子さんはいきなり、はっと感づいた顔をしてからにたりと人を小馬鹿にした笑みを浮かべてみせる。表情がころころ変わる奴だ。
「ははーん。さては田中。お前、照れているんだろう。あの噂に名高いトイレの花子さんを間近で見られて、実はすっごくどきどきしていたな? さては三日も来なかったのは恐れ多かったからだろ。ふふふん、知らんだろうがお前がトイレで用を足しているのを私はちゃんと上から見ていたぞ。他の友達っぽい連中もいたから声はかけなかったがな」
「やっぱり変態じゃねえか」
「ちゃうわ! っていうか照れなくていいぞいいぞ。もっと気安い感じで来い。こっちもお前に頼み事があるのだから、その点において私達は対等だ」
「はなから対等のつもりだが……いやあの、マジで花子さんさ、その、どこの誰でも知っていますが何か? みたいな態度はやめてくれ。本気でわからんのだ」
ひくっ、と眉が動いている。いかん、これ以上の刺激はまずい。
とりあえずスマホである。スマホで調べれば大抵のことは出て来るのだ。検索画面にトイレの花子さんと打ち込んだ。
「おお、すげえ出た。トイレの花子さん」
「出た? 何が? おしっこ? 大便?」
「言葉を慎め変態。ほらこれ、スマホ検索したんだよ。へー、本当にメジャーだったんだ」
「すまほ? ああ、あれか。みんな触っているやつか。まあいい。そうだそうだ。私はスーパーアイドル怪談娘、トイレの花子さんなのだからな!」
なるほどなるほど、トイレに出て来る女の子のお化けで、学校ごとに色んな噂や細かな差異はあるが、確かに全国で目撃されていた社会問題級のお化けらしい。なるほどね、一九九〇年代に流行した……あん?
花子さんを見る。もう一度画面を見る。うん。うんうん。
一九九〇年代。
「昭和か?」
「平成だよ!」
脇腹に思いっきり強めのパンチを食らった。いくら女の子の細腕でも地味に痛い。いやいや。だって花子さんさ、三十年以上も前だぞ?
「平成だっけ?」
「平成だ!」
「まあ、それでも令和の時代のお化けじゃねえよな……」
さっきまで変態美少女に見えたんだが。
たったいま変態美ロリババアという印象に――
「おい田中」
めっちゃ顔が怖いこのロリババア。何、どうしたの。
「何かすっごいすっごい失礼なことを考えてはいないか? 言っておくが私は永遠の十七歳だからな。お化けは歳を取らんのだからな。私はお前の一歳だけ年上だという事実は重々承知しておけよ田中。なあ田中。来年は同い年で再来年には先輩の田中」
近いよ。顔が近い。いや曲がりなりにも美少女だからちょっと心臓に悪いんだけど。
ただもう三十年以上も幽霊をやっている年季の入った存在だとわかるとなあ、うん。
同世代じゃないという意識だけで、なんというか。
「一気に心臓に良くなった」
「ぬ? うん? うん。うーん、良くなった? なら、いいのかな?」
ふむふむ、と考え込んでからぱっと輝く笑顔を見せる。
「私はお前にとっていい存在なのだな!」
「まあそういうことでいいです」
これ以上この件で揉めたくない。
「では心おきなく頼み事ができるということだな! ふー、三日も田中がこの美少女に会うのをためらうピュア男子だから困ったぞ! 早く来ればいいのにぃ! このこのぉ!」
すげえ。機嫌が良くなったら途端に図に乗ったぞこいつ。
「では田中よ、お前を『花子さん返り咲き隊』の隊員に任命する!」
「何それ」
「つまりな、この私、花子さんの噂話を昨今聞かんのだ。みんなトイレに来て幽霊に怯えるとかそういうことはない。堂々としたもので化粧などしていくような大人ぶった女子ばかりだ」
「……はあ」
「これでは学校の怪談としての威厳が保たれん。お前、ちょっと人間の間に噂話をばらまいておけ」
「は?」
「トイレには花子さんが出るよー、ってな。怖いぞ怖いぞーって。脅かしておけ」
「いや無理だけど」
「……何故だ」
「ぼくそういうキャラじゃないし」
「きゃら?」
ぽかあんとなさっている。うん、だからね。
「いきなり教室で学校の怪談なんかをするようなタイプじゃないんだよ、ぼく」
「お化けが見えるのにか?」
「それマイナスだから人に言わないし」
「ま、マイナス?」
愕然とする変態美ロリババア。まあ、幽霊やお化けの中では珍しくない反応ではある。
「人間の中ではな、幽霊やお化けが見えることって結構微妙なんだよ。変に興味を持たれることもあるけれど、ほとんどはイロモノ扱いだな。ぼくじゃなくて他の奴だったけれど、自称霊感持ちっていうキャラでいて、変ないじられ方とかしていたの見てきたからさ」
いやぼくも幽霊だとわからずに虚空へ話しかけて、周囲からひそひそと「あいつ何もないところに喋ってね?」「呪文だよ、呪文くん」「こわーい」とか言われたことあったからな。一ヶ月ぐらいしたらみんな飽きて忘れてくれたようだが。
ああいう疎外感は、あまり味わいたくない。
「え、でも、でもトイレの花子さんと喋れるなんてすっごいことだぞ?」
「そんなん喜ぶのって一部だよ」
たまに霊視芸人とかもてはやされているのをテレビで見るが、あれは芸能人だからだ。占いだって本気でラッキーカラーに全身を染める人など一部だろう。
結局こういうオカルトは日常のちょっとしたスパイスとして求められているだけで、二十四時間幽霊まみれのお化け騒ぎというのは誰も欲してはいないのだ。
いたとして一部の偏屈な者だけで。
花子さんはびっくりした顔をし、ぱちぱちとまばたきをして見せ、唐突にふうと息をつき、納得したかのような顔でうなずいた後で突如むくーっと膨れた。情緒不安定か。
「嫌だ。田中はもう返り咲き隊の一員にすると決めたのだ」
「いや勝手に決めんなや」
「だって私とこんなにお喋りできる奴いないんだもん。いいじゃないか田中。私がこうして毎度毎度トイレのたびに声をかけて仲良くしてやるぞ」
「そんな特典みたいに言われても」
「おしっこや便の具合から健康状態もチェックしてやる。田中、お前さては家でコーヒーを飲むちょっと大人ぶる癖があるな。飲み過ぎだ。胃によろしくないぞ。飲むならもっと牛乳を混ぜるがいい」
「勝手に人の出したもんチェックすんな変態!」
ちょっと本気で抵抗があった。あと家でコーヒーを飲むと大人ぶるって何。いまどき小学生だって飲むだろコーヒーぐらい。
「何を言う。尿の匂いや量、濃さ薄さでも色々とわかるぞ。最近の高校生はおかしい。血尿寸前の連中いっぱいいるぞ。みんな外で何の激務に励んでいるんだ」
「だからチェックをやめろ」
「私はずっとトイレにいるのだ。唯一の娯楽が排泄物なのだ」
やっぱりこいつド変態だな。トイレに行かないのは無理にしても、一旦距離を置きたい。だが無邪気な顔の花子さんは、ぼくを返り咲き隊とかいう謎団体に所属させようとしている。
うーむ。なるべくやりたくはない手だったんだがなあ。
「花子さん。言っておくがぼくには数珠パンチという手がある」
「前にも言っていたな。そのパンツ」
「パンチだと言っているだろうが。つまりな、害をなす幽霊やお化けを相手にする強力な武器がぼくにはある」
殴るだけだが。
右手首にはめた特別製の数珠のお陰で結構その殴打は痛いという。幽霊にしてもお化けにしても普通は痛覚を刺激される経験がないらしく、一度これで殴られるとそうは近寄らない。犬ェ門はドMだから特殊だが。
怒りで我を忘れている系の悪霊とかにも効くので困ったときにはよく使う。
花子さんは、うむ? と首をかしげた。
「私は害をなしていないどころか田中の眼福になっているレベルの超絶美少女アイドルお化けなんだから、パンチする必要なくない?」
「無理強いはイエローカードだ」
眼福か。眼福なあ。地味に否定しづらい。
ただ用を足すこちらを見られてもいるので結構削がれている福ではあるな。
「まあまあ田中。そんな警戒しなくても返り咲き隊の活動はきっと楽しいぞ。朝はのぼりを持って花子さん活動、昼は放送室をジャックして花子さん活動、放課後は居残りの生徒を見つけて花子さん活動。こんなに私づくしの生活を送れて田中は幸せ者だ」
「なんでそんな不審者みたいな真似しないといけないんだ」
「だから全盛期の私をよみがえらせるのだ。トイレに行くたびに『花子さんが出たらどうしよう』とか『私この間、鏡の端っこにちらりと見えたんだよね』とかきゃあきゃあ騒いでくれるあの感じ。休み時間の度に聞こえる花子さんが花子さんがという声。授業中に回るメモ書きにきっと書かれているであろう花子さんの名前。ふふ、アイドルというのはつらいな……」
遠い目をする自己評価激高の花子さんだが、一部妄想が混じっているようである。ぼくは一九九〇年代のことを知らないので全部が妄想ではないかとさえ思っているが。
「考えたら二〇世紀のことなんだな、花子さんの全盛期」
「ふふ、そうさそうさ。私の全盛期は前世紀……おい田中。いまお前私のことをババアとか思っただろ」
「思っとらんわ」
ただ自分でも思い付いていたその寒いダジャレは言わないで正解だなと思っただけだ。
「一級年上のお姉さんだ。ほら言って抱き着いてみろ。おねーさーんって」
「花子さんさ」
「照れ屋さんめ」
「ぼくもう帰るから。またね」
「おい待て。返り咲き隊の活動はどうする?」
「いや入らないって言ってんじゃん」
じいいいっ、と花子さんが湿度の高い視線を向けてくる。そんな目をされても。
「ぼくだって忙しいんだ。水泳部だってあるし、友達と遊んでいる暇がなくなる活動なんかできるか。ただでさえ霊感体質で苦労しているっていうのに……」
「いーやーだーっ!」
ついに駄々をこねられた。地団太を踏み、じたばたと振り回された腕がぼくの胸や腕や背中を打つ。地味に痛い。おい、こら、ちょっと。
「いやだいやだいやだーっ! 田中が意地悪言うなら私だって毎回毎回いやがらせしてやるんだからな! 言うこと聞けよー、返り咲き隊に入れって、たーなーかーっ!」
ぶちっ、と自分の堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。
気付くと右手はスムーズに拳を握っており、身長差からちょうど花子さんの脳天が丸見えだった。
ぼくはこのとき、花子さんのことを可愛らしいウザい女の子ではなく、過去にもたくさんいた害なす存在として認識していたのだと思う。幽霊やお化けであれば、遠慮は不要だ。
ごんっ。
つむじの見える頭頂部へと落とした拳骨は、非常にいい音であった。
花子さんは首をすくめ、小さくてやたら肌の白い手を挙げている。それがどうやら頭を押さえようとしているのだとわかった瞬間、ふええ、というこもった唸り声が響いた。
「い、いたい……」
じわああ、と花子さんの大きくて黒目がちの目がみるみるうちに潤んでいく。
「た、たなっ、たなか、ぐすっ、うう、な、なんで、いたい……う、うう、ううう」
「いや待て。だから、な。言っただろうが。数珠パンチって」
「うわあああああああんん! たぁなぁかぁのぶわぁぁぁぁぁぁかああああああ!」
「がっ、な……ま、ちょ」
とんでもねえ泣き声だった。耳をつんざくとかいうレベルではない。トイレ中に反響しまくって全身をぐらぐら揺さぶられているような気分だった。びりびりと頭蓋骨が割れそうな気持ちがして、逃げようとしたのに膝が笑ってしまいまともに進めん。両手は耳を塞ぐのにいっぱいで、壁に背中を預けて歯を食いしばるよりほかない。
「なんでっ! なんで殴るの田中のあほんだら! ばかたれ! うすらぼけ!」
「うあ、耳やっべ……ぐらぐらする……」
ようやく泣き声から文句に移ったところで呼吸ができたが、めまいはまだ続いている。なんつー声だ。
いまになって、ぼくがまだ霊感体質になっていくらも経たないころに犬ェ門が言っていたことを鮮明に思い出していた。
――陽水きゅん。幽霊は元が人間だからまだいいけれど、お化けは気を付けてね。あれは元が人間じゃないから人間側の常識も通用しないし、場合によっては他人を怖がらせること、害することをアイデンティティとしている場合もある。見た目、幽霊と区別つかないパターンもあるけれど、絶対に気を付けてね。
そういや八尺様もくねくねも、煎餅のおじさんが対処してくれたから良かったものの、基本的には危険な存在だったか。いや八尺様はストーカー幽霊と大差なかったが。
鼻をすすりながら花子さんは真っ赤な目でぼくをにらむ。ぐぬぬぬ、とか唸るその表情から汲み取れるのは憎悪の感情だ。
のほほんとした外見でつい和んでしまっていたが、まさか花子さんって、結構タチが悪いお化けだったのか? こんな強烈な感情を向けてくるとは思わなかった。
「た、田中がぁ、ぐすっ、わた、私のお願い、うぐっ、聞いてくれないから、だぞっ」
「それはお前がわがままを言うからだろうが……」
「ふ、ふふんっ、も、もう遅いんだからなっ。私を怒らせるとどうなるか、とくと思い知るがいいんだっ」
そういえば。
犬ェ門がかつてこうも言っていた。数珠パンチってどれぐらい痛いのかという話だ。
――パンチの強さは関係なく、数珠の強さがものを言うかな。陽水きゅんの持っているそれは全力で漕いだ自転車で思いっきり突っ込んでこられた痛みを拳のサイズに凝縮したような感じ。ぶっちゃけ陽水きゅん以外の奴からされたら激おこのマジおこ。陽水きゅんにされていると思えば気持ちもいいけれどそうでなければただただきっつい。
……これ言われたぼくも相当きつかったけどな。
さておき、脳天に自転車激突レベルの衝撃を食らった花子さんはかなり怒っているようだ。いや元はと言えばお前が――とか言おうとしたが、とりあえず一旦、逃げて時間を置いてからまた話をしに来るかと個室から出る。
「……ん?」
違和感があった。
脳トレ系のテレビ番組でじわじわと画像の一部が変わるクイズをたまにやっているが、あんな感じだ。何か違う。何か変わった。周囲の何かが、おかしい。
普通のトイレだと思う。床の色やタイルの色? 蛍光灯? え、でも気のせいかな。個室が三つ並ぶだけの普通のトイレ――ん?
「あー、もうマジだるいなー、新しいコーチ」
「ねー。基礎練ばっか」
かしましい女の声が外から聞こえてきた。普通に考えればその声は男子トイレには来ない。来るはずがない。だがここには来る。
だってここには、小便器がない。さっきまでいた男子トイレは個室が二つなのに対し、ここは三つあるのだ。
「花子さんこれは……っ!」
「ふふ、気付いたか。そうだ、私は学校のトイレならどこにでも瞬間移動させることができるのだ。ここは大講堂の女子トイレ。さあ田中よ。さっきから私のことを変態変態と言ってはばからないお前こそ女子トイレで悪さをしていた変態と思われるといい」
もうその言葉が終わるのを待ってもいられなかった。
表の扉は無理だ。女子と鉢合わせる。窓はどうか。換気目的のそれは小さく狭い。とてもじゃないが脱出路として使えるとは思えん。
結果、ぼくはいましがた出たばかりの個室へ飛び込んだ。
なんだこのお化け。本当に強烈な力を持っているじゃないか。テレポートさせられるなんて、お化けに関わってきたぼくだって過去二回ぐらいしかないぞ。
「ってか一年生なんてまだ学校に慣れてもいないんだからさー、あんなに厳しく言う必要あるかって話だよねー」
「お、ミカってばいい先輩じゃん」
「だってほら、うちらもカナヤン先輩に超可愛がってもらっていたしー」
個室の扉を閉めた間一髪のタイミングで、複数人の女子がトイレにがやがやと入って来たのがわかる。時間帯的には部活の途中か。ぼくの入った水泳部に比べ、ちゃんと始まりの時間がある部活らしい。大講堂を使っているなら女子バスケットボール部か女子バレー部と見た。
「ほーう、危ないところだったな田中よ」
個室の中、便器のフタの上には花子さんが足を組んで座り尊大な態度を見せている。うっすらと涙目の跡はあるが、その表情はもう殴られて弱っていたものではない。むしろアドバンテージを持ち、勝ち誇る傲慢な笑みである。
「最近ちょっと噂をされなくなった花子さんと言えどもこれぐらいのことはできる。なにせ元々は全国の子供が噂しまくったスーパーアイドル花子さんだからな」
花子さんの声が聞こえるのはぼくみたいな霊感体質だけだ。案の定、個室へと入って来た女子たちにはこの声が聞こえていまい。
「あれ、一個使ってんね」
「あー、うち待っているからいいよー」
「ごめんねおさきー」
どうやら三人で来たようだ。本来なら三つとも個室は空いているわけだが、いまはそのうちの一つにぼくと花子さんが入っている。不可抗力とはいえ女子が用を足す音を聞くわけにはいくまいと思い、ぼくは耳を塞いだ。
それでも花子さんの声は聞こえる。距離が近いせいか、お化けだからか。
「おやおや田中。手を離していいのか? 私がちょっと念じるだけでその扉の鍵はいとも簡単に開いてしまうのだぞ?」
慌てて扉の鍵に手を置く。ふふふふふっ、とずいぶん楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
花子さんはすっかり気を良くしたようで、大変にご満悦だった。元が童顔のせいもあって悪者の顔には見えないのだが、いたずらっ子じみてはいた。
さぁて、と普通の高校生がやれば色っぽく見える足の組み換えも、花子さんがやると保育園のお遊戯会みたいな印象だ。なんだろうな。この幼さは。
「田中よ。私はお前みたいな幽霊の見えるげぼ友達がずっと欲しかったんだ」
いま下僕って言いかけたよな? げぼ友達って言ったよな? 何を新しい日本語つくってんだ、おい。こらお化け。表に女の子がいるから話せないけれど本気ならもう一発殴っても裁判に勝てるレベルだぞ。
お化けに法がまかり通るかは知らんけど。
「返り咲き隊に入れ。そして私という存在をもう一度全国に知らしめるのだ。まあ無論、いきなり全国制覇というわけにはいかんだろうからな。まずはこの高校に通うみんなに知ってもらう程度でいいだろう」
無茶を言う。今日日、高校生がちょっとした学校の怪談ぐらいで盛り上がるか。
とはいえ全盛期が前世紀の花子さんにそんな事情はわかるまい。功名心がやたらと強いこのお化けは、くくくくくと笑い勝ち誇った顔でそっと手を持ち上げた。
「んー、そうだなあ。田中、許してほしければここで私の手の甲にでも口づけて忠誠を誓え。逃げようとしても無駄だぞ。人間、生きている以上は必ずトイレに行く。どんなに逃げても学校のトイレを利用しないで三年間を過ごせるわけがない。そしてその都度、水道から水が出ないとか、あるいは血がどばどば出るとか、誰もいないはずなのに個室の扉がノックされて怖いとか、壁に『にがさない』という血文字が浮かぶとか、いやいや、いきなり女子トイレに飛ばされるのが田中みたいなピュア男子には効くのかな?」
こんの野郎。結構な脅迫をしやがって。ぶっちゃけ最後の一個しか脅威ではないが。
とはいえ状況は切羽詰まっている。こんな入学数日目で女子トイレに隠れていた変態扱いされてたまるか。いや卒業まで待ってもそんな事態は避けたい。
うっかり事故で入ってしまう人もいるとはいえ、やっぱり入るべきでないトイレに入るというのは社会的に死だ。
世の中には異性のトイレに入ってカメラを仕掛ける盗撮犯や、覗きをする卑劣な輩がいるみたいだが、自分がそういう連中とひとくくりにされるのは最悪である。
トイレはどうしたってハイクラスのプライベート空間。
だからこそ男女で棲み分けがなされ、配慮がなされ、入ってはならない禁忌が存在せねばならない。それを侵す者には罰が下されるべきなのだ。
そして現状、ぼくはその罪人となりつつある。
どうやって打開するべきか。男子トイレと間違えて入りました? いやいやその言い訳はしんどいだろう。どのみちリスキーだ。ここはじっと黙ってやり過ごすか? 悪くない手だが、これからも花子さんの執拗な攻撃を避けることはできるか? 本人が言っていた通り、学校でトイレを利用しないというのは難しいだろう。
これまでだって幽霊やお化けなんてたくさん見てきた。しつこい奴だって多い。だが花子さんはとびっきりにたちが悪い。あきらめが悪いし、不可思議な力を使う。
ただのつきまとい幽霊の犬ェ門なんぞにはできん芸当だ。
自信過剰な娘かとも思ったが、どうやら本当に厄介なお化けらしい。
そもそも数珠パンチを食らっておいてまだ歯向かうってどんなだ。犬ェ門だって本気で五、六発ぶん殴ると「今日は機嫌が悪いんだな」と察して逃げるんだぞ。ぼくがかつて遭遇した中で一番強かった天狗でさえ一発目で「ちょやめろって、それ。マジで」って憤慨したんだぞ。
「ほれほれどうした田中ぁ。できないか田中ぁ。まあしょうがないなあ。田中は女子トイレに潜んで華やかな女子トークを聞いて回るデリカシーなし男だからなあ」
女子トークより普通に用足しの音のほうがやっべえんだよ、バカ。
ぼくは花子さんが差し出していた手を掴んだ。ひざまずくぐらいしたほうが自然な行為だったかもしれないが、鍵から手を離したくなかったしトイレでは抵抗がある。
とにかく、と花子さんの手に向き直る。白くてすべすべの肌。背丈通りの小さな小さな手。その甲に、口付け、か。
自分に似合わない、まるで王子か貴族のような振る舞いを求められて恥じらいの気持ちはある。男女でこんな振る舞いができるほど外国文化に染まっていない。だが花子さんのリクエストはそれだし、そうしないとこの窮地から脱することができないのだ。
その手を引き寄せる。きめ細やかな素肌と、儚いほど華奢な薄い手。こんな状況でさえなかったら、罰どころかなかなかのご褒美じゃないかと思ってしまうほど綺麗な手だっだ。
いつの間にか花子さんの顔はぼくを見上げ、きょとんと目をぱちくりさせている。
深呼吸を一つ、そして思い切り、初めてプールで顔を水につけたときみたいに唇から叩きつけ、言いつけ通りのキスをした。
「な」
花子さんの呆けたような声を聞きながら、ぼくはこの感触のいい素肌へ何秒間、敏感な唇を当てていればいんだと息を詰まらせる。すぐに離れるのはまた機嫌を損ねそうで、ぼくは夢中になってその手の甲の柔らかさと細っこい骨の感触に顔面を押し当て続ける。
唇と鼻が、上質な絹に触れているような快感にむずむずする。
「が」
花子さんが何事か声を発したようだが、もういいとか、満足したとか、そういう意味ではないようだったのでぼくはまだ唇を当て続ける。熱烈さが足りないのかと思い、テレビドラマか何かで見たような顔をよじる動きまで入れた。
と、そこで花子さんが悲鳴をあげた。
「ぎゃあああああ!」
「うお」
雄叫びをあげて花子さんは腕を振り上げた。当然ながらキスは中断である。むしろぼくはいま自分で発してしまった声が外に漏れなかったかと不安に青ざめた。結構な決断の末に出たおこないだったので「やっぱり許さない」はやめてほしいんだが。
できる限り早急に男子トイレへ帰してほしい。
花子さんは顔を真っ赤にして怒り心頭であった。
「たっ! たたたっ! なな、なっ、んぎゃあああああ!」
おいやめろ静かにしろって、と思ったのだが外から物音はまったくない。さっきまでどこぞの女子が三人いたはずなのだが、気配さえまったくない。向こうも不審者がいると思って息を潜めているのか。いや、でも、んん?
地味に匂いが違う気がする。いやいや女子トイレの匂いが判別できるような変態にはなりたくないが、使っている芳香剤が違うんじゃないか?
事故を装うように壁を一発叩いてみる。ごん、という鈍い音に外からは何の反応もない。ということはやはり、無人か?
「もう男子トイレだ変態田中!」
「男子トイレなら変態じゃないだろ」
花子さんの言葉で確信した。扉を開けて外を見るとほっとするような小便器も並んでいる。ふー、と息をついて個室の壁に背中を預ける。あー、焦った。
「何を落ち着いてんだバカ田中ぁーっ!」
ぽすぽすと地味に痛いパンチを胸元と腹部に食らう。何だようっせえ。
「お、おまっ、私のなっ、なな、ふぁ、ふぁーすと、きっすを! 奪って! おいて!」
「は?」
「ファーストキスだったんだって言っているんだバカ田中ぁぁぁ!」
「手だぞ?」
唇は論外として。ほっぺも結構難しいところがあるけれど。
手の甲にちょこっと触れたのなんてお前そんな。
「手、手だって普通はキスなんかしないだろうが!」
「お前がしろって言ったんだろうが」
「だからって本当にする奴があるかぁぁぁぁ!」
「どうしろってんだ……」
「だからな! 普通はな! ぼくが悪かったです花子様、お願いだから返り咲き隊に入れてください、絶対に学校中を花子さんの噂で恐怖のどん底まで叩き落としてやりますから、ぐらいのことを言えば良かったんだ!」
「いや絶対言わねえ。ってか女子トイレの中なら余計に言えねえ。バレる」
「言えよぉ! 何キスしてんだよ普通にさあ!」
「しろって言ったのお前じゃん」
「だって本当にするなんて思わないじゃん田中のドスケベ! 変態! 色情魔! 女ったらし! あ、わかった! お前本当は私のこと好きなんだろ! やーいやーい田中は私のこーとがー好きぃーっ!」
「はやすな」
「ぐぎゃーっ!」
じたばたと地団太を踏んで喚く。童顔に小柄な体も相まって本当に子供のようだ。
「ってか興奮しすぎて涎垂れているぞ、お前」
汚い、とは流石に言わなかったが、花子さんは口から泡を飛ばす勢いだった。本人もちょっとは感づいていたのか、ぐいっと口を拭う。
さっきぼくがキスした右手の甲で。
「あ」
「ん?」
いや、なんでも、とか言おうとしたのだけれど一瞬遅かった。花子さん本人もそこへ思い至ってしまったらしい。みるみる顔が更に赤く色づいていく。わなわなと震える唇が開いた。
「か、かかか、か、間接、きっしゅ……」
「じゃ、ぼく帰るから」
外にも水道があるので手ならそちらで洗おう。全力ダッシュでぼくはトイレを駆けた。再び女子トイレにテレポーテーションされても敵わん。
「たああああああなああああああかあああああああ!」
背中にぶつけられる怒りのような声は甲高く、思わず足を止めてしまいそうになるほど切羽詰まっていたのだが、振り切るように逃げる。
トイレの花子さん。
怖いとか、恐ろしいとかいうより、なんというか。
「うっぜえ女……」
まあある意味、恐怖ではあるが。
かくしてぼくらの最初の喧嘩は、こんな感じで幕を閉じたのだった。