一 霊感持ちとトイレの花子さん
七歳のころ、事故に遭った。
トンネルの崩落事故だったそうだがあまり記憶はない。強いショックを受けたらしいし、何しろ生きるか死ぬかの大怪我をしたのだから多少の記憶ぐらい消えても仕方がない。
ただその日から。
ぼくは幽霊やお化けが見えるようになった。
たとえば爽やかな風が吹き抜ける朝、高架下の通学路。
一見すると普通の光景も、ぼくの目では違う。
スキンヘッドの四十代男性の幽霊|(白いブリーフ一丁)が腹の肉をたぷたぷと揺らしながら迫ってきているという悪夢の光景が、ぼくには見えてしまう。
「陽水きゅぅぅぅんんっ! 高校の制服、凄まじくカッコいいでござりまするよっ!」
「キモい死ね」
「もう死んでおりまするぅ! ンもう、ハグさせておっくれぇぇぇぇ!」
ぼくは数珠を手首に巻いた右手の拳を構える。そのままタイミングを合わせてこちらに向かってくる気持ち悪い喋り方をする変態の顔面をぶん殴った。奴はボールを弾いたような手応えを残したまま路上を滑るようにかっ飛んで行き、ガードレールにぶつかり風船のようにどこかの空へと飛んで行った。どうせじきに復活するだろう。
振り返る。
薄暗い路上には二十人ほどの老若男女がいたが、じきにそそくさとコンクリートの壁や黒いアスファルトの地面に、すうっと吸い込まれて消えた。みんな幽霊である。生きた人間は一人もいない。本来ここはそれぐらいひと気のない道なのだ。
「まったく陽水きゅんは酷いでござるなっ。陽水きゅんが霊感体質になってからの親友ではござりませぬかっ」
「いつ戻ってきた変態」
「どこが変態か」
甲高い甘々の猫撫で声でぼくを「陽水きゅん」と呼ぶ点、生白い肌と贅肉がやかましいブリーフ一丁という露出狂じみた服装、へこたれないたくましさ。
「害虫か変態以外の何だと言うんだ」
「この犬ェ門がいるから助かったこともあるくせにぃ!」
このこのぉ、とつついてこようとするので拳を見せて黙らせる。確かに助けにはなるがストレスの元でもあるんだよお前。
自身を犬ェ門と名乗るこの男は、ぼくが霊感体質になってしまい情緒不安定に陥っていた小学生のとき、声をかけてきたとても親切な幽霊である。どれぐらい前に死んだのかもわからない浮遊霊で、ぼくが霊感体質だと察して色々と教えてくれたのだ。
幽霊のこと。霊感のこと。それにまつわるあれこれと。
「そして大人の階段もっ」
「お前が言うとマジで洒落にならん」
幽霊だから警察沙汰にならないだけで、これが生きた人間だったら本当にそこら辺の子供にいかがわしいことをするド変態みたいな風貌と気持ち悪さだからな。
「見た目で判断してはノン! 話し方がキモいかどうかで善悪を決めつけると本当の悪人悪霊を見分けることができませぬぞっ!」
「確かに気持ち悪い善人は世の中にいるし気持ち悪くない悪人も多くいるのはわかるし、犬ェ門は親切ないい奴だが、存在が不愉快なのも事実だろうが」
「違うもん違うもんっ! 犬ェ門はマゾだから陽水きゅんみたいなサディス子相手じゃない限りこんな風にならないんだもんっ」
贅肉を揺らして可愛いぶるな、涙を散らすな、ケツ振るな。
爽やかな高校生活一日目の朝が穢れていく。
「とはいえ心配なのは本当なのきゅん」
ぼくの生活環境が著しく変わる度、あるいは幽霊やお化けの界隈で動きがあるとき犬ェ門や他の自由な浮遊霊はぼくを心配して現れる。そうでなくても現れるが、今日は時期からして高校進学と、ともなって通学路が変わるため心配して現れたに違いない。
ぼくは買ってもらったばかりのスマホを取り出して耳に当てる。これで犬ェ門や他の幽霊と喋っていても不自然ではないように見えるはずだ。ひと気がなくても用心はする。
小学校のときは嫌だったなあ、普通に喋っていたら呪文くんとかあだ名されてさ。
「で、何が心配だって?」
「ハア、ハア、よっ、陽水きゅん、いま何色のパンティを穿いているのか、おぢさんに教えてごらんっ」
「寺に叩き込んで成仏さすぞ」
「黄昏高校に行く陽水きゅんに言いたいのだけれど、あそこは犬ェ門も入ったことのない場所だからぜひぜひ気を付けてほしいのっ。具体的には、犬ェ門以外の男や女になびく陽水きゅんの姿なんて見たくないっていうかっ」
「殺すぞ」
「犬ェ門ってばもう死んでいるのでしたっ! てへへっ!」
たとえ可愛い女子でも殺意を抱くレベルのウザさだ。まして贅肉ぷるんぷるんの白ハゲ親父がやっているので本当、血の気が引く音が聞こえるレベルで怒りと虚しさがあふれてくる。
と、ふと思う。
犬ェ門は幽霊なので見た目がどれだけ不審者であっても咎められることなく小学校にも中学校にも遊びに来て、ぼくの授業参観を勝手にやってはぼくに数珠パンチを食らっていた。どうせ今日も保護者ヅラして入学式に出るだろうと思ったわけだが。
「お前、そんなくっだらねえ心配するぐらいならいつもみたいに来ればいいだろ。どうせ禁止したって来ていた自由霊のくせに。煎餅のおじさんとかタカ姉とか連れて来いよ」
煎餅のおじさんとタカ姉、どちらも知り合いの浮遊霊だ。
幽霊はたいてい、自分の存在を認めてくれる霊感体質の人間を見つけると喜んでまとわりついてくるもので、ぼくはこの犬ェ門も含め、意思の疎通が図れて、それなりの距離感で接していられるぐらい聞き分けのいい幽霊とはそれなりの対応をしている。
煎餅のおじさんは減らない煎餅をずっとぼりぼり食っている三十代ぐらいのスーツ姿の男性幽霊で、タカ姉は会うたびに服まで変えるおしゃれな二十歳ぐらいのお姉さん幽霊だ。犬ェ門みたいな変態ではない。ただ両名とも神出鬼没で今日はいなかった。
親切さとキモさは犬ェ門、頼りになる度合いは煎餅のおじさん、見目麗しさではタカ姉がそれぞれトップである。流石に殴るようなコミュニケーションが必要なのは犬ェ門ぐらいなものだが。
「あ、犬ェ門は黄昏高校に入れないのん。だってあそこ、結界が張ってあるんだもの」
「結界?」
「そ。昔どっかの霊能力者が張った結界があるみたいでね、幽霊は出ることも入ることもできない強烈な場所。お寺や神社と同じだね。だからたぶんだけど、陽水きゅんにとってはいい環境のはずだよ」
眉なしスキンヘッドのオッサンがサムズアップしながら歯を光らせてウィンクを飛ばす。
「幽霊がいない場所のほうが落ち着くデショ?」
「犬ェ門……」
霊感体質が良かったか悪かったかなんてわからないけれど、少なくともいいことばかりじゃなかったのは確かだ。
首が百八十度回った男が逆ダッシュで追いかけてきたこともある。スパンコールドレスを着た女が匍匐前進で迫ってきたこともある。口が耳まで裂けた子供がどこまでもどこまでもへらへら笑いながらついてきた帰り道は怖すぎて神社に逃げ込んだ。
幽霊のほうでもわかる。この人間は霊感体質だと。
滅多にいない自分を認めてくれるそんな存在に、連中は歓喜して迫ってくる。まるで構ってちゃんのように迷惑行為をもって近付いてくるのだ。気になる女子をいじめる小学生男子みたいなもんである。そうまでして印象に残らないと忘れ去られると思い、それでむやみやたらと怖がらせてくるのである。
何度でも言う。大迷惑行為だ。
煎餅のおじさんやタカ姉なんかは話が聞けるからまだ、仲良くしていたいと思えるわけだけど、出会った幽霊のうち八割ぐらいは嫌な思いをして暴力的な解決も辞さなかった。
犬ェ門も、まあ、うん、そうだな。
「……ま、たまにはこっちのこと考えてくれるところあるよな。犬ェ門も」
「犬ェ門はいつでも陽水きゅんのこと考えてハアハアしているよっ!」
「いま一瞬だけお前に感謝したかったんだけどなあ」
といっても、こいつ嫌われても喜ぶんだけどな。
黄昏高校の制服は、鳶色のブレザーに深緑色のチェック柄スラックスという出で立ちで、学年色がネクタイで分けられている。ぼくの世代は澄んだ空のような青色だ。詰襟だった中学校から様変わりしたせいで、より大人っぽく成長したみたいで気分がいい。
そして成程、敷地内は本当に幽霊がいない。
高校入試のときは流石に緊張もあって気付きもしなかった。犬ェ門がいないのも入試だからいくらなんでも気遣ったのだろうと思っていた程度で、とにかく余裕がなかったのである。
中学校では廊下や講堂にひしめくほどの亡霊が漂っていたというのに、この高校には全くいない。教室にも校庭にも、こちらを驚かせて近付いてくるような影は確かにいなかったのだ。
これまでずっと鼻づまりの状態で生活していたのが、久し振りに鼻をかんですっきりしたような爽快感がある。風邪が完治した日の朝、怪我した場所の包帯が取れた最初の体育。そういう印象だ。
式典が終わり、なかなかの爽快感でまだ慣れない学び舎を歩く。二十年前にできた大きい校舎はぴかぴかでもなかったが、結界があるというのは何物にも代えがたい魅力だった。広いし教室の位置もまばらで、しばらくは道に迷うかもしれないが、それも楽しみだ。
少し退屈な座りっぱなしの式典の後、教室に至る途中のトイレに立ち寄った。
「おー、いいおしっこしていますなー、お兄さん。いい勢い。うんうん」
そこには同じ入学生連中に加えて、痴女がいた。
三つある小便器は満員だった。その二番目と三番目の間に小柄な体をねじ込んだ黒いセーラー服の女の子は、あろうことか横から覗き込んで入学生の排泄をガン見しているのだ。
しかもレビュー付きである。
「うーん、だが匂いと色が悪いなー。まったくどいつもこいつも不健康で……あー、君はあれだね。あんまりおしっこ出ないけれどとりあえず来た感じだね。うーん、いやいいんだけどなあ。みんな疲れ切ったようなおしっこばかりで」
おしっこおしっこうるせえな痴女。
それにしても他の連中が何も言わない。その反応で、ああ、とうんざりした。
この痴女、幽霊か。
確かに他の場所に比べて幽霊が少ないのは間違いないようだが、結界もどこかにほつれがあるのだろう。変な女幽霊が迷い込んだものである。ちょうど三人が同じタイミングで用を足し終え、ぼくは軽く会釈をして最奥の便器の前に立つ。三人は顔見知りらしく何かと騒ぎながら出て行き、トイレの中にいる生者はぼくだけとなる。
スラックスの前を開き、用を足そうと。
「さてさて、君のおしっこは一体どんななのかなー。さ、さ、お姉さんに見せなさい見せなさい。ふふふふふ、さっきは三人もいたからあっちもこっちもで大変だったけれど、いまは君一人だからね、集中しておしっこ鑑賞といこうじゃ」
「おい痴女」
「…………ん?」
周囲を見渡す黒セーラー服の痴女。
隣に立たれるとその小柄さがよくわかる。ぼくの胸ぐらいまでしかない頭は墨でも垂らしたような黒いボブカットだ。目が大きい。鼻が小さい。唇は薄めだが綺麗な桜色だ。あごが小さくて小顔のためか妙に愛らしく見える。
童顔だな。たぶん昔の高校の制服がセーラー服だったのだろうが、この幽霊に関しては、なんというか、大人びた小学生に見えかねない。
ただ匂いだけは妙に大人びた、桃のようないい匂いがする。
ぼくは誰も来ないうちにさっさと早口でまくしたてた。
「人が来る前に言っておく。ぼくは霊感体質だ。お前の姿が見える。黒いセーラー服のお前、ぼくが用を足している間、とにかくそっぽを向いていろ。観察をするな」
痴女の幽霊はびっくりした顔でぼくを見上げる。ぼくの体質を知った幽霊は大体、こういう驚いた子猫みたいな表情をする。犬ェ門でさえ、最初は信じられないと叫びそうな顔だった。
なんにせよ、こちらを向いていないのならそれでいい。
ぼくはジッパーの隙間からそれを取り出し、便器に向かってじょぼじょぼと――
「お、匂いが濃い」
「だから見るなっつってんだろうが! 鼻つまんで耳も塞げ!」
「お、おお、すまんすまん」
痴女は流石に怒鳴られてびっくりしたらしくきびすを返した。だが直立不動なのでその小ぶりな耳は塞がれることなく、鼻も普通に機能しているはずである。
昔っからこの手の連中は風呂だのトイレだの出て来る。ある意味で慣れっこだ。霊感体質と気付いていればお互い気まずいので向こうが出て行くし、そうでなくても別にわざわざ人の排尿や全裸など見るわけがないので、この辺りのことはハイクラスのプライバシーとして保護されてきていた。
こんな、わざわざ隣から男の排泄を覗き込んでくるような変態霊がいるとは思わなかった。犬ェ門だってかろうじてこれだけはしなかったんだぞ。ぼっこぼこに殴られるから。
ようやく終わり、大事なものをしまって身支度を整える。手を洗って出ようとすると、いまもなお直立不動の変態が声をあげた。
「な、なあお前」
「ん?」
「名前は? わた、私が見えるのか? 見えるんだよな? 声も聞こえるんだな。なっ?」
「名前は田中陽水。霊は見えるけど迷惑行為には数珠パンチが炸裂するから覚えておけ」
「数珠パンツが」
「パンチな」
「それはえっちな下着か」
「パンチだって言ってんじゃん。まあ、あんまり気軽に話しかけるなよ。他の人がいるところだと変な人扱いされたくないからシカトするし、ぼく」
と、ちょうど入学生らしい男子が入ってきたのでぼくは口をつむぐ。変態女も多少は心得ているようで、そちらを一瞥してからぼくに笑いかけた。
「わかったぞ、田中。学校の中だったらどこのトイレにも私はいる。ただオススメは職員棟三階の、視聴覚室隣のトイレだ。利用者がほとんどいないので綺麗だし、何よりこうしてまた私と喋れるぞ。休み時間とか放課後とか、時間があるときにでも来い」
手を洗った水を払うついでにひらひらと手を振っておいた。悪ささえしないのならいいし、人がいなくて綺麗なトイレならまあ、時間に余裕のあるときにでも利用してやるか。
あと、笑った顔は本当に可愛いな。この変態。