一八 消えた花子さん
「うちの弟子が世話になったね」
病室へ見舞いに来た和装の老人は、車椅子に座っていた。後ろには巫女装束の、けれど紫藤と違って二十代であろう大人びた女性を従えていた。彼女は何も言わず、ただ影のように老人に寄り添っている。
先代紫藤菊千代、つまり一緒に太郎さんと戦ったあの紫藤の師匠だそうだ。
そしてあの石碑でかつて除霊をした呪文野郎、その張本人であるという。
「あの不肖の弟子め、お化けを相手に慢心しておった。いい薬だわ。死ななくて良かったとお前さんに感謝しているよ、田中陽水くん」
「……はあ」
救急車で運ばれたぼくは怪我を縫ってもらい、丸一日寝ていたそうだ。傷からばい菌が入ったようで熱が出ており、当然ながら入院したのである。
目を覚ましたら、この老人がすぐ隣で待ち構えていたのだった。
「二十何年前か。あのころ黄昏高校はお化けの巣窟だった。怪談話が大好きな生徒が集まって色々とやらかしていたらしい。全校集会では教師を押しのけて怪談話をしたり、放送室をジャックして怪談話を流したり、放課後までこっくりさんで生徒が全然帰らなかったり。おそらくカリスマの怪談大好き生徒でもいたんだろう」
「……平成ってまだ秩序が安定していなかったんですか?」
「いや後半はだいぶ落ち着いていた。全校集会の件なんか週に一度ぐらいだっただろう」
「週に一度あれば十分ですけどね」
あははははは、と老人は快活に笑う。
「それで儂が対応した。酷かったぞ。生徒とお化けどっちが多いか数えてやろうかと思ったぐらいお化けまみれだった。すぐに敷地内を除霊したよ。良かったのは合併の話があってな、校舎を建て替える話がうっすらと持ち上がっていた。物理的にも一度リセットすると噂話ごと過去の遺物になるからな。合併するなら、ということで引き受けたんだよ。とはいえ強引だったのかな。合併の話が後でなくなり、建て替えだけは工事の発注後だったからどうにもならず、広い校舎を持て余したと聞いた」
「ああ、それであんな大きい校舎が……まあ、プールも広いんで良かったですけどね」
「まさかいまになってお化けが発生したとはな。まあ、警察には上手くいっておくから安心しなさい。ご両親にはなんと言って説明をしたかな?」
「いや、ぼくついさっき目を覚ましたばかりなんですよ」
時刻は午後八時だ。いまから連絡しても、親もすぐには来られないだろう。
というか看護師さえまだ来ていないのだ。老人に仕えているらしい巫女さんがぼくに飲み物をくれたので、こうして話せるぐらいには喉も潤っているのだけれど。
「ではご両親には、学外の不良である海原沙里が無理に誘ったので応じたら不審者と出くわし、二人そろって怪我をした、ということにしなさい。すべて海原のせいだと。警察にも同じようにこちらから言い渡しておく」
「誰ですか海原って」
「不肖の弟子の本名だ。あれも君と同い年だからな。高校生になったばかりだよ」
嘘だ、年下だと思っていたよ。タメだったのか。
「しかしいつから霊感体質かは知らないが――そいつは有害ではないのかね?」
「……ちょっとそこの数珠、取っていただいてもいいですか? 私物ということで看護師さんが置いてくれたんでしょうけれど、地味に手が届かなくて」
「ダメよ陽水きゅん! 折角陽水きゅんが無抵抗だからって犬ェ門が陽水きゅんの股間に顔を埋めてくんかくんかずりずりずりずりしていられるっていうのに! そんな物騒な数珠を持ったら犬ェ門の天国が終わっちゃう!」
「いっそ成仏するまで殴ってやろうか」
ぼくが左腕に数珠をはめると、犬ェ門はそれまでぼくにまとわりついてハアハア言っていたのをやめ、ただ隣で立つだけになった。絶妙な距離で殴れん。
とはいえこいつ、他の浮遊霊が近づいてくるのを阻止してくれているので悪いばかりでもないんだよな。犬ェ門当人が最も気持ち悪いことが大きいマイナスポイントなだけで。
自宅の寝室に置いてあるお札が欲しい。一切の幽霊を寄せ付けない強力なお札だ。あれさえあれば犬ェ門も近寄れない。
「君が除霊の勉強をしていないのは、もう師がいないからかね。希虎様だろう、その数珠」
「ご存じなんですね。久遠希虎を」
久遠希虎。ぼくに数珠をくれた尼僧だ。
小学生の間のほんの数年、ぼくの霊感体質に犬ェ門ともども付き合ってくれて、そしてある日、消息を絶った。知っている人はみな口をそろえて厄介な悪霊に目をつけられて殺されたというが、真相はわからない。犬ェ門も探しているようだが、ようとして行方は知れない。
「仏門なんだよなあ。儂が一から叩き込むのは筋が通っていないような気もするし。ま、改宗する気なら儂のところへ来なさい。その目を余しておくのは惜しい」
「やっぱり霊感体質だと、霊能力者としても活躍できるもんですか」
そうでもなかったら。
ひょっとすると一度目では祝詞が発動しなかったかもしれない。
そしたら、もしかして。
花子さんは、まだ残っていたのかもしれない。
ふむ、と老人は唸る。
「霊感がない神主や巫女も山ほどいる。だがその祝詞や神楽舞が無意味と思ったことはない。だがそうだな。君が特別な道具を使いこなしながら定められた祝詞をきちんと唱えたのなら、目に見えるほどの効果が期待されるだろう……祝詞は、不肖の弟子が教えたか?」
「いえ。二十年前、あなたが仕留め損ねたお化けが教えてくれましたよ」
「……あの石碑の効果は強力だ。調べたが、前の校舎でももちろん、いまの校舎であっても逃げ場はない。敷地をすべて覆うほどだったはずだ。なあ、そこの裸坊主。敷地のすぐ外にいたな?」
「……犬ェ門は慌てて逃げたのん。他の幽霊も、みんなあの青い光だけはまずいってわかったから。それで助かった。いくら犬ェ門でも陽水きゅんから放たれたとはいえ、あのレベルの攻撃をされたら消滅しちゃうのん」
「煎餅のおじさんは? 無事?」
「大丈夫、ちゃんと逃げたよっ! 下でこの病院に長く住んでいる幽霊と話をつけているところなのん。しばらく陽水きゅんがいるけれど悪さをするなってね!」
「なるほど、まともな幽霊の仲間もいるようだ」
老人は枯れた腕で、ぼくの頭を撫でた。憐れむような顔で。
「何故そんなお化けが生き残れたのかは知らない。儂はちゃんと仕事をしたから、生き残った理由はまったく不明だ。だが結界の中でお化けがまた生まれることはあり得る。今回の太郎さんとやらがそうだったようにな。万が一そのお化けが残っていて、君が除霊をするつもりならば、もう一度祝詞を唱えることだな」
「……いえ、すみませんがもうあそこでは除霊しませんよ。お化けがみんな悪い奴ばかりじゃないですからね」
「だが信じすぎるな。今回みたいなことにもなる」
老人は一方的に連絡先を教えてから去った。その後も煎餅のおじさんが来て、看護師が来てくれて、もう宵なので寝て、タカ姉に一度だけ起こされて、朝一番には医者が、次いで両親が来て、ことの説明中に弟子のほうの紫藤が車椅子に乗って現れ口裏を合わせてくれて、犬ェ門はずっと隣でパンチしづらい位置からいつものようにふざけ続けた。
ぼくの怪我は重篤ではないという。熱も下がりつつあるから、もう一晩で退院だそうだ。
夕方に、水泳部顧問の里見涼夏先生が訪れた。
「不審者は捕まったそうだな」
「……そうなんですか?」
すっとぼけてみたがもう知っていた。紫藤が言っていたのだ。どうやらそういう工作がなされたらしい。
すべての事件は遠くに住む薬物中毒の男の仕業で、一週間ほど前から姿を消しており、堂島先輩の事件があったときからずっと校内に隠れていたという。今後黄昏高校では警備員の数が増えるそうだが、それは高校の、ひいては県の負担になるのだとか。
お化けの仕業では世間に説明がつかないのだから、仕方がないのかもしれない。
「田中も怖かっただろうに。大丈夫か? 腕、どれくらいで回復しそうだ?」
「腱とか神経とかは特に傷ついていないので。抜糸したらプールも大丈夫じゃないですかね。傷は残るかもしれないそうですけど、まあ仕方がないでしょう」
「そうか。まあ無理はするな。しかしその不審者は一体何者だったんだろうな」
「さあ。よくわかりません。暗かったんで」
紫藤と口裏を合わせ、そういう風に答えること、と相成った。
どうやらあの老人はかなり強い権力を有しているらしい。考えたら警察が一度も話を聞きに来ないのとか、結構変だもんな。
紫藤一門に関わると、よくあること、らしいが。
「堂島先輩はそういえば、どうしているんですか? 同じ病院ですよね」
「ああ、この病院の中にいるよ。目は覚めているらしいな。一応、後で見にいくつもりだ」
「堂島先輩も、その不審者で間違いないって言ったんです?」
「顔を見ていないらしいんだよ。だから誰だかわからないらしい。もう捜査も打ち切りしそうだから、きっとその不審者が犯人だったということだろう。まさか二人も三人も不審者はおるまい」
「ほっとしました?」
「そりゃ、犯人が捕まったんなら誰でもほっとするだろ」
「いいえ。堂島先輩の件まで不審者の仕業になって、ほっとしたのかなって」
里見先生の顔が硬直した。やっぱりな、とぼくは思う。
「……何を、言っているんだ? 田中、まだ失血のショックがあるんじゃないか?」
「あの不審者は、校内で傷害事件が起きてから黄昏高校に現れたんです。堂島先輩のときにはまだいなかった。つまり堂島先輩を襲った人物は別です」
トイレの太郎さんが出現したのがいつだったのか。花子さんの頼りない証言を信じるとするのであれば、ぼくと花子さんが同時に遭遇した、あのときが発生した瞬間だろう。向日葵先輩の配信によって炎上し、多くの人々が興味関心を抱いてから相当の時間差があったはずである。
ということは、堂島先輩が襲われたときにはまだ発生していなかったはずだ。
では、堂島先輩を傷つけたのは誰か。
「里見先生。先生は堂島先輩が向日葵先輩に執着していたことを知っていましたよね? それであの日、向日葵先輩と仲のいいぼくが保健室に行って休むほどの怪我をしたことに疑問を持った。問い詰めたんですか? 堂島先輩を。いや、顔を見ていなかったというのなら、もう最初から見られないようにして攻撃したんですか?」
「……まるで私が犯人だというような言い方だな」
「そう言っています。堂島先輩が何者かに襲われた日の昼間、先生は向日葵先輩と喋りましたね。ぼくが保健室にいた理由が堂島先輩がらみだと感づいていると、向日葵先輩が言っていました。もうあの日のうちに、里見先生は堂島先輩を排除しなくてはならない危険な存在だと認識していた――違いますか?」
里見先生はじっと押し黙り、ぼくをにらみ、けれど。
ふい、と視線を外す。
「軽蔑するかね。私を」
「いいえ。ぼくと向日葵先輩を守ろうとしてくれたんだろうなと思っています」
たとえそれが。
堂島亜紀羅を襲撃するという手段であっても。
「いつ気付いた? いや、例の犯人が言ったのか? 堂島の件だけは知らないとでも」
ええまあ、とぼくは誤魔化すことにした。霊感体質にまでは触れたくない。
里見先生はそれから、その胸の内を明かしてくれた。
ぼくが部活中、勝手にトイレへ行っていいと制限をゆるめてくれた後、先生はぼくの後をつけた。堂島先輩にやったのと同じ手だ。もし本性を隠すのが上手いだけの破廉恥漢、あるいは女子に卑猥な興味を持って水泳部に来たような輩であれば尻尾を出すはずだと。けれどそこで見たのは男子トイレから出てくる向日葵先輩の姿だった。
トイレの太郎さんを探しているから、というのはちょっと調べればすぐにわかる。そしてトイレの太郎さんというアカウントもすぐに見つかった。勿論それがすぐさま堂島先輩と結びついたわけではなかったが、向日葵先輩の奇行には注意をしていたようだ。
その数日後、ぼくが保健室へ行く怪我をしたと聞き、向日葵先輩の奇行とトイレの太郎さんのアカウント、そして堂島先輩の結びつきを直感したという。他にも細かい情報が多々あったのかもしれない。
いずれにせよ、止めなくてはならないという決意が里見先生の中に生まれた。
夜、警備員にも黙って里見先生は校内で潜伏する。堂島先輩がスマホを返してほしがっていたということを聞いていたし、向日葵先輩からもどこのトイレに置いてきたか聞いていたのだろう。待ち伏せは容易だったのではないか。
「不意を突いた。だから顔は見られていないんですね」
「ああ。一応あんなのでも男子だ。正面きって暴力を振るわれたらこっちがやられる。そう思って、一息に刃物で刺した。いつ自首しようか悩んでいるうちに、犯行はトイレの太郎さんの仕業になっていた」
自首しなかったのは、都合のいい言い訳ができてしまったからだ。それがなければ自首したと里見先生は言った。
いまから堂島先輩を害してくるなどという考えは、そもそもないのだという。頭が冷えたんだよ、と懺悔でもするような重苦しい口調で言っていた。
ぼくはほっとする。それだけは避けなくてはならないことだった。
堂島先輩が大事なんじゃない。悪いけど、ぼくを殴った卑劣漢に同情など湧かない。
ぼくはただ里見先生に、傷害事件の犯人や人殺しになってほしくなかった。
だからいまこうして憶測を語り、彼女を詰問し、事件の全容を求めた。そしてこれ以上、悪事を重ねることがないように。
ただ。
「里見先生。ぼくはそれが正しいかどうか知らないんですけど……先生がこれ以上、その手を汚さないと言うのであれば、ぼくは黙っていようと思います。里見先生は今回の件に何も関係ない。いま話したことを全部、忘れさせてください」
「……正しいことじゃないよ、それは」
「ぼくも正しくないことをしました。夜の学校に忍び込んだんです。女の子と一緒に」
里見先生が複雑そうな表情を浮かべた。
ぼくと紫藤は被害者だから誰も追及してこないが、警備員もいない夜の学校に男女で忍び込んだとあっては、誰であっても非行だと思うだろう。下衆な勘繰りがなくても大人は顔をしかめる夜遊びだ。
「これからも守ってください。向日葵先輩を。ぼくは、自分でどうにかしますから」
「私は罪を償い、お前が向日葵を守るというのはどうだ。お似合いだぞ。ホラーカップル」
「向日葵先輩に振られるような気がしますけどね」
「だがお前、堂島からちゃんと守っているじゃないか」
「里見先生、ぼくだけじゃ無理です。先生も一緒に、守ってあげてくださいよ」
里見先生は何も言わず、泣きそうな笑みで病室を出て行った。
自首する気だろうなとは思った。
けれども、紫藤の師匠が公権力相手になんらかの工作をした後なのだ。それだけの新事実が見つかったとしても、ひょっとすると採用されないかもしれない。証拠らしい証拠は残さなかっただろうから、里見先生の自供はなかったことにされるのではないかと期待している。
先生が言った通り、罪を帳消しにされるのは正しいことじゃないのかもしれないが。
ぼくにとっては、十分いいことだった。
それにたぶん有罪にならなくても、里見先生はずっと罪を背負うだろうから。
ずっと背負ったまま、生きていくんじゃないかと思うから。
「図書館で襲われたのか。私以外の女といるからそういうことになるんだ。まったく、書庫の電気はつけっぱなしだったし。床は血まみれだし。連れ込んだ娘は巫女服だったというし。巫女服が好きなんだな、そうなんだな。ふふふ、ほら調達に時間はかかったが、ちゃんと見つけてきたぞ。さぁて、いますぐあなたの柊ちゃんが病院という背徳空間で夫のご奉仕を……お、なんだ貴様ら! 離せ! 知らないのか! 私は南村陽水の妻だ! 不審者じゃない! それは捕まっただろ! 私はちが、陽水! 弁明をしてくれ! 愛する妻の柊ちゃんですって言ってくれえぇぇぇ!」
まったくの余談なのだけれど、深夜に警備員に引きずられていった南村先生によく似た巫女装束の侵入者は、あれ、悪い夢だったんだよな?
「そう、悪い夢なのきゅん。ほら、怖い夜は犬ェ門が添い寝をしてあげるから、陽水きゅんは安心してその身をすべて、何なら下半身だけでも委ねぶぼっふぉおっ!」
左手で何かをぶん殴った覚えだけはあるんだが。
退院してから最初の日、クラスメイトに囲まれて事件のことをあれこれと聞かれたし、それ以上に一緒にいた可愛い女の子というのは誰だと詰問されたのだが、ネットで知り合っただけの女の子で、噂の太郎さんがいる学校を見てみたいとせがまれたので忍び込んだのだけれど、一緒に襲われちゃったよ、という話に仕立てた。
……後で本当に転校とかしないよな。紫藤のやつ。
なんかすでに「可愛い女の子」ってことになっているんだけど。いや可愛くないとは言わないけれど、中身がバリバリに凶暴じゃん、あの人。
傷が深いからまだ入院中だとは思うんだけど。後で詫びのつもりでコンビニスイーツとか買って見舞いに行ってあげよう。食事ができるかどうかは聞いていないけど。
トイレには行った。
朝も、授業の間にも、昼休みにも、放課後にも。
いつも人の用足しを覗いてくる痴女の姿も、返り咲き隊の活動を始めるぞという勇ましい声も、何もなかった。あるわけがない。
ぼくが消し飛ばしたのだ。太郎さんごと。
「おーす田中、もう怪我は大丈夫? まだ水泳部には来られないか……んー、でもほら! また一緒にお化け屋敷とかは行けるじゃん? それにほら、なんなら私の部屋でホラー映画を見てもいいしさ。あ、またタカ姉さんとかと一緒にデートしよ、ね?」
そう心配してくれる向日葵先輩がいてくれる。太郎さんはもういないこと、堂島先輩がもう復帰できそうだということを知らされて以来、かなり元気なようだ。
「なんか大変だって話を聞いたけれど、大丈夫か? こっちはなんでお前は女子の制服なんだとか色々と言われたけれど、元気だ。っていうかなんか、馴染んできた。この間はサッカー部の一年生男子に告白されたんだけど、これ本気だと思うか? からかわれてんのかな?」
いっそ吹っ切ったように筑波先輩は女装して学校に来ていた。女子と比べても遜色のない仕上がり具合で、偏見も多いかと思ったが、想定していたより風当たりは激しくないようで、むしろ美容系女子の中に溶け込んでいるようだった。
変に目立っていることからインターネット世界で変なファンがついているんじゃないかという不安要素について、一応沖田未桜先輩の幽霊に確認したが「たぶん大丈夫。恭ちゃんが可愛いから私はオッケー」ということだったので、何かあったら相談に来てと言っておくに留めた。
「陽水、十八歳になるまで結婚できないのはわかった。だからせめて寝よう。一緒に酒池肉林の園へと踏み出そう」
何故か巫女装束に身を固めた、見た目だけはいいと評判の図書館司書は最近、他の人間に結婚したいとか未成年と寝たいとか、そういうことは言わなくなったそうだ。
……ぼくだけ言われているのは、なんなのかな。しかも度が酷くなっている。
「マジで危なかったなあ、あの太郎さんとかいうやつ。ばりぼり。たぶん紫藤ってあれだよ。すげえ有名な霊能力者の一門でさ、あの爺さん、足は悪くしたけれど霊能力のほうはえげつねえぞ。弟子もやっべえの揃っている連中だって。がりっ。あいつらお化けとか幽霊関係の秩序にうるさいから、んぐもぐ、今回の事件もその何とかっつー男を人柱にして終わらせる気だよ。たぶん元々からアウトロー系の奴だと思うがね、逮捕された男。違法薬物のせいで判断力ないらしいし。ぼりっ」
煎餅のおじさんはあれからも事件がどう収拾がついたのか確認してくれていたらしい。
「天童家すっごいの。あれから向日葵ちゃん、ひょっとして私がいるのかもと思って毎回ちゃんと影膳、用意してくれるんだよ。もう私ほぼ向日葵ちゃんの守護霊だわ。いや、本物の守護霊に悪くない程度にね? あ、あんたもたまーに遊んでやるから、拗ねるなよ?」
タカ姉は居心地のいい場所を見つけたらしい。向日葵先輩もタカ姉の話だったら喜んで聞くので、もしも影膳が不要なときは伝えておくように約束をした。
生者でも死者でも、見えていようといまいと、女子同士で盛り上がるのだろう。
「陽水きゅん。もう、事件は全部終わったんデショ? 煎餅のおじさんもそう言っていたし、犬ェ門が調べた限り、あの水泳部の先生だってお咎めなしってことになったみたい。だから、ね? 陽水きゅん。元気を出して。ね?」
全部元通りだからさ、とは言わなかった。
犬ェ門ぐらい空気が読めなくても、それだけは言わない。
全部は、戻らないから。戻らなかったんだから。
向日葵先輩がもうとっくに検証済みだったのだ。
建て替わる前の黄昏高校ならともかく、いまの黄昏高校にはないんだ。
個室が四つある女子トイレが。
花子さんを呼び出す儀式をおこなえる場所が。
ひょっとすると二十数年前、花子さんも除霊されてしまったのではないか。
その後、旧校舎が壊されるまでのわずかな間に、誰かが花子さんを呼び出す儀式を再びおこなったのだと思う。それ以来、除霊されることなく、どうにかこうにか花子さんは二十年来、存在し続けた。
二十年以上、学校に携わる全員を見てきて、排泄行為まで覗いて、勝手に健康の心配をして、もどかしい思いも山ほどして、孤独で。
返り咲きたいと願っていた。
あのとき花子さんは逃げなかった。プールへ逃げれば、一か八か、生き残れるかもという期待を捨てた。ひょっとしたら生き残れるかもということは、ひょっとしたら一人でまた消えるかもしれないという可能性の裏返しで。
だから選んだのだろう。
確実に消えてしまうけれど。
絶対にぼくに、ありがとうとさようならを言える道を。
ぼくを太郎さんから救う祝詞を教えるために。ぼくと最後まで言葉を交わすために。
SNSの「トイレの花子さん」アカウントにはいまも返信がつく。半分以上がからかいで、けれど時々「昨日の二時間目の終わりに来た者です。本当に切なる願いなんです。お願いします」といったような、本気と思われるような返信ももらう。
改めて『九十九』を読む。
花子さんは酷い恨みを抱いて亡くなった悪霊であり、関わると酷い目に遭わされるなどという書き方もされていたけれど、本人を知っているぼくとしては、そんなことはなかったのではないかと思う。あるいは長い年月を経て、そういう悪辣な部分は丸くなっていったか。
トイレの花子さんはお人好しなところもあって、お節介焼きで、自信過剰で、偉ぶっているわりにちょいちょいドジで。
ああ、そうだ。尋ね忘れていたんだ。
向日葵先輩にぼくの秘密がバレたあのとき、花子さんは向日葵先輩が男子トイレに潜んでいることを、本当は知っていたのではないだろうか。
隣の個室に潜んでいることを知った上で、水泳部の男子は自分だけだからと思って気を緩めているぼくにわざと話しかけた。うっかり喋っていれば、隣の個室で太郎さんを探している向日葵先輩に見つかるだろう。すると、ただでさえお化け大好きな向日葵先輩はぼくが霊感体質だと気付くか、そうでなくても誰と喋っているのかと詰問するだろう。
結果的に、向日葵先輩はぼくの秘密を知る。
すなわち、幽霊の見える目を手に入れる。
あれだけは花子さんが一人で考え、思い至った願いの叶え方だったような気がする。
教えてほしい。本当にあれがドジだったのか。それともぼくを利用して、向日葵先輩の願いを叶えたかっただけだったのか。
一週間、あちこちのトイレに入って、それでも見つからなかった。放課後などの誰もいない時間には、誰かいないかと一人虚しく声をかけ、花子さんの名前を呼びかけた。
それでも花子さんは、現れなかった。
だから。