一四 襲われる花子さん
そして翌日。昼までの授業が終わって、ぼくは視聴覚室隣のトイレへ出向いた。
「花子さんいる?」
「おう、いるぞ田中。びっくりしたぞ、昨日はどう見ても学生じゃない奴らばっかり大勢で学校に入ってきてな。何やら調べまくっていたようで、トイレもいっぱい色んな器具とか薬剤とか使われて調べ尽くされてな……知らないおしっこがいっぱい見られたが、それにしたって学校で何かあったのかと気を揉んだぞ」
「その件で話があるんだ。事件のショックと犯人が捕まっていないせいで、今日の出席率は半分程度、部活動はまだ禁止だ。授業も午前中で終わったところだし、向日葵先輩も学校に来てはいない」
……何故か筑波先輩はいたけどな。挨拶したら妙に頬を赤らめながら「俺、あれから女装にハマりこんでさ。未桜もどこかで喜んでくれている気がして……供養、ってわけでもないけどさ……あ、これアカウント。フォローしてくれよ」と連絡先を交換するついでに趣味の女装を世界に発信している場まで教えてもらえたが……どうしろと……。
スマホで確認したらクオリティ高すぎてなんか変な人たちから山ほど「抱きたい」「おじさんと今度会おうよ」などのコメントをもらっていたんだけれど、あの人。今度、沖田未桜先輩に話を聞いておこうかな。なんか変なことになっていたら止めないと。
「おー、それでこんなお昼の時間帯に来たのか。そういえばどこのトイレからもひと気がほとんどない。もう帰宅時間になってしまったのだな」
「一昨日の夜、堂島先輩に何があった? 学校の中にいた花子さんなら、何か知らない?」
「んあ? 堂島……ああ、あの乱暴者な。あいつどこかに忍び込んだのか隠れていたのか、夜になってからすまほを求めてあちこちの女子トイレに入っては探していたんだ。確かに二年棟の女子トイレにあいつのすまほは置いてあってなあ。まあ向日葵が置いていったんだが」
「何時ごろ?」
「すまほを見つけたのは……午後十二時か、それぐらいじゃないか? 警備員が十一時ぐらいから一時間かけて巡回するだろ? その後だから」
警備員の動く時間帯はわからないが、それぐらいの時間までどこかに隠れていたのだろう。人に見つかると面倒だろうし、随分と根性の据わったものだ。
だがそれゆえ、犯人がまだ見つかっていない。
「で、回収した後、あいつがトイレを出ていったんだけれど、その後のことは知らない」
「……知らないの?」
「だってトイレの外のことだし」
「何か怪しいこと、なかった? 物音とかも」
「たぶんなかったけどな。警備員もいるし、あの乱暴者もいるから、足音ぐらいはどこかから聞こえてきていたけど。トイレの外だと音だけだからあんまわかんない」
「他に潜んでいた人とか」
「トイレにはいない」
「まさか本当にトイレの太郎さんが発生したとか」
確かにこの高校をぐるりと囲んだ結界を幽霊やお化けは突破できない。だが、結界の中で生まれたのだとしたら、どうか。
花子さんがいるのだから、結界の中にいることは無理がないはずだ。境界線を踏み越えるすることができないというだけで。
「太郎さんが発生かあ……したかもな」
「え?」
「向日葵が実験していたから」
「……じっ、けん?」
何の話だ? と思っていたら、花子さんは目をぱちくりとまたたかせる。
「いや、実は向日葵がな。花子さん返り咲き隊として広報活動をしてやるからちょっとトイレの太郎さんを現実のものにする実験をしてみたいと言っていてな。別に私にも害はないし、許可してやったんだ。お化けは人の恐怖心ありきで発生するんだぞ、という話もしてやってな。てっきりその実験が成功したんじゃないかと」
「いや聞いていないけど」
実験? 実験って、なんだ?
よっぽどぼくが怖い顔でもしたのか、花子さんはわたわたと説明を紡ぐ。
「だ、だからな? みんなが太郎さんを怖がれば、太郎さんのお化けが出てくるんじゃないかって。そういう実験をしたいと向日葵が言っていたんだ。ほら、お化けって人の恐怖心がものを言う、から……怒るなよぉ」
「いや怒るっていうか、そもそもそんな打ち合わせというかレクチャーというか、どうやってやったんだ?」
向日葵先輩は別に霊感体質というわけではない。どうやって花子さんと意思疎通を?
「え、こうやって」
花子さんが右手を上げると、すぐ正面の壁にどろりとした質感の赤い液体が浮かび、それが蠢いて文字になる。
『いんたーねっとで向日葵がトイレの太郎さんの怪談を広めている。それで太郎さんが本当に生まれるかどうか、実験』
「……ごめんちょい待って」
頭を抱えたくもなったが、ぼくはスマートフォンを操作し、これまで向日葵先輩に教えてもらった怪談配信系のサイトを確認する。正直、実生活がホラーまみれなので興味はほとんどなかったのだが、ええと、どれだこれ。二十ぐらいあって確定できない。
「ん。ちゃんねるの名前は『怪談語りトゥルネソル』。向日葵のフランス語読みだそうだ」
「とぅる……ああこれか」
リンクを踏み、サイトへジャンプする。案の定そこは動画の投稿サイトで、怪談が配信されていた。人気があるかどうかは知らないが、二万人がチャンネル登録しているので人目に触れる機会はそれなりにあるんだろう。
あれ、でもぼくが好きな女優のゲームプレイ配信チャンネルでも四万人ぐらいだったから。向日葵先輩も結構、登録者の多いチャンネルなのかな……。
そんなことを思いながら一週間も前に配信された動画を再生すると、流石に顔出しや制服の露出こそなかったが、部屋着らしい女子の首から下だけが映る映像が出てきた。
……なんか、キュロットパンツから覗く太ももで誘惑するようなカメラ角度だな。一言で言うと、あざとい。
『はーい、みなさんこんばんはー。トゥルネソルでーす。えーとですね、今日は私が通っている学校に伝わるトイレの太郎さんにまつわるお話を……』
「……向日葵先輩だな。これ。気付かなかった」
「すごいなすまほ。でもなんで向日葵、顔出さないの? カメラ? カメラがこれずれているよ?」
「それはいい。んで、これでトイレの太郎さんの話を広めていたと。でもこんなんで現れるもんかな……」
原理としては間違っていないと思う。
だが恐怖などというものは数値化できないし、できたところでいくつ以上集まったらお化けになるのかなんてわからない。そもそも恐怖心だけなのか、他の要因が必要なのかさえ、お化けにだってわからないのだ。ぼくも知らない。
だから実験、か。
結界の話をした後も男子トイレに潜入していたのは、結果を知りたかったからに違いない。煮え切らない態度だったわけだ。
「花子さんが教えたの? お化けのことは」
「うーん、でも向日葵も元々かなり近いこと考えていたみたいだけどな。そういう魂胆で数年前に始めたらしいぞ、『怪談語りトゥルネソル』」
「なんかカタカナ語でぼくより流暢だと腹立つな。ん? あ、これこっちが最新か」
どうやら向日葵先輩、一昨日の夜には更に多くの配信者を呼び込もうと過激なビキニ姿で太郎さん特集をやったらしい。なりふり構っていないな。実際に視聴回数が前回より二桁も多い。
……スケベ方面で人数が増えているの、後輩としては不安なんだけど。
ライブ配信だったらしく、その時刻はちょうど堂島先輩がスマホを回収したぐらいの時間帯に被っている。
もし本当にこの騒ぎでお化けが発生していて、それが堂島先輩と鉢合わせたのなら。
あんな事件にも、なるのだろうか。
「ひょっとしてもう、存在しているのか? トイレの太郎さん」
「トイレには特に誰もいないぞっ」
むんっ、と胸を張られるが……なんかいまいち信用できないところがあってなあ。
「本当だろうな? そんなこと言っておいて、また気付きませんでしたってオチ、やめてくれよ。向日葵先輩に霊感体質がバレたときみたいに」
「あはは、嫌だなあ。あれは――」
――ごん。
不意に。
ノックの音が響いた。
いままでの会話が聞かれたのかも、と思って口を閉じるが、花子さんまで目をまん丸くしている。え、何? またポカした?
「いや違う。本当に、さっきまで私と田中しか」
――ごん。ごん。
またもノック。不躾で、重い、おそらく男性のものらしい力強さがある。
これは、ひょっとして。
「……入ってますよー、とか田中、言わないのか」
「……死臭がする」
花子さんからは何故かかぐわしい桃の香りしかしないが、煎餅のおじさんなんかには少しする。先日デート中に見つけた子供らも強めに放っていた。
扉の向こうからは扉越しでもわかるぐらい濃い強烈な死臭と、血の匂いが香る。
忘れていた。高校の敷地内では、四月からずっと嗅いでいなかったから。
「扉の向こうにいるのは、生きた人間じゃないぞ」
「え、な、お化けっ?」
「たぶんな。おいお前、どこの誰だか知らんが――」
「……は、な、こぉ」
野太い、緩慢な声がした。花子さんともう一度、顔を見合わせ、ぱちくりとまばたきをして見せ合い、それからぼくは扉の向こうに問いかける。
「え、お前もトイレの花子さんなの? え、こっち偽者?」
「私が本物だ馬鹿田中! ええいどこのどいつだお前ぇ!」
花子さんが威勢のいい声を放った瞬間、おそらく考えなしに鍵を開けてしまったのだろうが、扉が開く。そして、そこにいたのは。
巨漢、である。
二日前に致し方なく戦った堂島先輩に匹敵する長身だが、それより横幅が広い。まるでこのトイレの入り口にしつらえたような幅広の肩に、それに見合う分厚い胸板。圧迫感が尋常ではないのだが、一番怖いのはその鬼みたいな顔でも、その首筋から流れる血でも、体格でもなく。
右手に握った、血みどろの出刃包丁である。
「は、な、こぉ」
鬼が、ゆらりと包丁を、掲げて。
「ッ、おらあ!」
有無を言わさず、数珠をはめた右の拳で思い切りぶん殴る。鬼の胸部を殴打したそれは、まるで相手が風船みたいにぶっ飛んだ。間違いない、この手ごたえ。
幽霊、あるいはお化けの類だ。
わずかに空いた隙間からぼくは逃げる。
「田中!」
「花子さん逃げて! こいつが太郎さんだ!」
ぼくがその名前を出した途端、鬼は察したように起き上がり、不気味に笑った。
「た、ろぉ。たろぉ。はな、こぉ、た、ろぉ」
「他に喋れねえのか!」
ぼくは大急ぎでトイレを出る。幸い、すぐには追いかけてこない。
傷害事件の影響ゆえか校内に人は全然いない。正直、あんなのがいるのならすぐにでも人除けしたほうがいい。いや、本当に害悪かどうか、見極めきれていないけれど。
一年棟の前を通りがかり、ふと知り合いの顔が浮かぶ。
ぼくら生徒は帰れても、先生はまだ帰れないかもしれない。まだいるのかもしれない。一人でいることもあるかもしれない。もしそこに、あの太郎さんが現れたら。
ぼくはすぐに図書館へと駆け込んだ。
「先生! 南村先生!」
「お、なんだまだいたのか陽水。まだ犯人も捕まっていないんだから早く――」
「変な奴がトイレにいました! 突き飛ばして逃げてきました! すぐ職員室に連絡を!」
太郎さんが危害を加えるかどうかなんて、見極めている暇なんてない。もし万が一にも、誰かを傷つけることがあるのだとするならば。
いますぐ、この高校から人除けをする必要がある。
真面目な顔になった南村先生はすぐに固定電話で職員室に一報を入れ、身支度を整えた。
「行くぞ陽水。怖かっただろ。大丈夫だ、私が一緒に帰ってやる。なんなら今日は先生の家に泊まったっていいんだ。ずっといていいぞ。大丈夫だ陽水。私のことは柊ちゃんと呼べ。鞄はあるな? よし、行くぞ」
滅茶苦茶心配をしてくれて、そしてどさくさ紛れにぼくの腕をこれ以上ないほどきつく抱きしめる南村先生は真面目な顔で。
ぐへへへへ、という変質者さながらの笑い声をこぼした。
地雷を踏んだかもしれない、と気付いたのは息が整った後だった。