一三 二十年以上前の花子さん
「職員女子トイレから飛び出してきて先生からめっちゃ怒られたらしいですね、堂島亜紀羅先輩。ぼくを殴ったことはなんか完璧スルー、問題外でしたけど」
「あの後さ、冷静になって見てみたら、別に私が個室から出てきているだけの写真で、あれだけじゃ男子トイレとも思われないかもって写真だった。あいつ撮影下手だね」
「……削除、それでもしておきました?」
「うん。スマホごと水に叩き込んでやろうとしたけど、それでデータ壊れなかったら最悪だもんね。他にも変な写真撮っていないかと思って色々見てみたけど、あいつ酒飲んでいる写真自撮りしてやがんの。もらっておいたよね。あ、スマホは教室の女子トイレに置きっぱなしにしておいたから回収できないよ」
そりゃ自業自得かもね。もう変に絡んではこないだろう。たぶん。
「ってか田中はその顔、大丈夫? ごめんね?」
「すぐ治りそうなんでいいですけどね。一応階段から落ちました、授業に間に合わなかったのもそれが理由でした、って言ってすぐさま保健室コースです。この高校の保健室いいですね。先生も優しいし。担任の一条先生も、水泳部の里見先生も心配して来てくれましたし」
幽霊もいないしな。特に犬ェ門。
「涼夏ちゃん、めっちゃ心配したでしょ。うちらのこと大事にしてくれてんだよね」
「ええ。本当にいい先生です」
「たぶん涼夏ちゃんは堂島さんの仕業だってわかっていると思うよ。私のところにも大丈夫かって尋ねに来たし、私と田中が仲いいの知っているから連想したんじゃないかな」
不良生徒相手にも負けなさそうだよな、あの鬼神は。
「ま、田中の保健室での恐怖体験はまた時間のあるときにじっくりねっとり聞くとして」
ねっとり聞くのかこの人は。
「ねっとりするのなら私も混ぜて」
「南村先生、本当に逮捕される案件だけは勘弁してくださいよ」
部活も終わった後なので(ぼくは怪我もしていたから被服室隣のトイレで花子さんとだべっていたが)、時刻は午後六時である。図書館には先日のように他の生徒もいない。南村先生を含めた、ぼくら三人だけである。
向日葵先輩も図書館利用者だったらしく南村先生と顔見知りで、特別に図書館の片隅にあるドアから入ったところにある薄暗い部屋、すなわち書庫に入れてもらえた。
この黄昏高校の図書館には開架図書と閉架図書が分けられている。閉架書庫にあるものは流行が過ぎて利用率が低いもの、いまでは間違った情報が掲載されているような古いもので、あとは全国新聞と地元ローカル新聞が十数年分は保管されている。とにかく先代以前も含めた司書の判断で開架から下げられたものが書庫にはあるのだという。あとは生徒が著しく汚したものなども。
図書館以上に大きな本棚が密集しているここは、書痴や資料好きな人が見たら垂涎ものだろうなと思えるほど古い紙の匂いが充満している。
そんな書庫にある向日葵先輩のお目当てが、機関紙である。
「文芸部が主体でつくっていたこの『九十九』ね。当時の学校の怪談や七不思議の類を集めて残してくれていたんだよ! いやあ、すっごいなあ。記録って財産だよね!」
「しかし閉架書庫って、貴重本なんかもあるから普通は入れてもらえないんじゃ……」
ああ、と南村先生が応じる。
「うん、普通は入れないよ。でも向日葵はよく怪談本やホラー小説のリクエストも出してくれるし、それ関係なら滅茶苦茶借りてくれるし、もうちょっと粘ったら抱かせてくれそうだからさ。特別に」
「おい最後」
「競泳水着フェチなんだ私……あ、陽水も試合とか出ないの? 水着姿、見たい」
「いやぼくはタイムも悪いので出場はしませんが……」
「仕方がない。私の部屋で脱いで見せてくれたらいいから」
「どういう状況なんだそれは……」
「そんな話はいいから! ほら田中これ見て!」
そう言われて読まされたものは、校舎を建て替えるより前にあたる平成三年十一月号と記された機関紙の一ページだった。
トイレの太郎さん。
第三理科室の隣にある男子トイレには太郎さんが出ます。
太郎さんには花子という妹がおりましたが、この妹がある日、トイレで自殺をしました。
学校でいじめられていたのだと思った太郎は学校へと忍び込み、授業を受けている生徒達へ包丁を突きつけます。
ところが剣道の名手であった先生に逆襲され、慌てて男子トイレに逃げ込みました。
先生たちが個室の扉をこじ開けたところ、中にいた太郎は持ってきていた包丁で自分の首を刺して死んでおりました。
それ以来、この学校には包丁を持った太郎さんが現れます。
太郎さんは花子さんをいじめたと思い、生徒や先生を狙い、殺そうとしてきます。
一人で男子トイレに入ってはいけません。
男子トイレに近付いてもいけません。
太郎さんはあなたを追いかけ、必ず殺すでしょう。
「……花子さんの兄、か」
「ね、これめっちゃ怖いでしょ。探すのわかるでしょ」
「いやわざわざこんなモンスター探す気にはなれませんけど」
探す必要もない。変な霊やお化けなら、ひと気のない暗い道とかによくいる。見ない振りをするとか、数珠やお守りをチラつかせるとか、対抗策は色々とあるけれど、できれば関わり合いになりたくない。今日の堂島先輩みたいな面倒臭さがある。
流石にヤバいときは犬ェ門や煎餅のおじさんが助けてくれたこともあるけれど。
どのみちあんまり遭遇したいとは思わない。まして探すなど粘着されそうでな。
実際に殺してくるお化けは幸いにも会ったことはない。ぼくをかつて拉致した強面の天狗でさえ、一晩ほど愚痴を聞いてやっただけで満足して帰してくれた。
ああ、だがぼく狙いではなかったが、以前、交通事故現場で事故車の中で大笑いしていた老婆の亡霊は怖かったな。奴がわざと事故を引き起こしたのだろう。あれは悪霊だ。
当たり前だが首謀者がお化けだとしても殺人は警察沙汰になるし、そんなお化けならば何らかの手を下す必要がある――と、この数珠をくれた尼僧も言っていた。
……たぶんあの人は、本当にそういう類のものと戦ったことがあったんだろうな。
「でもこの太郎さん、願いを叶えてくれる要素ないんですね」
「ああ、いまSNSで流行している太郎さんとは関係ない感じだね」
まあ、ぼくらが運営しているアカウントに当てつけてつくられたものだろうしな。
そう考えるとどっちの太郎さんも、まず花子さんありきでつくられているよな。
「で――まさかこの太郎さんに遭遇せんがためにわざわざ、また男子トイレに忍び込んでいたんですか?」
「そう。忍び込んでいたんです」
えっへん、と胸を反らす先輩に、ぼくはどつきたくなる気持ちを抑える。
「向日葵先輩。そのですね、この高校には――」
と、ぼくらをねっとりとした視線で眺めすがめる南村先生が、はっとする。
「ん? 何? いま二人相手にベッドインすることを想像していたんだけど」
「やめろ。いやまあ、なんでもないです」
霊感持ちなどと知られたくない。知っているのはここにいる向日葵先輩と、そういえばまだ登校してきていない筑波先輩の二人ぐらいでいい。
何か隠し事をされた気配だけは察したようで、南村先生の目がじっとりと粘ついてくるが、無視しておこう。なんとなく叱り損ねたが、向日葵先輩はどこ吹く風である。
そう、これこれ、と言いながら見せてくれた平成八年の『九十九』に、一階のトイレに入ったはずが三階のトイレにいた、という怪談が掲載されており、それもトイレの花子さんの仕業ではないかと書かれている。
……この時分からテレポートとかやっていたのか。あの痴女は。
最近でも何か悪さをしていないかと思ったのだが、最終号は二十年以上も前だった。
「いまはもう文芸部、つくっていないんですね」
「お化けの話が廃れたのかな? 私がもう一回、盛り上げてみようか」
向日葵先輩なら本気で文芸部に兼部しそうだ。ああ、と南村先生が続けた。
「いや、たぶん一回ここ建て直しているから、そのときに部活動とか一新されたんじゃないのかな」
「へえ……あ、トイレの花子さんの呼び出し方あった」
四つ並ぶ女子トイレを手前から八回、七回、五回、三回とノックをして声をかける、という儀式で花子さんを呼び出すようだ。語呂合わせかよ。
「向日葵先輩はこれ、試してみたんですか?」
「ん? あー、それもさっきの話に出たでしょ。建て替え前なんだよ。いまうちの学校の女子トイレって、最大で個室三つだから」
「あ、そうなんですか?」
流石に女子トイレ事情には詳しくない。
他にも向日葵先輩オススメの怪談話で盛り上がっていると、おや、と南村先生が腕時計を見ながらぼくらに知らせた。
「もう遅い時間だ。これ古いものだし、いい紙で印刷したわけでもないから閉架には入れておくけれど、扉は開けておくから好きなときに見においでよ」
「いや、そんないい加減な管理でいいんですか……」
「いいんだよ。だって私たちは夫婦じゃないか」
「冗談でも南村先生が言うと怖いです」
「まあ向日葵がもう婚姻してくれたからいつでも開けっ放しだけど」
「あ、今日から田中がその責を負うのでよろしくです」
「おい先輩? まさかぼくを呼んだのそのためですか? ねえおい!」
「陽水、いえあなた。やっぱり私が好きなのね。他の女といちゃつかないで」
「やめろ触んな絡みつくな! 淫行教師!」
まあ、確かにもう今日はいい時間だからな。
そろそろ帰ろうか。
「南村家の新居に、ね?」
黙れ。ぼくは田中家に帰るんだ。
まあ、向日葵先輩の家には送っていく役目を仰せつかったが。
……結構、でかい家に住んでいるんだな。お嬢様なんだろうか。
次の日は平日だったけれど、朝一番の緊急連絡で授業はなくなり、突然の休みと告げられた。部活動もストップ、プールや図書館どころか校内一斉に立ち入り禁止となる。
傷害事件が発生したのだ。
三年生の生徒が深夜、校舎の中で怪我しているところを発見され、重体で病院に運ばれたのだという。刺された、という話がまことしやかに流言した。
犯人はまだ見つかっておらず、生徒は安全のため、そして警察の調査が入っているため登校するなという命令が下った。
ぼくは一日、ただ惰眠を貪り、ごろごろと漫画を読んで過ごした。
夕方やっと、被害者があの堂島亜紀羅先輩なのだと知るまでは。