一二 花子さんの救急指令
「田中ぁ! 部室棟のトイレに急げ!」
「ん」
授業と授業の間の十分休みの際、クラスの友人、早乙女と一緒にトイレへ来た折、突然花子さんが来て叫んだ。
普段、他に人がいるときは話しかけず(じっくりねっとりと人の排尿を見てくるので最悪だが)、緊急事態のときだけ話しかけてくる花子さんが息を切らしていた。
どうした、と早乙女に言われるので、いや、と言いながら目だけで花子さんに何があったか問いかける。
「向日葵が男子トイレから連れていかれた! 三年生のおしっこ色の頭でおしっこの出が悪い奴に男子トイレにいるのを見つかって、手を引っ張って連れていかれたんだ! なんか険悪だった! あれはあれだ! 暴力とかそういう雰囲気がした!」
「ちょっと早乙女ごめん。ぼく水泳部に忘れ物したの思い出したわ」
トイレを飛び出して部室棟へと走る。おしっこ色の頭でおしっこの出が悪い奴……いや誰だそいつはって感じだが、男子トイレにいた向日葵先輩が見つかったっていうのがあんまりよろしくない。事故と言い張ることもできればいいんだが。
たぶん金髪、ということは染髪か。うちの高校、一応禁止なのだが。
「そういや二年とか三年の不良グループみたいなので何人かいたな、そんな奴」
向日葵先輩に関わらないようにと注意されたことがあった気がする。
悪い予感はするし、花子さんの様子も尋常ではない。せめて思い違いならいいが。
授業のチャイムが鳴り、先生が移動する気配の隙間を縫って部室棟へ急ぐ。トイレに入るも気配はしない。いや、一人だけいた。花子さんだ。
「田中!」
「花子さん、向日葵先輩、どこに連れて行かれたかわかる?」
「たぶん三階! トイレの外から声がした!」
急いだ。トイレの外に関しては、ぼくの担当だ。
そして階段を上がりきる前、三階の廊下から言い争うような男女の声が聞こえてきた。
「天童さ、お前がそんな欲求不満なら俺が手伝ってやるって言ってんじゃん」
「だから違うって……ねえやめて! あんたそういうの最低だよ!」
「男子トイレに入って変態行為していたほうが最低だろ。言いふらすか? みなさーん、ここにド痴女がいまーす!」
「だから違うって……ちょっとやめてよ!」
ああ、悪い予感のほうだ。
足音を忍ばせ、覗き見る。授業中に部室棟へ来る奴など皆無だ。そのため、堂々と二人は廊下で話をしていた。案の定、相手の男子は髪を金髪に染めた不良グループの一人らしい。やたらと下卑た笑みで、スマホを高く掲げて向日葵先輩を押しのけている。
向日葵先輩より頭三つ分は上背があるから……百八十センチはあるな。うん。これはぼくに太刀打ちできる相手じゃない。
教師でも呼んでこようか、と思った途端、がらら、と引き戸の開く音がした。
「ちょっとやめて!」
「騒ぐなって! 欲求不満もすぐ晴らしてやっから。どうせ男子トイレに忍び込んでいたんだから、やらしいことがしたいんだろ、お前。証拠写真あんだからな。ばら撒かれたくなかったら大人しくしろや!」
「ふざけんな離せって!」
こりゃダメだ、手遅れになる。えー、うちの高校そんなに治安が悪かったか? いや、なんかよっぽど男子トイレにいたのが弱みだと思われてんのかな。違うって、その人常識ないんだよ。
かとはいえなり悪い方向に脚色して言いふらそうとしているから、向日葵先輩もあんまり強く出られないのか。
ぼくは走った。引き戸が閉まる前に、その図体の大きい金髪の襟首を引っ掴むと、そのまま後ろに全力で引っ張る。
不意を突かれたようで、これほどの体格差だというのに相手は「ぐええ!」と叫びながらひっくり返り、ぼくはそいつが印籠のごとく掲げていたスマホをもぎ取る。
「あ! なんだてめえ!」
「うっせえバーカ!」
ぼくもなんでか言い返しながら走る。トイレだ。トイレまで逃げろ。
階段を駆け下りる。上からどたばたと走る音が聞こえてきて、いかん、もうじき追いつかれるかもしれない、というプレッシャーを感じて怖気が走る。二階に到着、それからようやく廊下を、ええと右に曲がるのか、トイレそっち――と思ったとき。
影が差した。
え、と振り仰ぐと、あの金髪、さては最上段から飛び降りやがったな。
映画かドラマでプロレスシーンを見たことが何度かあるが、ちょうどあんな感じだ。
真上に、男の図体が迫ってきていた。
スマホを投げ飛ばす。途端、衝撃と圧がのしかかってきた。水泳でちょっとは鍛えたとはいえ、自分より大柄な男を持ち上げられるわけもなく、転倒する。馬乗りにされ、殴打だかなんだか四方八方からよくわからない攻撃が降ってくる。それを腕でガードしながら、どうにか逃れようと体を揺すった。
「た、たた、田中!」
震える声。向日葵先輩か。
ぼくは防御を解き、逆に金髪野郎の服を引っ掴んで離さないようにする。
「スマホ! その辺に投げたから! 持ってトイレに!」
「え、うん!」
わかったかどうか知らないが、誰かが階段を危うげに駆け降りてくる音がした。足音はそのままトイレの方角へ進み、スマホも拾ったのではないかという気配もある。ぼくは金髪野郎にしがみつき、怒号を受けようが殴られようが、強引に時間を稼いだ。
一分か、三分か。とにかくある程度してようやく。
「離せよてめえ!」
力尽き、強引に引っぺがされた。廊下の片隅でようやく何度も殴られた顔や背中や脇腹の痛みをこらえながら、金髪野郎が廊下を走っていくのを察した。向日葵先輩が奴のスマホを持って女子トイレに逃げ込んだのならそれでいいのだが。
少し休んでから、それでも頭がくらくらしてまっすぐ歩けないぼくは、体を引きずるようにして男子トイレに入る。花子さんがすぐ駆けてきた。
「お、おい田中。大丈夫か?」
「向日葵先輩は?」
「教室のほうへ飛ばした。個室の中でじっと息を潜めている」
「もう安全地帯に移ったってわかっていないんだろうな。あの金髪野郎は来た?」
「隣の女子トイレにいる。閉じ込めているが、あいつやだ。ドアとか壊しそうなんだよ」
「ナイス」
「ナイスか? 壊されそうなんだぞ!」
「壊される前に死ぬほど怖がらせてこい。気絶するまでな。どうせ後ろ暗い奴なんだから霊能力者なんか呼ばねえし、呼びようねえだろ。女の子脅迫して追いかけて女子トイレに入ったら怖い目に遭いました、なんてよ」
「おお、そうか。よっし任せろ! おもらしするまで泣かせてやる!」
「さて……教室のほう行くか。いや、普通に連絡取るか」
隣の女子トイレから響く野太い悲鳴を聞きながら、ぼくは自分のスマホから向日葵先輩に連絡を入れた。すぐに電話に出てくれる。
『え、あ、田中?』
「ええ、田中です。先輩、大丈夫です? 花子さんが逃がしてくれたみたいですけど」
『え、そう、なの?』
「そこ部室棟じゃなくて教室のほうのトイレみたいですよ。花子さんお得意のテレポートです。んで、あの金髪野郎はいま部室棟で花子さんから拷問食らっています」
ひぎゃあああああ、ぷぎゃあああああああ、やああめええてえええええええええ、みたいな声を聞かせてやりたいぐらいだ。流石に電話越しではわかるまいが。
『金髪野郎って、堂島さんか』
「名前は知りませんけど先輩と争っていた奴です。何があったんです?」
『や、ええと……太郎さん見つけようかと思って、また男子トイレにね。そしたらちょうどそこを堂島さんが入ってきて、で、スマホで撮影されて、なんか脅されて……私、前に堂島さんのこと注意したり、告白してきたのふったりしたから、結構逆恨みされていて』
「ああ、なんか治安悪いなー、とは思いましたけど。そもそも恨まれていたせいですか」
『うん、でも……流石にちょっと、怖かった……』
「……太郎さんいないんで、もう男子トイレに行っちゃ駄目ですよ?」
『う、あ、でも……』
「でもじゃなくて。花子さんいるからいいじゃないですか」
『あ、本当だ……ここ二年の教室だね。え、すっごい……これ、花子さんがやったの?』
どうやらトイレから出て確認したらしい。
『うわあ、怪談話の通りだ』
「怪談?」
『そう。その怪談話の本があって、それで私――ああ、ええと。ごめん、今日部活の後なんだけれどもさ』
図書館、来られる?
ぼくの返事は、隣から聞こえた断末魔のような響き声にかき消された。