九 うっかり花子さん
水泳部には鬼神がいる。
体験入部の期間に二十人ぐらいいた男子生徒は、その鬼神によって追い出された。もう高校生だからな、女子相手に不埒な視線を送る輩に対して厳しいのはわかるが。
その鬼神とは里見涼夏先生。体育の担当教諭としてぼくも授業でお世話になっており、その上こうして部の顧問としても付き合いがある四十歳ほどの女の先生だ。
競泳水着の上にジャージを羽織り、いつでも飛び込めるように真っ赤な水泳帽を被ったまま獄卒のようにプール中に目を光らせる彼女には、トイレに行くにも許可が要る。
男子だけ。
すなわち、ぼくだけ。
「先生、すみません」
「トイレか」
「はい」
「……もう六月も終わりだな」
「いやトイレに行かせてください」
「この三ヶ月近く、お前のことはよく見ていた」
「トイレに」
「お前はやっぱり変態だ」
「いまもじもじしてんのはトイレに行きたいからです!」
「いや違う。お前は女子の体目当てなどではなく、純粋に泳ぎたくて来ている。下手なのに」
「トイレ行きますよもう!」
与太話に付き合っている暇はない。
ここのトイレは更衣室の先にあり、少し距離がある。しかもいまはたまたま腹具合がよろしくない、つまり大きいほうなので、間に合わないと大惨事だ。
「田中、今後は許可なしでトイレ行っていいぞ。お前は女子の着替えやタオルなんかに欲情しないだろうと他の連中も言っているからな。ただ水への渇望が強すぎるな」
「昔は体が弱くて泳げなかったんで!」
と、いうことにしてある。
実際は水に入るたびに水底から長い黒髪に引きずり込まれたり、体育座りのまま沈んでいる子供の霊にまとわりつかれたり、正面で「さっ、陽水きゅん! こっちに向かって直進! 拙者はすぐここでござりまするぞ!」という気持ち悪い声と気持ち悪いブリーフの膨らみが揺れていたからである。
泳げるか。あんな環境。
右手首の数珠なしで入れるというだけでもかなり快適だ。
幽霊がまったくいないプール。年頃の女子が山ほどいてうらやましいなあなんて言われるのなんかどうでもいい。ぼくは泳げる。泳げるんだ。最後に泳いだのは保育園に通っていたころだったから、実に十年ぶりに。
楽しかった。全然進まなくて、泳ぎ方がぎこちなくて、みんなに笑われても。
まあ、箸が転がっても笑う年代の先輩女子たちが相手だから、笑われるのは本当に嫌ではなかったけど。ちゃんと教えてもらえたし。
とにかくぼくはこの黄昏高校においてのみ、プールが大好きだった。
ぼくは棚に置いておいたバスタオルで軽く体を拭い、トイレに入る。
二つある個室の手前に入り、座り、用を足す。
「まったく田中め。いまの私は忙しいんだ。トイレのタイミングぐらい考えてくれ」
「……花子さん。だからさ、用を足している間は」
「見ていないし聞いていないし鼻もつまんでいるから安心しなさい田中隊員」
「鼻つまんでんならそんな流暢に喋れねえだろ」
溜め息をつくが、一応ながら個室に花子さんは現れない。ぼくは少しだけ安堵した思いでペーパーを使ってお尻を拭いて流す。
それを合図にでもしていたのか、花子さんが個室の中へ扉をすり抜けて入ってくる。
相変わらず整っているが、幼い外見だ。身長差のせいでぼくの胸元に顔がある。
校舎のトイレに比べるとここの個室はちょっと狭いため、距離が近い。
「ぼくはプールに戻るぞ」
「うん、いいぞ。なに、田中の顔を見ておきたかっただけだからな」
……ちょっとだけ嬉しいことを可愛い顔で言うんだよな、こいつ。人の排便を覗かなければもっといいのに。
「まあ私もいまや人気者だからな。すぐ視聴覚室隣のトイレへ戻らねば」
「ああ、筑波先輩のせいで忙しいんだよね。花子さんも」
あんな返信一つついたところでたいしたことないだろうと思ったのだが、オープン状態で誰でも閲覧できる状態なのがよろしくなかった。
花子さんに願いを叶えてほしいという連中がSNS上でこぞって「願いを叶えてもらったんですか」「どうすればいいですか」などと筑波先輩のアカウントに集中し、筑波先輩も上手いこと個人情報もぼくの霊感体質も隠しながら説明をしてしまったようで。
本物らしいぞ、という熱気がまったく冷めないまま一ヶ月が経過していた。
相談内容も大体はどうしようもないのだが、一部どうにかなりそうなものは花子さんなりぼくなりが暗躍していた。
たとえば「〇〇くんに告白したいんだけど上手くいくだろうか」という相談内容に対しては「そもそもそいつは誰なんだ」「二年生でこういう感じの人らしい。わかるか?」「そうか、おしっこに頻繁に来るあいつだな」とわずかな情報を元に特定、さらにその後で「男子トイレでも聞いたが、そいつも彼女のこと気にしているっぽいぞ」という花子さんの情報から、次に相談者がトイレに来たときに血文字で「上手くいくよ」と教える。ややホラーな方向性でありながらちゃんと相談に乗ってあげていた。
他にも「鍵を失くしちゃった」と慌てて入ってきた女子生徒の相談を受けたこともある。ちょうどその二時間前にとあるトイレの小窓から見える位置でベランダから鍵を落としてしまった姿を見ていた花子さんは、ぼくにすぐそれを告げ、ぼくが代わりに落ちていた鍵を先生に届けて先生から返してもらうというコンビネーションで解決したこともある。
結局、トイレに入らない人というのはほぼおらず、花子さんは全校生徒の顔(と、便的な情報)について詳しく、一方、トイレではまず名乗ることのない氏名やクラスの調査、物理的にトイレの外へ出ないといけないことに関してはぼくが担当するというやり方で、いまや花子さんもキワモノから本物に格上げしつつある。
その分、変な言いがかりやイタズラも依然あるが無視した。
花子さん本人が「返り咲いてきたぞ!」と大喜びなので、水を差したくもない。
「今日はぼく、何か花子さんを手伝わないといけないことある?」
「いまのところないが、部活が終わったらまた来てくれ。助けを借りたい相談がこれから来るかもしれないからなっ」
「はいはい。図書館の隣辺りに行くからよろ――」
扉を開けた。
そこに。
目をぱちくりとまたたかせる、天童向日葵先輩が立っていた。
「……え?」
一瞬、男子トイレと女子トイレを間違えたのかと焦るが、いやそこに小便器がある。別に女子トイレに詳しくはないが、あれは男子トイレにしかないはずだ。ということは。
男子トイレに、向日葵先輩が来ている?
向日葵先輩は驚きと、何故か妙に嬉しそうな微笑をたたえながら、口を開いた。
「おい、田中。いまお前、誰と話して――」
「独り言です。独り言が多いんですぼく。いやあ恥ずかしいなあ」
「おい待て」
がっと抱き着かれるようにしがみつかれるのだが、いやいや待て待て、あんたが待て。
ぼくいま上半身裸で。先輩はいま競泳水着一枚で。
しっとりと濡れた感触が冷たいとか、塩素の匂いに紛れて先輩の柑橘系のいい匂いが確かに香るとか、柔らかさとか、熱とか、そういうものが一気に肌を通して脳髄まで駆け巡る。
「あの、せんぱ、手まだ洗ってなくて!」
「まあいいじゃないか。話を聞かせろよ」
ぴったりと密着されたまま、いま出たばかりの個室へとぼくは押し戻された。
そこにはびっくり顔の花子さんもまだいて、ぼくと向日葵先輩の顔を交互に見る。
「た、田中。え、これ、ひょっとして……逢引か!」
うっせえ黙れ。というかトイレの中で全知全能みたいな存在のくせに、なんで向日葵先輩がいるの気付かねえんだよ。
至近距離から、なあ、と色っぽくすら感じ取れる向日葵先輩の声がする。
「田中、さっき花子さんと口にしていたな」
「気のせいですよ。っていうかあの、近すぎ」
「お前が逃げようとするからだ」
言いながら個室の鍵までかける。いや鍵はいいだろ、かけなくても。
際どい状況と際どい衣装のまま、向日葵先輩は鼻先がくっつきそうなぐらいの距離まで近付き、まっすぐな目で問いを重ねた。
「田中。私がホラー好きなのはわかっているよな? そんなお前が、ホラー関連で私に嘘を吐くわけないよな? 隠し事なんかしないよな? な?」
ぶっちゃけいまぼくの下腹部に当たっているやわらかいお腹をどかしてほしい。
ある種の極限状態の中、ぼくは観念して話した。
霊感があること。トイレの花子さんにも会ったことがあるということ。すぐそこにもいるんだけれど、たぶん向日葵先輩には見えていないだろうということ。ぎょっとした顔で花子さんの頭の上をきょろきょろとしていたから、本当にわからないのだろう。
あれこれ話したいようではあったが。
「まずいな、涼夏ちゃん怒るからもう戻らないと……ちょっとだけ遅れて戻ってきてな。で、部活が終わったら私と話。な?」
確かに鬼神に怒られたくはない。
言われるがまま取り残されたぼくは、最後にきつく「霊感のことは他言無用。他言無用でお願いします!」とだけお願いをしてから見送る。
隣にいた花子さんはぼくの背中をぺちぺちと叩きながら「隣の個室にいたんだなあ。気付かなかったよ。すまんな!」とほがらかに笑ってみせた。
数珠パンチできないのが悔やまれる。
……しかしなんであの人、男子トイレにいたんだ? あとお互い様だけれど、用を足した後の手だったら地味に嫌だな。