黒羽つぐみはカタツムリが苦手
六月の中頃、梅雨のはじまりの朝だった。
梅雨らしくなく、早朝に大雨が降った。
さほど堅牢な作りでない我が家の屋根がたてた雨音は、ちょっとした騒音被害とでも呼べるものだった。
おかげでぼくは普段よりもずっと早く目を覚ました。
そしていま、朝から派手に水分を放出したせいか、空は晴れていた。
日差しがキラキラとぬれた路面や道端の木々を照らす。
これはこれで悪くないなと思っていた。
もう今日のところは、雨は降らないらしい。
ぼくはひとり、高校へ続く川沿いの道を歩いていた。
「ひゃいっ!」
なんていう、謎の悲鳴のような音が聞こえたのは、そのときだった。
川べりに生えた草木に目をやっていたぼくは、音が聞こえた前方へと目を向けた。
その道は、川の両側を挟む土手の上に作られていた。
アスファルトで舗装されており、道端には、ところどころ、不規則に木々が植えられていた。
悲鳴らしき音が聞こえた方向には、一人の少女が立っていた。
ぼくと同じ高校の制服を着ている。
細身で、髪の毛は黒くて長く、ストレート。
その後ろ姿には見覚えがある。
周囲に目を向けても、授業のはじまりまで三十分以上ある今の時間、他の生徒は誰もいない。
声を出したのはその少女に違いない。
彼女はなぜか体をこわばらせて、その場に立ち尽くしていた。
木々の影が、彼女の頭上に落ちている。
はじめ、ぼくは別にその謎の悲鳴に関わるつもりはなかった。
だけどやがて、固まったままの彼女の後姿に、歩みを進めていたぼくが追いついてしまった。
ぼくの気配か、あるいは足音を聞きつけたのか、近づいたぼくに彼女は振り返った。
「……助けて、ください」
実に情けない声でそう懇願する彼女は、ぼくのクラスメイトであり、所属するクラスのクラス委員でもあり、だけどこれまで一度も話したことのない生徒だった。
黒羽つぐみというのが、その生徒の名前だった。
※※※
黒羽つぐみのことを、ぼくはあまり知らなかった。
外から見ているだけの彼女の印象は、優等生で教師からの信頼も厚く、成績優秀。
スポーツもできる、という万能少女だ。
その一方で、どこかツンとすました、冷たいイメージがある。
そしてクラスメイトになってから約二か月、ぼくとはほとんど話すこともなかった。
その原因は黒羽つぐみの方ではなく、主にぼくの方にある。
ぼくはどちらかといえば人付き合いが苦手だ。
高校に入って周囲になじめず、クラスでも特に親しい友人も出来ず、一人で時間をつぶすだけの毎日を送っていた。
そんなだから、第一声はどう発したものか戸惑う。
彼女の見る方向には、他に誰もいない。
無視することも出来ず、さりとて彼女をどう呼べばいいかもわからず。
「……どうしたの、黒羽さん」
やむなくそんな、堅実な一言を返した。
一瞬、彼女はこっちをクラスメイトと認識していないのでは? という疑問は湧いたけれど、彼女の方はそれどころじゃなさそうだった。
ぼくの方に目を向けたまま、震わせた指先を地面へと向ける。
「こっ、これ、これを見てください」
はじめ、彼女が何を指し示しているのかわからなかった。
川沿いの道を舗装しているアスファルトは雨に濡れ、黒くなめらかに輝いている。
よく見ると、そこには花びらのように、白い何かが散っている。
春の終わりに見る、桜吹雪のなれの果てに似ている。
何らかの花びらが降り注いだ結果、点々と無数の白い点がアスファルトに残っている――最初はそう思った。
だが、よく見るとその白い点は動いている。
その事実に気づいたとき、さすがにぼくも、うわっとなった。
「カタツムリ?」
顔をしかめながら黒羽さんの方へと目を向ける。
彼女はこくこくと何度もうなずいた。
「気持ち悪いですよね、気持ち悪いですよね」
そんな風に、彼女は同じ言葉を二度繰り返す。
川沿いの道は三メートルほどの幅しかない。
その幅の多くを埋め尽くすように、ごく小さなカタツムリの大群が道をふさいでいた。
といっても、足の踏み場がない、というほどではない。
慎重に歩けば、一つも踏まずに無事、通過できるぐらいの隙間はある。
「……カタツムリ、苦手なの?」
彼女はぎゅっと目をつぶり、うなずいた。
ぼくは後ろを振り返る。
他の生徒たちの姿はない。
川を渡る橋が、はるか遠くへと見える。
川沿いを通るこの通学路は、ぼくらの高校への通学には便利な代わりに、他の用途はあまりなかった。
土手を下った先は自動車専用の道になっており、その道路との境は、比較的高いフェンスが区切っている。
すなわち、回り道が難しい。
あの橋まで戻るとすると、朝にしてはかなりの時間のロスになる。
「ゆっくり行けば大丈夫だよ。足の踏み場はある」
「……わたし、コレ、見るのもダメなんです」
先ほどから決して視線を前方に向けなかったのはそのせいか。
「じゃあ、どうするの? 橋まで、戻る?」
「実は、その、少しばかり早く登校したい事情がありまして……」
ぼくらはしばしの間、見つめ合う。
「……もし、よかったら、ガイドとかしてもらえません?」
ひどくすまなそうな声でそう言う彼女。
そんな彼女がした提案を、ぼくは断り切れなかった。
※※※
路面には小さなカタツムリがびっしりだ。
別にカタツムリに何の感情も持っていないぼくだって、うごめく生物の集合体がそこにいる、というだけで、嫌悪感をもよおさせられる。
はじめに確認したのは、その生物たちの密度が薄いところだ。
道路の中央近くは、なぜだか彼らが嫌っているようだった。
そしてぼくは足元を確かめながら、片足を一歩、後ろ向きのままで足を踏み出す。
その瞬間、黒羽さんはうぇ、とか奇妙な声をあげ、顔をゆがめる。
だがぼくの足はしっかりアスファルトを踏みしめる。
「大丈夫そうだけど」
「本当にやるのぉ……?」
自分で提案したくせに、彼女はそんな情けない声を出す。
それでも、ぼくが差し出した両腕のひじあたりを、彼女が両手でつかむ。
その接触の瞬間、さすがにドキリとしたけれど、黒羽さんの声がそんなぼくの心の揺らぎをかき消す。
「こんな無脊椎動物に脅かされるなんて……」
脊椎動物としては恥だよな、と思いながら、ぼくは黒羽さんの体を支える。
ダンスをしているような姿勢になりながら、ゆっくりと、背後に伸ばす足の置き場を探しながら、片足をさらに一歩下げる。
「ゆっくり行くからね。ずれてたら、教える」
地面に向けていた顔をあげると、黒羽さんの顔が間近に見える。
彼女は必至で視線を上に向けており、ぼくの言葉に何とかうなずいている、という様子だった。
ぼくはさらに一歩下がる。
そのぼくの足が空けたスペースに、黒羽さんが片足を踏み出す。
しかし、彼女はなかなか足を地面に触れない。
「本当に大丈夫です? 踏み潰さない? もしも踏んだら、わたし……」
「どうなるの?」
「つい、叫びます」
そりゃ大変だ、とぼくは思う。
教室で見る黒羽さんには、とても叫びそうなイメージはない。
そんな彼女の足元へと目を向ける。
黒羽さんのスカートは際立って短くもないけれど、それでも膝のあたりはあらわになっている。
肌は白い。
膝の先には紺のハイソックス。
そして黒のローファー。
いま、ぼくは仲が良くもない女子の足先をじろじろ見ている。
なんというか、ヘンな気分にならないこともないけれど、だけど今は仕方がないんだ、とも思う。
何しろぼくには、彼女の精神崩壊を阻止する、という重大な使命が課せられているわけだし。
「そのまま、足を下ろしていいよ。大丈夫」
そのぼくの声に応じて、黒羽さんがゆっくりと足をつく。
踏み潰された哀れな無脊椎動物は、そこにはいないはずだった。
「やりましたね」
謎の達成感に浸る声を出す黒羽さんに、ぼくは現実を突きつける。
「あと五、六歩だね」
「えぇ……」
なんで嫌そうなんだよ。
ぼくはそう思いながらも、大した反応は返さず、さらに一歩下がる。
「待って、待って、早いですって、ほら、心の準備ってやつが……」
※※※
それでも何とか無事にカタツムリの小川を渡り終えるまでには、そう時間はかからなかった。
長く見積もっても五分ぐらいだ。
だけどその間、ぼくらは結構な会話をした。
その言葉の数はたぶん、この四月にぼくが高校生になって以後、異性と交わした会話よりも多かったし、ひょっとすると、同性のクラスメイトとの会話よりも多かった。
そしていま、黒羽つぐみはぼくの隣ですました表情をしている。
それはいつも、クラスの中で見る彼女の雰囲気とそう変わらない。
「クラスメイトなのに、恥ずかしいところ、見られちゃいましたね」
少しツンとした口調でそう言う彼女には、先ほどまでカタツムリから必死の形相で目を反らしていた、そんな情けなさはない。
その反応を見て、ぼくはなんだか少し距離を感じる。
ついさっきまでの黒羽さんは、通りすがりのぼくにさえ助けを求める、必死な溺れかけの存在だった。
だけど今の彼女はもう、違う。
そう思いかけたところに、彼女は嬉しそうな笑顔を見せる。
「でも、本当に助かりました。あの橋まで歩いて戻ると、十分から十五分は違いましたからね」
ぼくは少しほっとして、彼女にたずねる。
「そんなに早く教室に行って、何をするの?」
彼女は固い表情をする。
聞いてはならないことを聞いたかもしれない。
そう不安を覚えたときに、彼女は眉をハの字にして、ため息をつく。
「……わたし、昨日の教科書、全部机の中に忘れたんです。リュック、あんなに軽かったのに気づかなかった」
ひどく暗い顔をしてそう言う彼女の憂鬱が、ぼくには理解できない。
何ならぼくは意図的にすべてを教室に残していくことさえある。
「それが?」
「カッコ悪いじゃないですか。だから机の中の教科書を、さっさとロッカーにぶち込んで、証拠隠滅するんです」
首をかしげるぼくにちらりと目を向け、黒羽さんは言葉を続ける。
「……わかりますよ。教科書を残していったぐらいでどうした、って思うんでしょう。だけどわたしはクラス委員で、しっかりものですから。みんなにそんなカッコ悪いところ、見せられない。見せたくない」
軽く唇をかみしめるような表情をする黒羽さんに、ぼくは何というべきか迷った。
ぼくはそもそも教室の隅っこにいる存在だ。
中心にいる彼女の気持ちなんてわかるはずがない。
だけど、ある一点では彼女に共感できた。
そりゃ、誰だって、カッコ悪いところなんか見せたくない。
例えばぼくも、クラスメイトとうまく会話ができないところは、決して誰にも見られたくない。
「黒羽さんも大変なんだね」
「そうなんですよ!」
必死でそう声をあげる彼女に、ぼくはつい、笑ってしまった。
それから川沿いの道を、ぼくらは並んで歩いた。
他に生徒は誰もいない。
路面が濡れているところに出くわすと、黒羽さんはぼくに地面を指さして見せた。
「ごめんなさい、チェックお願いします」
だけどもう、その道の他の地点にはカタツムリの群生地は発見されなかった。
※※※
「どうしてカタツムリが苦手なの?」
何気なくそうたずねると、黒羽さんは遠い目をした。
「……暗い話になりますけど、いいですか」
「話したくなければ、別にいいけど」
「いえ、せっかくですから聞いてください」
なんだよそれ、と思ったけれども、その話は案外、本当に暗い話だった。
「わたし、今の家には引っ越して来たんです。でも、その引っ越す前の家というのがですね、湿地と木々に囲まれた、ひどくジメジメした家だったんです」
そのせいで、季節になると、その家の周りにはカタツムリがよく出た。
一度など、登校中に、どこからか現れたカタツムリがランドセルにくっついていた。
その事実に気づかないまま登校してしまい、カタツムリ女、なんてあだ名をつけられたこともあるそうだ。
「そのころ、わたしは引込み思案で、性格も暗かったんですよ。だから……湿っぽいイメージを持つあの軟体生物の名前が、クラスメイトのクソガキどもにとっては、わたしのあだ名としてベストマッチに思えたのでしょう」
「そのせいで、カタツムリが苦手に……」
ぼくが憐れみを寄せると、彼女は首を横に振った。
「いえ、それが直接的な原因ではないんです」
彼女は冷たくそう言い放ち、理由を説明してくれた。
「家に行く砂利道に、よくあの両性具有の陸生貝類が出たんです。だから車で出かけるときなんか、バッキバキにヤツらをつぶしていくことになる。その音が車の中に届くんです。……想像すると、気持ち悪くて」
「……さっきのカタツムリ女の話は?」
「だから、そんなヤツらと同一視されていたこともまた、気持ち悪いという話ですよ!」
わかるような、わからないような。
やがてぼくらは川沿いの道を抜ける。
高校の周辺は住宅街になっている。
なんの変哲もない、アスファルトで舗装され、塀に左右を挟まれた道をぼくらは歩く。
そのうちに、高校に赴く最後の曲がり角へとたどりつく。
妙な出会い方をしたクラスメイトとの、ヘンな朝の時間もこれで終わりか。
ぼくが少し残念がっていると、不意に黒羽さんが「ひゃいっ」と小さく叫んだ。
「……み、見てください。そこ、そこに……」
彼女が背を向けんばかりして目を反らしながら指さす先には、灰色のブロック塀があり、そこに一匹のカタツムリがはりついていた。
先ほど群生していた、生まれたばかりのようなヤツらとは違う、かなり大きな、いわば大人のカタツムリだ。
「別に、冷静になってみれば、そう気持ち悪いものでもないと思うけどなあ」
ぼくが何気なくそうつぶやくと、ほとんど背を向けんばかりにしている黒羽さんに、何やら耳を傾けるような間がある。
ぼくはそっとカタツムリに手を伸ばす。
伸びている目の先まで指を伸ばすと、その目はそっと縮んでいく。
さすがに触るのははばかれるけれども、その奇妙な動きはユーモラスでもある。
「ぼくも昔、クモが苦手だったんだ。脚が多くて、嫌悪感があった。だけどあるとき、雨粒がひっかかったクモの巣がとてもきれいに見えて、さ。そのクモの巣の持ち主をじっと見ていたら、……なんていうんだろう、機能美を感じた。よくできているな、と思って、その日からクモが苦手じゃなくなった」
「だから、わたしにも、この『ツノ出せヤリ出せ』をじっと見ろ、と?」
「……いや、無理にそうしろ、とは言わないけれど。少しは苦手じゃなくなるかな、と。大群でもないし、ここにいるのは一匹だけだしさ」
ぼくはたぶん、黒羽さんはすぐに、高校へ向けて歩き出すんだろう、と思っていた。
でも彼女は、そっと肩越しに振り返った。
そのカタツムリが視界の端に入るか入らないかの角度のまま、首筋を維持し、やがて彼女は言った。
「どうやら、これが限界のようです。やっぱり、キモイですよ」
そう言って、黒羽さんはゆっくりと歩き出す。
その隣に追いつくようにして歩くと、彼女が言った。
「でも、すぐそばでクラスメイトが平気そうにしているのを見ると、多少はイケるのでは、と闘志が湧いてきました」
別にカタツムリと闘えとは言ってないけどな、と思いつつもぼくはうなずく。
そうしてぼくらは高校の校門を抜ける。そのときふと、黒羽さんがたずねてくる。
「わたしからもひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「一人がお好きなんですか? クラスだと、だいたいいつも、お一人でいられるようですが」
その不意な問いかけに、何と答えればいいのか、ぼくは迷う。
別に、たった一人でいるのが好きなわけではない。
ただ、苦手なだけだ。
馴染みのない、他の人と会話をはじめるのが。
答えあぐねていると、黒羽さんが先に口を開く。
「ああ、別に話したくなければいいんです。……だけどもし、クラスメイトが苦手というのなら、克服してみるのもいいかも、ですよ」
「いや、」と否定をしようとするぼくの言葉にかぶせるように、黒羽さんが言葉を続ける。
「わたしだって、できればあの、不気味なヌルヌル巻貝を克服したいと思っていますし。ついさっき、その第一歩を踏み出したところでもあります」
背筋を張る黒羽さんに、ぼくはため息混じりにたずねる。
「チラッと見ただけじゃなかった?」
「ええ。それでも、第一歩は第一歩。それに、大群が得意じゃないのなら、一匹ずつ、じっと見ていくのがいいらしいです。あるえらい人がそう言ってました」
ぼくらは見つめ合う。
黒羽さんは平然とした表情を崩さない。
それでぼくはつい、笑ってしまう。
「それ、ぼくがさっき言ったことじゃないか」
「そうでしたっけ?」
黒羽さんはとぼけた表情のまま、自分を指さして見せる。
「一匹ずつ、じっと見つめてみてください。それにわたしなら、お互いに弱みを知り合った仲じゃないですか。楽勝ですよ」
「……きみはカタツムリが苦手で、クラスメイトにカッコ悪いところを見られたくない」
黒羽さんはうなずく。
「そしてあなたはクモに機能美を感じる妙な人で、クラスメイトと話すのがちょっと苦手。それに加えて、あなたはわたしをあの難局から救ってくれた」
そうして黒羽さんは、ぼくに微笑みかける。
「すなわち、優しい、ということです」
ぼくはつい、そんな彼女の言葉にうなずいてしまう。
そうしてぼくらは校門から続くアプローチを進み、校舎が近付いてくる。
それまで見当たらなかった他の生徒が、昇降口の付近にパラパラと見える。
そのとき、ふと、黒羽さんがつぶやく。
「マズいですね。誰かクラスメイトがもう来ていたら、証拠隠滅ができなくなる」
彼女は素早くぼくに目を向け、てきぱきとした口調で言う。
「それじゃ、わたしはもう行きますので。重ね重ねになりますが、今日は本当に、ありがとうございました」
黒羽さんは、さっと軽やかに校舎へ向かって駆け出す。
数歩進んで振り返り、小さく手を振りながらぼくに言う。
「クラスでもまた、お話しましょうね!」
※※※
そうしてぼくたちは友達になった。
六月の中頃、明け方に雨の降った朝。
黒羽つぐみの手を引いたこの朝のことは、たぶんこの先もずっと忘れない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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